一話 一般的転生者
――サナ、それが俺に与えられた名前。
曾祖父母の名にちなんで授けられたと、幼い頃祖母から聞いた。
俺の異世界での家族は絵に書いたようなごくごく平凡な家庭だ。
家族はおおらかで優しく、時には小言も――それこそ耳が痛くなるまで言われるくらいだ。
今はこうして、平日の農作業をサボって納屋のわらにつつまれながら、ぼーっとほけてるところだ。
きっとまた小言を言われるが、知ったこっちゃない。
せっかく異世界に来たのだ。しがらみや、嫌なことしかなかったあの世界とは違い、ここでは心穏やかに過ごせる。
なのに暑い昼間っから汗だくになって働くのは、今はちょっとごめんだね。
――そう、過去のあの世界ではこんなことは決して許されなかった。
「サナ姉!! やっぱりここにいた!!」
やれやれ、いつもの号令係がやっと俺に発破をかけにきたようだ。いつもご苦労なこって……。
「アン、私はサナっていう田舎娘ではありませんよ。たろうだ……たろうと呼べ!」
『たろう』とは、俺の元いた世界での旧名だ。
俺は生まれてからすぐ、自分のことを転生者だと自覚していた。
生まれてから歳が増えるたびに、転生前の鮮明な記憶は次第に薄れていったが、なぜか名前だけは忘れずに記憶の中に確かに残ってきている。
そしてもう一つ確かに覚えてるのは、俺は、男だった!
悲しいことに、今は大切なモノを一つ無くし立派な一人の少女に生まれ変わった。
女湯に合法で入れるとか、いいことも多いが……やはり無いのはとても悲しいものである。
あふれる涙はとうの昔に枕元へと置いてきた。
「そのネタ……いつまでスベれば気が済むのかしら?サ、ナ、姉さま?」
「ふっふっ……スベりまくって床下に落とされるようになるまでだよ。それで晴れて一人前の芸人になれるんだから!」
俺の全身全霊のネタに、無表情で応えるアン。
まるで、蛇のような目つきでこちらを真っ直ぐに捉えている……。
俺の三つ下の妹、アンはいずれは町内一の美人になると、ひそかに同年代の子からの関心を引いているとても可愛らしい少女だ。
小さい顔に大きな目と整った輪郭……そして10歳とは思えない豊かな胸!今は女だが、前世が男である俺なら間違いなく告白一直線だろう!
――内面を知っていなければの話だが。
「ところで、たろう姉さま? 母さんが先程、鬼神の形相で姉さまの部屋に何かをしにいかれたみたいたけど、大丈夫かしら? 何も起こらないといいのだけれど……」
アンが蛇のごとき視線を変えず、醜悪に頬を歪ませる。
これは……まずい!!
「ア、アン? 私は納屋で……そう! 冬に向けて足りなくなるかもしれないわらの量を確認してたの! でしょ?!」俺の問いにアンは呆れ顔とため息で答えた。
「今は夏だし、しかもわらは秋には増えるし……」
「いやーでも! もしかしたらってことも……ね、ね?!」
俺の慌てふためく様子をおかしそうに眺める我が妹アン……。
アンは追い詰められたカエルを仕留めるかのごとく、その視線を再び俺に向けた。
「その言い訳、母さんに通じればいいけどねぇ……お姉さま」
アンは体を前のめり気味に、その殺気にも近いオーラと視線、そして言葉をまじまじと俺に向ける。
すぐに俺の足は家の二階に向けられた。い、急がねば!
「ア、アン? 私は部屋に作業帽子を忘れたことを思い出したから、ちょっと部屋によったらすぐ畑にいくから!」
「姉さん? その帽子は部屋じゃなくて、頭に忘れてるよ。」
その言葉を聞いて、俺は顔全体に熱い血がものすごい勢いで広がっていくのを感じた。
「今日は! この帽子の気分じゃないの!! スペアの帽子をかぶりたい気分なの!」
俺はあまりにも恥ずかしくて、つい帽子を全速力で頭から外し、腹の底から声を吐き出した。
「なんでもいいから、早く行ったら? ねぇ? た、ろ、う」
なんてひどい妹だ!俺のネタをこんなふうに使うなんて!!
後で首筋に井戸水かけてやる。
そう心の中で誓いながら、俺は妹には目もくれず急いで家の二階へと走り出した。まあ正確に言えば、合わせられないのだが……。
しかし、なぜだろう。
今の気分はなんとなく、『走れメロス』って感じだ。
そんなよくわからない感情を胸に抱えながらも、体は確実に家の二階を捕捉し、そこに俺を導いている。
今は太陽が山から顔を出し、しばらく登った頃。
こうして俺の『サナ』としてのいつもの日常が少し遅めに始まった。