36 ユリエル side
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手帳を手渡すと、カトリーナ嬢は書かれている文字を指で辿った。同時に視線が左右にずれていく様子から、彼女は確かに未知の文字言動を理解しているのだと確信した。
ぱらぱらと頁を繰る音だけが室内に響き、私を含めて誰一人として声を発しない。時折拾えないほど小さな声で何事かを呟いているのはカトリーナ嬢だが、それが驚きの声であるのは見開かれたホリゾンブルーの双眸から窺える。
事前情報から、書かれてあるのは魔工学に関するものだと考えていたが、そうではないのか?
――いや、私に先入観がなかったとは言えない。思い込みは是正されにくい。不確実であるならば、一度は疑いを持つべきだった。
「……あの、付かぬ事をお伺いしたいのですが、これを書かれた方って、ええと、エメライン様のひいおばあ様、でしたよね?」
「ええ。ラステーリア帝国の先々帝の妃だった方です」
「大変不躾な質問ですが、その……ひいおばあ様はご存命でしょうか」
「いいえ、残念ながら。祖母が十六の年に御薨逝されました」
「ご、ごこうせい……?」
「……儚くなられたということだ」
呆れた様子のアーミテイジ卿が噛み砕いた補足説明をするも、当のカトリーナ嬢は「儚く……」と鸚鵡返しをするだけだ。
まさかとは思うが……まだ意味を理解していないのか?
「……エメラインの曾祖母君はお亡くなりになっている」
「ああ、なるほど!」
本当にわかっていなかったのか。
これは言葉遣いの教育も並行してやらせる必要があるな。このままでは彼女を側近くに侍るエメラインの不面目になる。
ちらりとジュリア・アテマ伯爵夫人に視線だけを向ければ、同じ考えに至っていたのか、心得ているとばかりにしっかりと首肯を返された。
素晴らしい。さすがは筆頭侍女だ。
カトリーナ嬢の教育も貴女に一任することにしよう。
「じゃあこれの答えをはっきりと示せる方はもういらっしゃらないんですね……。お話してみたかったなぁ……」
「答えを示す? では貴女にも解読出来なかったということか?」
「あ、いえ、ちゃんと読めます。私が言いたかったのは、これを書いた経緯というか、理由です」
「書いた理由?」
はい、とカトリーナ嬢は頷くと、望郷の思いを噛みしめるように手帳の文字を指でなぞった。
「まだほんの少ししか読めていないので、あくまで推測する範囲でのお話になりますが、ここに書かれているのは相関図と、それに対する考察ですね」
「ソウカンズと考察?」
どういう意味だ? 聞いたこともないぞ。
「ソウカンズとは何だ?」
「えっ? あ〜……そっか、相関図ってここじゃ通じないのか。ええと、複数の人物とか物の関係をわかりやすく、絵のように視覚化した図のことを相関図といいます」
「ほう。それは興味深い。書類作成に転用できそうだな。後で詳細を聞かせてくれ。それで、魔工学については書かれていないのか?」
「わかりました。魔工学は、いま見た範囲では記述されていませんでした」
魔工学の手記ではなかったか……。
さぞ落胆しているだろうとエメラインを気遣えば、微笑みが返された。
眉尻が下がっている。祖母上からの最終通告だと言っていたからな。やはり傷付いてしまったか……。
「エメライン。まだ最後まで確認していないのだから、落胆するのは時期尚早じゃないかな。解読が貴女の救いになるかは分からないが、どのような結果でも私は貴女に寄り添うから。もしエメラインの意に沿わないものであっても、可能な範囲でいいから出来るだけ傷つかないでほしい」
「ユリエル様……」
どんな時でも傍にいる。抱くものは喜怒哀楽のどれでもいい。それがエメラインの感情であるならば、厭う理由など私にはない。
額にかかる髪に口付けをして、途端頬を染めたエメラインの腰を抱き寄せる。抗議の視線と微々たる抵抗を黙殺し、距離感は常にこれが好ましいと満足した。
「カトリーナ嬢、解読にはどれほどの日数がかかる?」
カトリーナ嬢が向けてくる半眼など痛くも痒くもない。悪いとは思っていないし、反省もしないぞ。
これからエメライン付きのメイドになるのだから、日常の一幕だと早々に慣れてしまうことをお勧めするよ。
「……………そうですね、文字が消えかけている部分も見られますから、お仕事の合間や休憩時間、終業後に読み進めたとして、二週間ほど頂ければ判読はできるかと」
「まずは解読に専念して頂きたいのです。メイドのお仕事は全ての解読を終えてからで構いません。いいわね、ジュリア?」
「仰せのままに」
「えっ。本当にいいんですか?」
「主であるエメライン様の仰せ言です。まずは解読を優先なさい」
わお、鶴の一声、とよく分からない理由で感嘆している。
まず第一にエメラインの言葉を優先すること。四の五の言わずに承諾したアテマ伯爵夫人が正解だ。カトリーナ嬢、よく学ぶように。
「わかりました。読破を優先します。となると、読み解くことに大半の時間を割けるから、たぶん四、五日あれば読み終わると思います」
「まあ! 本当ですの!? では是非専念なさってくださいっ」
ぱっと花が綻んだように笑むエメラインは本当に愛らしい。
その花笑みは私にこそ向けてほしいと常々思っているのだが、カトリーナ嬢が訪れてからはちっともこちらを見ない。彼女を側付きに任じたのは都合が良かったからだが、少々早まったかもしれない。思わぬ伏兵だった。
「カトリーナ嬢。今わかっている分だけでいい。手記についてもっと詳細な情報がほしい」
多少カトリーナ嬢の存在を忌々しく思いながらも、王太子の顔は崩さない。
「あ、はい。まず、エメライン様のひいおばあ様が、私と同じ日本からの転生者だったことが前提にあります」
「それは絶対、なのだな?」
「はい。日本語を転生者に習った可能性も考えましたが、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットを使いこなしているようなので、元々日本語をご存じだった、と考えた方が自然です。こちらにはない相関図を描かれていることが何よりの証拠だと思いますし、それに対する考察が、明らかにあちらに存在した設定資料集の裏話関係なんですよね」
「それは貴女の言う年代記のことだろうか?」
「ん〜……まあ、その解釈で大丈夫、だと思います。正確にはちょっと違うんですけどね。いやでもこちらにしてみたら、設定資料集なんて年代記と変わらないか……。えーっと、はい、年代記だと考えていただいて構いません」
私たちの認識と少々齟齬があるようだが、前世の世界とやらに存在したものを、こちらの言語に変換するのはなかなかに難しいのかもしれない。
「エメライン様のひいおばあ様が生きた年代で、本来ならば知り得るはずのない情報がここには記されています。これを解読できる人が今まで誰もいなかったことは幸いだったと思います。これを敵国や政敵が読み解けていたら、ヴェスタース王国や王家そのものが丸裸状態でしたよ」
「何!? 我が国の機密情報まで記述されているのか!?」
「はい。例に挙げるなら、魔物の侵入を阻む結界の大本、タリスマンに関することも書かれています。タリスマンが何で出来ているか、と」
私は絶句した。それこそ機密中の機密だ。
タリスマンが何から生み出されたのか、王族以外になぜ扱えぬのか、それを知るのは王家の者でも限られている。
「―――――カトリーナ嬢。それは決して知ってはならないもので、口にしてもならないものだ。王太子妃になる者でない限り、知れば投獄、最悪死罪となる」
「えっ!?」
真っ青になるカトリーナ嬢と、息を呑む面々。
そう、これ以上の情報を口にしていれば、アーミテイジ卿も、アテマ伯爵とその夫人も、侍女たちも、私付きの従僕も、この場にいる全員の首が物理的に飛んでいた。
「どうやら手記は、とんでもない代物のようだ」
「あのっ、わ、私っっ」
「ああ、わかっている。貴女はタリスマンに触れただけで、機密を暴露していない。していれば庇い立てなど不可能だが、ぎりぎり伏せておける程度で止めている。解読を命じたのは私だ。貴女だけの責任には出来ない」
「ユリエル様。これは口頭で内容報告を受けるべきかと。翻訳を残すべきではありませんわ。そしてそれを聞くのも、ユリエル様とわたくしだけにすべきです。ジュリアたちを巻き込めません」
「そうだな。私も同意見だ」
さすがエメラインだ。カトリーナ嬢の一言で死人が出ていたかもしれない状況で、狼狽えることなく冷静に判断できている。
「そしてカトリーナ様――いえ。キティの処遇ですが、依頼しなければ知ることはなかったかもしれません。そして機密情報の塊である曾祖母様の遺品は、キティでなければ読み解けません。我が国のことが書かれているならば、帝国のことも書かれているかもしれません。どちらにしても、キティの協力は必要です。我が国の益となるならば、彼女は特別な恩典をもって保護すべきですわ」
「エメライン様……っっ」
涙目になって縋るようにエメラインを見つめている。
確かに、ラステーリア帝国の機密情報も記述されている可能性はある。それは国防の意味でも重要であり、私が最も欲するものでもある。
タリスマンに関する秘匿情報を知ったカトリーナ嬢を人知れず排除するのは簡単だが、生かして側に置いた場合の利点が大きい。ここはエメラインの意見を取り入れるべきだろう。
「わかった。特例として恩典を与える」
ぱっと表情の明るくなったカトリーナ嬢を見据えて、口の軽さがそのまま自身の命運を分けると仄めかす。
「だが一切の口外を禁ずる。如何なる手段であっても、手記に関わる内容を他者へ漏らすことは赦されない。私とエメラインにのみ、解読結果を報告すること」
「は、はい!!」
「悪いが魔法で制約してもらう。主は変わらずエメラインだ。彼女の許可なく行動は出来なくなる。ある程度の自由を妨げることになるが、制約してくれるな?」
これは相談ではない。制約しなければ命の保証はしないと脅迫している。
それを感じ取っているのか、カトリーナ嬢は青ざめたまま何度も頷く。
「よろしい。では王太子の権限でカトリーナ嬢に制約の紋を刻む。これは本来、王家の影に施す紋だ」
はっとしたように、カトリーナ嬢がアーミテイジ卿を顧みた。
「そうだ。アーミテイジ卿にも同じ紋が声帯に刻まれている。王家に背けば首が締まる。文字通り、物理的にな」
「そんな……」
「我ら影にとって、誓紋は誉れだ。それで罰を受けるならば、それは我らに二心があった証拠になる。誓紋が発動するような事態は、影にとって最大の恥だ」
迷いなく言い切ったアーミテイジ卿を呆然と眺めていたカトリーナ嬢だったが、「アーミテイジ様がそれほどの覚悟をお持ちなら、私も共にありたい」と、腹を括った様子でじっとこちらを見返してきた。
ははは。渋面を作っているが、アーミテイジ卿。もう諦めろ。どうせ貴殿は逃げられない。
「声帯に焼印を施すようなものだから、数秒ほどだが気道が塞がる。息を吸ったら、いいと言うまで息を止めていろ」
「はいっ」
強張るカトリーナ嬢が息を吸い込み、止めた。そのまま待て、と声をかけ、練り上げた魔力で誓紋を刻む。
少し痛みがあるのか、それとも熱を感じるのか。僅かに眉根が寄ったが、金色の魔法陣は喉に吸収され、問題なく刻まれた。
「もういいぞ」
カトリーナ嬢は、はあ、と詰めていた息を吐き出し、喉元に触れながら何度か深呼吸をする。「これでアーミテイジ様とお揃いだ」と嬉しそうに微笑むカトリーナ嬢を、アーミテイジ卿が苦り切った顔で見ていた。「私とお揃いではなく、王家の影とお揃いなのだ」と言い返しているが、カトリーナ嬢にとっては貴殿とお揃いであることが重要なのだから、恋する乙女の認識軌道修正は不可能だと思うぞ。
これで彼女はエメラインの側を離れられなくなった。アーミテイジ卿もエメラインの護衛に戻れて満足だろう。
ハウリンド公爵からも物理的に引き離せて、結果私の都合の良い展開になっている。
「キティ。これからよろしくお願いしますね」
「はい! 朝から晩まで一日中、誠心誠意エメライン様に尽くします!」
何故そうなる。
ああ、やっぱり邪魔だなぁ。




