近くて遠い殺意 ~怪奇捜査探偵ホンドアウル~
「やっぱり、ここにいると思ったぜ」
グレーの背広を着た大柄な男が、テムズ川を望めるオープンカフェの一角に腰を下ろした。テーブルを挟んで座っている対面の男が、読んでいた新聞紙を折り曲げてその顔を見せた。
「これは、ヴォーン警部」
小さな丸眼鏡をかけて、高級なスーツを着こなしている紳士然とした男――ホンドアウル卿は、自分に声を掛けてきた男の名を呼んだ。ヴォーンは「挨拶は抜きだ。読んでくれ」と、手にしていた書類を無造作にテーブルの上に投げる。卿が飲んでいた紅茶の水面に波紋が作られた。ホンドアウルが新聞紙を折りたたみ、その書類を手に取ったところで、
「お前も座れ」
ヴォーンは空いている椅子に顎をしゃくって、自分の後ろに直立不動している若い男にも着座するよう促した。
「はい」
若い男は言われたとおりに腰を下ろす。その視線を対面の男――ホンドアウルから離さないまま。
「最近配属された若いのだ」
ヴォーンは「若いの」に向かって親指を差した。
「アッシュ・デミトリです」
精悍な顔立ちをした若い男は、ヴォーンが紹介してくれなかった自分の名を名乗った。対するホンドアウルは目礼を寄越しただけで、すぐに書類――ある事件の捜査資料――に視線を戻した。
一週間前、ロンドン市街のアパートの一室から、999番(日本で言う110番)の緊急通報があった。就寝時に何者かに襲撃され包丁で刺されたと、息も絶え絶えとなった被害者自らの通報だった。住所を聞いて駆けつけた救急と警察は、施錠がされた玄関ドア越しに通報者と思われる男の呻き声を聞いた。ドアを叩き、鍵を開けるよう要請したが、男は動けないほどの重傷を負っているのか、それとも気を失っているのか、一向に解錠される気配がない。やむなく警察はドアを破り室内に進入、そこで腹から血を流して床に横たわっている被害者を発見した。まだ息のあった被害者がすぐに運び出されると、警察は室内の捜索を開始した。が、そこで奇妙なことに気が付く。部屋の窓は全て内側から施錠されていたのだ。それは男がいた寝室に限らず、居間、キッチン、洗面所、浴室など他の部屋も同様だった。玄関ドアにも鍵が掛っていたことは、大勢の警察官、救急隊員も確認している。にも関わらず、部屋の中には被害者である男以外、誰の姿もなかったのだ。
「……つまり、現場は密室で、被害者を襲った犯人が忽然と姿を消してしまったと」
資料から目を上げたホンドアウルが、ヴォーンに確認した。
「そういうことだ。ちなみに現場に踏み込んでから、玄関には終始数名の警察官が見張りに立っていたから、ドアが破られたあとで犯人が逃げたということもありえない」ヴォーンは、注文を取りに来たウエイターに、コーヒー二つ、と指を二本立て、「この事件、お前にやる」
「……どういうことですか?」
「まあ、先を読め」
ヴォーンは資料を読み進めるよう促した。言われたとおりホンドアウルは、紅茶をひと口飲んでから再び書類に目を落とした。
治療の末、一命を取り留めた被害者、ボリス・ウイリアムは、警察からの聴取に応じた。
事件の起きた夜、ウイリアムは午後十一時半頃にベッドに入り眠りについたあと、どれほどの時間が経過したのか分からないが、突然体を揺すられて目を覚ました。自分を揺すり起こした人間が何者かは、その背後にあるデスクスタンドが逆光になって、まったく確認できなかった。ともかくウイリアムが、覚醒しきっていない朦朧とした頭で現在の状況を飲み込もうとしていた途中、その人物は彼の両肩を掴み、こう尋ねてきたという。「お前は誰だ?」と。少しばかり頭の中の霧が晴れたウイリアムは、相手が強盗である可能性を考えに入れ、下手に刺激をしないよう、言われたとおりに答えた。「ボリス・ウイリアム」と。すると数秒の間を置いて、相手は次の質問を投げてきた。「何をしているんだ?」「何を? 仕事か?」そう答えたとき、相手の喉がごくりと鳴った音をウイリアムは耳にした。彼が正直に、家電修理工の職に就いていることを答えた、その瞬間、肩を掴む相手の手に突然力が籠められた。相手は震えていた。その震えが両肩越しにウイリアムにも伝わってきた。ウイリアムは横目で枕元のサイドテーブルを見た。そこには彼の携帯電話が置いてある。何とか隙を見つけて緊急通報できないか。ウイリアムがそう思案していたさなか、謎の闖入者が両肩から手を離した、直後、ウイリアムは腹部に焼けるような痛みを感じた。声にならない悲鳴を絞り出しながら、ウイリアムはベッドから転げ落ちる。その瞬間、相手が右手に何かを持っているのをウイリアムは視認し、それが自分がいつも使っている包丁であることと、その刀身が真っ赤な液体で濡れていることを見て取った。このまま床に這いつくばったままでは間違いなく殺される、と恐怖に駆られたウイリアムは、激痛に耐えながらも立ち上がり、相手に向かって跳びかかった。確かに指先が人の肌に食い込む感触を憶え、その人影とウイリアムは取っ組み合いを演じた。が、それも僅かの間のことだった。すぐにウイリアムは腹部の傷みに耐えきれず元のように床に転がることとなった。それでも彼は最後の力を振り絞り、腕を伸ばしてサイドテーブルから携帯電話を掴み取ると999番通報を行った。記録によると通報時刻は午前一時四十五分。ウイリアムの記憶はそこからなく、次に気が付いたときには病院のベッドの上だったという。
「凶器となった包丁は、ウイリアムさんのすぐそばに落ちていたのですね。包丁からは指紋が検出されていますね」ホンドアウルは鑑識資料のページに目を移して、「しかも、ウイリアムさんの爪の間から皮膚片も採取されている。これはつまり、彼を襲った犯人のものと考えて間違いないわけですね」
運ばれてきたコーヒーに、ヴォーンはミルクと砂糖を投げ込むように入れながら、
「その指紋と皮膚片が問題だ。いや、ある意味問題にならなかった、と言っていいかもな」
「……どういうことです?」
「指紋も皮膚片から検出されたDNAも、持ち主が判明した」
「持ち主とは、つまり犯人の? ということは、襲撃犯は警視庁のデータベースにあった前科者?」
「本人だ」
「……はい?」
「本人のものと一致したんだ。包丁の指紋も、爪の間に残っていた皮膚片も、被害者――といちおう呼んでおくがな――であるボリス・ウイリアム本人のものだったんだよ」
それを聞くと、ホンドアウルは嘆息して、紅茶のカップを口元に運んだ。
「つまり、警察の判断としては……」ホンドアウルはカップをソーサーに置いて、「この傷害事件は、ウイリアムさんの狂言だったのではないか、と」
「そう考えるしかねえだろ。指紋とDNAって物的証拠に加えて、犯人が消えた――いや、そもそも、そんなやつがいたかどうかも分からねえんだからな」
「ウイリアムさんは、自分で自分の腹部を包丁で刺して、自分の体に爪を立てたと」
「ああ、やつの体には、何箇所か引っかかれたような傷もあった。犯人と取っ組み合いをしたときに――あくまで当人がそう言い張ってるわけだが――付けられたものだそうだがね」
「……どうして、ウイリアムさんはそんなことを?」
「それが分かりゃ苦労しない。何か保険絡みの狂言かとも思ったが、あいつはそういったものは一切契約していなかった」
「狂言だとしても、彼が証言した犯人とのやり取りは、どうもあやふやとしすぎていますね。名前と職業を尋ねてきて、それに答えたら、いきなり刺してきたとは」
「だろう」
「それで、どうしてこの案件を私に?」
「俺には、どうにも……」ヴォーンは白いものが混じり始めた頭髪を掻いて、「やつの証言を疑う気になれなくてな」
「ウイリアムさんのことですね」
「ああ、俺も伊達に長いこと刑事で飯を食ってるわけじゃない。ウイリアムが事件のことを話すときの、あの声、表情、怯え方、どれを取っても、嘘を吐いているとは思えねえんだな……。だから、この事件、お前さんの領分なんじゃないかってな」
「刑事の勘、ですか」
「そんな大層なもんじゃねえよ」薄い笑みを浮かべて、ヴォーンは残ったコーヒーを一気に飲み干すと、「またいつもみてえに、上への報告はお前さんのほうで何とかしてくれるんだろ。こんな不可解な事件が未解決のままじゃあ、ロンドン警視庁の看板にケチがついちまうからな」
椅子を鳴らして立ち上がった。それに釣られるように、傍らに控えていたアッシュも、慌てた様子でカップを空にして起立する。彼のコーヒーはブラックのままだった。
「んじゃあ、よろしく頼んだぜ」
ヴォーンは、財布から二杯分のコーヒー代金を支払うに十分な額の札を抜き出してテーブルに置くと、踵を返した。最後に一度ホンドアウルに視線を向けてから、アッシュもその背中を追う。
オープンカフェが雑踏の向こうに見えなくなる程に離れてから、
「あの男が、ホンドアウル卿ですか」
追いついて並んだアッシュがヴォーンを見た。
「ああ、俺の下についた以上、お前にも会わせておこうと思ってな」
「本当なんですか……」アッシュは若干声をひそめて、「あの男が……怪物や幽霊の類いを相手しているっていうのは?」
「さあな」ヴォーンはおかしそうな笑みを浮かべて、「だが、まあ、人間の仕業とは思えない異様な事件が起きると、あいつのところに持っていくって慣例が警視庁にはある。それで、実際あいつが何とかしてしまうのさ。事件自体にも、いかにもそれっぽい“常識的な理屈”を付けてな。だから、こっちの看板にも傷がつかずに済む」
「人知れず怪物と戦って事件を解決していると?」
それを聞くとヴォーンは、はは、と声を出して笑った。だが、アッシュのほうは神妙な表情を崩さないまま、
「まるで、現代に甦ったヴァン・ヘルシングですね」
「そんな大層なモンじゃねえだろ」
ヴォーンはさらに顔に皺を作る。
「確かに」とアッシュは、「ヴァン・ヘルシングのイメージには遠い、名前のとおり、ミミズクみたいに捉えどころのない男でしたが……」
カフェに残ったホンドアウルは、二杯目の紅茶カップを口に運びながら、資料の精読を始めた。
被害者、ボリス・ウイリアム。年齢三十八才。職業は家電製品の修理工。ソールズベリー出身。ハイスクール卒業と同時に単身ロンドンに引っ越し、以来同じアパートでひとり暮らしを続けている。職場での評判に特に目立つものなし。トラブルを起こさない代わりに、誰とも親しく付き合っている様子もなく、恨みを買う、あるいは抱かれるような相手は捜査上浮上していない。趣味は絵を描くこと。ヴォーンの話のとおり、凶器となった包丁の柄に残された指紋と、爪の間に残った皮膚片は、鑑定の結果ウイリアム本人のものと断定されている。ちなみに凶器をはじめ現場に流されていた血液もすべて、ウイリアム自身のものしか検出されていない。
次にホンドアウルは現場の写真を眺めた。部屋に物が散乱しているのは、犯行が行われたせいだけではなく、常態的なものであろうことが察せられる。机の上には、底に僅かにウイスキーの琥珀が残った瓶と、何日も洗っていないであろうグラスが数個。皿の上で干涸らびたチーズ。封も切られず山になっているダイレクトメールの束。床に置かれた籠の中で洗濯の順番待ちをしている衣類たちは、床にまでその行列を長く伸ばしている。壁に掛ったカレンダーの横には、仕事の勤務表らしき書類が画鋲で張り付けにされていた。
カップを空にしたホンドアウルは、もう一度資料に目を落としてから立ち上がった。彼が視線を注いだのは、“趣味は絵を描くこと”という項目。
病室のベッドを前に、ホンドアウルはスツールに腰を下ろした。ベッドに横たわるウイリアムは、今はリクライニング機能を使って上体を起こし、目の前の男と視線を合わせている。
「刑事ではないのですか?」
ウイリアムは、男――ホンドアウルが身につけている、刑事のものにしては高級な靴やスーツ、腕時計などにひとしきり視線を這わせた。
「ええ」と落ち着いた声で答えてホンドアウルは、「ですが、あなたの身に降りかかった事件の謎を解くことは出来ます」
「えっ?」ウイリアムはベッドの中で身を揺すって、「じゃ、じゃあ、犯人が分かったのですか?」
だが、ホンドアウルは彼の疑問に答えないまま、
「ところで、ウイリアムさん、あなたがハイスクール卒業と同時にロンドンにやって来た、その目的は何なのでしょう」
問いかけられたウイリアムは、視線を自分の下半身を覆う毛布に落とすと、黙り込んでしまった。
「調べさせてもらいました、ウイリアムさん。あなたは……プロの絵描きになるという夢を追って、ここロンドンに来たのですよね」
その言葉を聞くと、ウイリアムは顔を苦渋で満たした。ホンドアウルのほうは、冷静な表情を変えないまま、
「幼い頃からの夢だったそうですね。ハイスクール時代まで、常に学年で一番の絵心を持っていたあなたは、ハイスクール卒業と同時に大都会ロンドンに出た。自分の腕を試すために……いえ、もしかしたらあなたは、幼い頃に培ってきた経験と自信から、自分の腕ならばプロの絵描きになれて当然、という思いを抱いていたのかもしれません。ですが……英国中から英才が集まってくるロンドンで勝負するというのは、そんなに甘いことではなかった」
「やめて下さい!」ウイリアムは語気を荒げる。「それと今度の事件と、いったい何の関係が?」
しかし、ホンドアウルの口は止まらない。
「数々の公募、コンテストでことごとく落選の憂き目にあってしまったあなたは、徐々に自分の絵に対しての自信をなくしてしまった。それまで抱えていた思いが大きなものであったがゆえ、その反動は大きかった。いつしかあなたは、絵を描くことをやめてしまい、職場と自宅を往復するだけの生活を繰り返すようになります――」
「やめろ!」
ウイリアムの一喝がホンドアウルの言葉を遮った。
「お前……事件のことを話しに来たんじゃなかったのか?」
大きな声を上げてしまったことを恥じたのか、ウイリアムは、ちらと周囲に目くばせをした。病室は四人部屋だったが、今は他の入院患者は部屋を出ており、病室内にいるのは彼とホンドアウルの二人だけだった。
「犯人の見当はついています」
「だ、誰なんだ?」
「あなたに恨みを持つものです」
「恨み? 俺に? ……馬鹿な。そんなやつは見当が付かない。仕事上のいざこざが多少はあったかもしれないが、寝込みを襲われて包丁で刺されるほどのものでは全然……」
「いえ、います」
「だから、誰なんだ?」
「その前に、ひとつ最終確認を、失礼――」
やおら立ち上がったホンドアウルは、ベッドに近づくと、ウイリアムが着ている院内着の後ろ襟を掴んで引き延ばした。
「お、おい――!」
「ウイリアムさん」抵抗される前にホンドアウルは、露わになったウイリアムの後ろ首を指さし、「ここに、傷跡がありますね」
「えっ?」
ウイリアムも確認しようとするが、その位置は完全な死角で、いくら頭を振っても自分の肉眼で視認することは不可能だった。
「そうなのか?」
彼自身は目に出来なかったが、ホンドアウルが指さした場所の皮膚には、確かに小さな傷跡があった。
「失礼しました」ホンドアウルはウイリアムの襟を正してやると、もとのようにスツールに腰を下ろし、「ですが、これで犯人が分かりました」
「なにっ?」
「犯人は……」
ウイリアムの喉がごくりと鳴り、頬を汗が伝う。
「あなたです」
「……はあ?」
「犯人は、あなただと申しあげたのです。ボリス・ウイリアムさん」
「……ははっ」
ウイリアムは嘲笑混じりの笑いを漏らした。が、対するホンドアウルは顔色ひとつ変えずに、
「現場は完全な密室で、凶器となった包丁にはあなたの指紋しか付着していませんでした。加えて、犯人ともみ合った際に引っ掻いたと思われる、あなたの爪の間に残っていた皮膚片のDNAも、あなたのものと一致しています」
「俺の狂言だと、そう言いたいわけか? 馬鹿馬鹿しい」
「狂言、というのとは少し違いますね。確かに、あなたを襲った犯人はあなたです。ですが、あなた自身がやったのではない」
「……わけがわからない」ウイリアムは鼻を鳴らして、「だいたい、お前はさっき、犯人は俺に恨みを持つ人間だと言ったじゃないか。どうして俺が俺自身を恨まなきゃならないんだ?」
「恨んでいると思いますよ」
「だから、何がだ――!」
「ロンドンに出てきたばかりの、あなた自身なら」
「――?」
「時間というものは……」目を丸くしているウイリアムをよそに、ホンドアウルは演説でも始めるかのように語り出した。「射出された弾丸のように、まっすぐに過去から未来に向かって進んでいると思われがちですが、さる機関の研究によって、どうやらそうではないらしいという可能性が示唆されるようになりました。一方向に進んで不可逆なことは変わりませんが、時間の流れというものは、弾丸のように一直線ではなく、自然の河川のように曲がりくねったものだというのです」
ホンドアウルは指揮者のように、右手人差し指で空中に複雑な曲線を描いてみせた。ウイリアムの視線は、ゆっくりとその指先の動きを追う。
「そして」指を止めたホンドアウルは、「この時間の流れというものは、ごくごく稀に、奇跡としか言いようのないアクシデントを引き起こすことがあるそうです。それがどういったものかといいますと、曲がりくねっている時間の流れ同士が接近した箇所で、その流れの中にいるものを、まるで水面から撥ね飛ばすように、時間の下流――つまり、未来へと運んでしまうことがあるというのです」
「……未来へ?」
「はい。この、流れのショートカットとも言うべき現象は、上流から下流へ向けてしか行われないそうです。時間の流れというものは、川のように平面的なものではなくて、過去から未来へ向けて落差の生じている立体的なもの、滝のようなものだとも言えるそうですから。ですが、この現象――時間越流と呼称するそうですが――に見舞われたものも、そのまま恒久的に未来の流れの中に留まることは出来ないのだそうです。時間の自己修正力とも言うべき力が働くのでしょうか、時間越流していられる時間は、二、三分から、長くても十分程度が限界で、それを越えると、すぐに元いた流れの中、つまり、当人にとっての“現在”に引き戻されるというのです。コミカルな例えかもしれませんが、体にゴム紐を括り付けられていて、それが伸びて別の流れに中に落ちても、ゴムの収縮によってすぐに本来の流れの中に引き戻されてしまうような感じでしょうか」
「……」
「しかも、これも時間の自己修復力の作用なのでしょう、時間越流から帰ってきたものは、その間、つまり未来の時間の中にいたときの記憶を、すべてなくしてしまうというのです。未来のことを知ったまま過去に戻ったら、大変なことになってしまいますからね」
「……だ、だから?」
「もうお分かりでしょう。あなたを刺した犯人は、過去のあなた。ここロンドンに出てきて、アパートに居を構えた直後の、まだ絵描きになるという夢に燃えて、そうなれると信じて疑っていなかった頃の、若きボリス・ウイリアムだということです」
「……馬鹿な」
「そう考えれば、完全な密室で犯行が行われたことも、凶器にあなたの指紋しか付いていなかったことも、あなたが引っ掻いた犯人の皮膚片のDNAが、あなたと一致していたことも、全てに説明が付きます」
先ほどホンドアウルが確認した、ウイリアムの首の後ろに付いていた傷跡は、今回の事件によるものではなく、付けられてから二十年近くも経過しているような古傷だった。
「過去の俺が、俺を刺した……? 俺にその記憶がないのは、その、タイム何とかという現象のせい……?」
ホンドアウルは頷く。
「馬鹿な!」ウイリアムは視線を宙に彷徨わせて、「だとしても、どうして俺は……過去の俺は、俺を刺したりなんか……」
「あなた、ハイスクール時代に、知人にこう言ったことがあったそうですね……『もし、絵描きになれなかったら、生きている意味はない』と」
「……!」
その言葉を聞くと、ウイリアムはぴたりと視線を空中に止めて、唾を飲み込んだ。
「ウイリアムさん、あなたはロンドンに出てきてから、ずっと同じアパートの部屋で暮らしています。過去のあなたが現在に時間越流したとて、そこが自分の部屋だと察することに、そして、カレンダーなどの情報から、そこが自分がいた時代から十数年もの未来であることに思い至るのは不可能ではありません。あなたは――過去のあなたのことですが――部屋を見回し、そして愕然とします。どこをどう見ても、絵描きの部屋じゃない。過去のあなたは、ベッドで眠る人物がいることに気付きます。この部屋の――そうとうくたびれているとはいえ――見憶えのあるベッドで寝ている、この人物は、もしや……。過去のあなたは確認せずにはいられません。ベッドに寝ている人物を揺すり起こして尋ねます、名前を。そして……今現在、どんな仕事に就いているのかを……」
ウイリアムの喉が、この日何度目かの音を鳴らした。ホンドアウルは、憐れみと達観が入り交じったような目をして、
「過去のあなたは、時間越流した直後、異変に気付いて護身用に台所から包丁を持って来ていたのでしょうね。未来の自分が、今の自分が思うような自分になっていなかったことを知り、絶望した過去のあなたは、かつての自分の言葉を実行するために――」
「やめろ!」ウイリアムの絶叫が病室にこだました。「……やめてくれ」
ウイリアムは俯いた。
「ウイリアムさん」ホンドアウルは立ち上がり、「警察の捜査は打ち切られるでしょう。警察からその理由があなたに聞かされることはありません。その代わりとして私が尋ねたのですからね。怪我が完治して退院したのち、あなたの生き方が少しでも変わっていることを、私は確信しています。少なくとも、過去の自分が今の自分を見たとしても、刺されることなどない程度には」
俯いたままのウイリアムは小さく頷く。その拍子に、こみ上げて来たものが毛布を濡らした。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
一礼してホンドアウルは、ウイリアムのもとを去った。