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「ちょっと! 聞いてるの!?」
突如、目の前のテーブルを激しく叩かれ、明後日に意識を飛ばしていたわたくしはびくりと肩を揺らしてしまいました。テーブルを叩いたのは、ホリゾンブルーの愛らしい瞳を怒りに吊り上げたカトリーナ様です。
嫌ですわ、わたくしったら人前で呆けるなどみっともない。叱責されて当然ですわね。
「さっきから一言も話さないけど、私のこと無視して馬鹿にしてるのね!」
え。どうしてそう曲解なさったのかしら。いえ、そうね。無視したと思われても仕方ない態度をわたくしは取っているわ。だってカトリーナ様のお話を聞いていなかったもの。本当に失礼だわ。
でも、一言お伝えしなくてはいけないわね。これからのカトリーナ様に必要なことよ。
「申し訳ありません。そのようなつもりではなかったのですが、聞いておりませんでしたわ」
「はあ!? やっぱり馬鹿にして!」
「いえ、そうではなく。あの、カトリーナ様。淑女たる者、そう声を荒げるものではございませんわ。感情を露にすることははしたないことであると――」
「酷い! ユリエル様に愛されてる私が憎いからって、そんな酷いことを言うなんて!」
「え? いえ、あの」
「どうして私を責めるの!? ユリエル様があなたを嫌っているのは私のせいじゃないわ!」
まあ……殿下が、わたくしを嫌って……?
それは初耳ですわ……そう、そうだったのね。わたくしは、そんなことにさえちっとも気づかずに、殿下のお心を乱していましたのね。なんと不敬な……。
「いい加減になさって。それ以上の暴言は我慢なりませんわ」
ああ、シルヴィア様。いいのです。わたくしが至らないばかりに、お優しい殿下はずっと苦しんでおられたのですもの。嫌われてしまった理由にさっぱり心当たりはございませんが、それはわたくしに察する能力が欠如していたからに違いありません。
ですからそのように、ウィスタリアの美しい瞳を剣呑に細めないでくださいませ。わたくしは柔らかく揺れる、いつもの輝きがとても好きですわ。
「あなたたちが私に暴言を吐いているのに、また私のせいにするのね……!」
「言い掛かりも大概に――」
「何を騒いでいる」
カフェテリアに現れたのは、サディアス・エスト・フランクリン公爵令息とエゼキエル・ファーン・グリフィス侯爵令息をお連れした、ユリエル・アイヴィー・ヴェスタース王太子殿下です。
わたくしを筆頭に、シルヴィア様やセラフィーナ様、カフェテリアにいらっしゃる生徒の皆様がそれぞれ殿下へご挨拶をします。ところが。
「ユリエル様ぁ!」
視界の端をアンバーの髪色が流れて行きました。
カトリーナ様が殿下へ駆け寄り、腕に抱きついたのです。わたくしは驚きのあまりつい凝視してしまいました。
淑女たる者、人前で殿方に触れるなどあってはなりません。ましてや抱きつくなど以ての外。殿下は本当にカトリーナ様に淑女教育をされていらっしゃるのかしら。ああ、いけないわ。そんなことを考えてはだめよ。殿下のなさることにわたくしが口を出してはいけないわ。
「エメライン様が私を責めるのです! 酷いことをたくさん言われました!」
……………はい?
「なに? それは本当なのか、エメライン」
いいえ。寝耳に水です、殿下。
「本当です! ユリエル様は私の言うことが信じられないんですか?」
「いや、そういうことではない」
「じゃあ慰めてください。今日も教会まで送ってくださいね?」
「ああ、そうしよう。……エメライン。あとで王宮へ来るように」
「承知致しました」
ちらりとわたくしに冷えた視線を寄越したあと、殿下はカトリーナ様を伴ってカフェテリアを去って行かれました。
お叱りを頂くことになるのかしら……。わたくしは責めるようなことは何も言っておりませんが、余計なことを口にしてしまったのかもしれませんね。わたくしにどのような意図があろうとも、カトリーナ様がそれを責められていると感じてしまったのなら、それは真実わたくしが責め立てたことになってしまうのでしょう。
言い方が悪かったのかもしれませんわね。言葉って難しいです……。カトリーナ様を深く傷つけてしまいました。なんと愚かな真似を。
きっと殿下は失望なさったのね。申し開きのしようがありませんわ。その流れで婚約解消を打診されるかもしれません。これまで王妃教育を施してくださった王妃様や先生方に申し訳ありませんわ……。
いえ、これは逆によい機会かもしれませんわね? お父様もお兄様も王宮にいらっしゃるだろうし、鉄は熱いうちに打てと言いますし、婚約解消を進めて頂くべきだわ。あら、意味が違ったかしら? まあいいわ。
「アークライト嬢」
「はい、フランクリン様」
「あまり目立たぬよう忠告させていただく」
フランクリン様が、ウィローグリーンの瞳を細めてそう苦言を呈されました。
ああ、やはり端から見ればわたくしの物言いはカトリーナ様を傷つけるものでしたのね。なんてこと!
「申し訳ございません」
「サディアス様! エメライン様はっ」
「シルヴィア。君も大人しくしていろ。余計な真似はするな」
「な……!」
「セラフィーナ。お前もだ」
ああ、なんてこと……。
わたくしが至らないばかりに、シルヴィア様だけでなくセラフィーナ様までお小言を頂戴してしまいましたわ。
グリフィス様は怜悧なシャルトルーズグリーンの瞳でセラフィーナ様をひたと見据えておられます。
セラフィーナ様も負けじとジョンブリアンの瞳を細めました。
「……エゼキエル様。納得いきませんわ」
「理解は求めていない。カトリーナに構うな」
セラフィーナ様の、ひゅっと息を呑む音がやけに耳に残ります。カトリーナと、呼び捨てになさいますのね……婚約者であるセラフィーナ様の前で。
ご令嬢のファーストネームを呼べるのは、家族以外では婚約者だけ。グリフィス様がカトリーナ様をそうお呼びになった。聞いておられたのに咎めないということは、きっとフランクリン様も〝カトリーナ〟とお呼びしているのでしょう。そしてきっと、殿下も。
「……………なんてこと」
「忠告はしたからな。では失礼する」
蒼白になったシルヴィア様とセラフィーナ様をその場に残して、お二人は殿下とカトリーナ様が去った方へ向かわれました。
カフェテリアはしんと静まり返ったまま、誰もが口を噤んでいます。そろりと視線は動いているようですが、こちらに配慮なさっているのでしょう、微動だにされません。
わたくしは良いのですが、お二人は……。
貴族の縁談など、殿下とわたくしのように政略のために行われるものです。けれどシルヴィア様とセラフィーナ様は、始まりは家の利益を求めた婚約であっても、婚約者様ととても素晴らしい関係を築いておられました。互いを尊重し、慈しみ、そして何より愛し合っていらっしゃった。そんなフランクリン様とグリフィス様が、シルヴィア様とセラフィーナ様にあのような物言いをなさるなんて信じられません。
「シルヴィア様、セラフィーナ様……」
お二人の青ざめた顔色は戻ることなく、カフェテリアは仄暗い空気に沈んだまま、物音ひとつしませんでした。