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羽黒とんぼ

作者: 芹沼詩織

 汗が背中にじんわりと浮き出るのを感じ、日が少しずつ天の中心に昇っている事に青年は気付いた。家で一番涼しい廊下にいるにも関わらず、お盆の暑さはここまで押し寄せているようだ。

「悪かったわね、来てもらっちゃって。敏史(としふみ)は折角の盆休みだったのに。」

敏史と呼ばれた青年は、しかし表情は変えずただ頷いた。昨日迎え盆が終わり、いよいよ忙しくなりそうだと言うので母から手伝いを頼まれていたのだった。どちらにしても、敏史は線香をあげに来るつもりだったので気にしていなかった。

 時計が九時を過ぎた頃、ちらほらと人が来始めた。母はその度に床に足を折り深々と頭を下げ、仏壇のある部屋まで案内をする、その繰り返し。敏史は初めて経験する事で困惑しつつ、母に倣って頭を下げつつ、お参りが終わった人にお茶出しをしていた。

 この家は広い、ふと敏史は思った。昔ながらの畳の多い部屋で、一階の大半はおそらくこの畳部屋が占めているのだろう。玄関から入ってすぐ左側が畳部屋で、襖を開けると十六畳ほどの部屋が姿を現す。突き当り右側にはまたも襖が在り、開けると更に畳部屋が広がる。この北側に位置する部屋に仏壇が置かれているのだった。敏史は改めて部屋を見回し、来てくれた人を一人一人観察していた。


 今年の春が終わる頃、祖父が病気で亡くなった。前々からお医者様には長くないと告げられ覚悟していたことではあったが、数日祖父の家で共に過ごし葬式に参列して改めて祖父の顔を見ると、急に寂しさや悲しさ、分からなくなる程沢山の感情が込み上げ、敏史は涙が止まらなかった。その後火葬場や墓場に移動したり、接待していたのがついふた月ほど前のこと。その間母は実家を往復しながら遺産の相続やら法事の事で終始忙しそうにしていた。そんな母を見ていて、自分だけ悠々と自宅で休んでいる訳にもいかず敏史は祖父の家にいた。

 忙しさもピークになり、母が案内している間にまた祖父の知り合いが訪ねてくる。母も顔見知りの人が多いらしく、来る人来る人に芳子(よしこ)さん、芳子さんと親し気に話しかけられていて、すぐには戻れないようだ。敏史も手振りで案内しつつ、お茶を注ぎに台所へ向かった。飲み干されたコップはまだ汗を掻き、台を濡らしている。残りの綺麗なコップがあと二つだけになってしまった事に気付き、敏史は急いでコップを洗った。その間にも開きっぱなしの玄関から訪問者の声と車が砂利を踏んで止まる音が聞こえてくる。家の中の静けさは一転、集まった人々の思い出話と笑い声が賑わせた。それに比例し、敏史は暑さも忘れて接待に勤しんでいた。

「あー、疲れた…。立ったり座ったりで、太ももが痛い。」

 昼も過ぎると、訪問者は家に戻るなり次の家へ行くなり思い思いに散っていき、新たに訪れる人は減っていた。敏史はまだ温もっている座布団に足を広げて座り、目を瞑ったまま天を仰ぐ。その様子を見た芳子と祖母は微笑んだ。

「としちゃんありがとう。こわいだろう、ばあちゃんがお茶淹れてきてやるからね。」

祖母は孫が来てくれて嬉しいのか、足取りが軽い。母はその後ろ姿を眺めながら、呆れ顔で笑った。しかし、敏史は眉をぎゅっと寄せて祖母の言葉を復唱した。

「こわい…?何も怖い事なんてないのに。」

敏史の正面に座っていた母は一瞬眉を上げたが、理解すると共に笑い声を立てる。何が可笑しいのかと敏史は訝し気に睨んだが、理由を話してくれるまで口を開かず待った。

「こわいっていうのは“疲れた”っていう意味よ。そうよね、母さんには当たり前の言葉だけど、敏史には聞き慣れない言葉だね。」

そう話す芳子の顔は、敏史には見知らぬ女性のように感じた。今母は、昔の思い出を頭で描いているのだろう。哀愁を漂わせつつ、懐かし気に空中を見つめている。敏史は不意に、若返ったのだと思った。

 そこに、カラカラと涼し気な音を立てながら祖母が戻ってきた。膝が悪い祖母を思い、敏史は祖母が座る前にお盆を取り上げ、二人の前にお茶を置いた。祖母は目尻の皺を一層深くさせ、用意された脚付きの椅子に座った後お茶をゆっくり口に含む。母もその様子を見ながらコップに手を取った。敏史も接待中ほとんど飲まず食わずだった為、美味しそうに喉を鳴らして一気に飲み干した。

 日が傾き始め、暑さがピークを迎える。訪れる人も一気に減り、皆思い思いの事をし始めた。祖母は風鈴が飾られている縁側の陰で休み、敏史は畳部屋の向かいにある居間へ涼みに、母も同じ部屋で帳簿をつけ始めていた。母は老眼鏡を掛け、熨斗袋と帳簿を見比べ筆を走らせていく。その様子を見るでもなく見ていた敏史は、いつか自分もこういった事をするようになるのかと若干顔を曇らせた。今まで他人事のように参加していた葬式や法事がこんなにも身近に迫ると、裏の様子が、忙しさがありありと見えてくる。人が亡くなるとは、それだけ大事だったのだと改めて感じていた。

「その人、近所の人?住所が近いけど。」

母はすぐには応えず、最期の一画が書き終えるとようやく顔を上げた。

「何言ってんの、菓子屋のおじちゃんでしょうな。覚えてない?」

敏史は眼をまん丸くさせ、最後の行に書かれている名前を凝視している。敏史が小学三年生か四年生ぐらいまで、祖父の家へ遊びに来る度に連れて行ってもらった駄菓子屋店主の名前だった。

「名前なんて知らない、というか、“菓子屋のおじちゃん”だと思ってたから。」

小さい頃というのは、大人達の名前なんて気にしたこともなかった。皆自分の事を、おじちゃんおばちゃんなんて言うし、周りの人も小さい子に話す時は名前を出さないから余計だろう。敏史は思い出を掘り起こしている自分に気付き、大人になったのだと感慨深げに息を付いた。

 母の書き移している名前を見ながら会話を重ねていると、大きな物が砂利を轢いていく音が外から聞こえた。障子を引くと、ピンクの可愛らしい軽の車が停まっていた。中には女性が二人乗っていて、運転席には若い女性がいる。恐らくは祖父への線香をあげに来てくれたのだろうが、これまで来てくれたのは中高年の人ばかりで自分だけ若さが目立っていた。訝しげに思いながらも、母と敏史は玄関へ向かった。

「こんにちは、お線香あげに参りました。お葬式ぶりだね、芳子ちゃん。」

まず初めに顔を出したのは、助手席に座っていたであろう中年の女性だった。

「あらぁ、美枝子(みえこ)(ねえ)!遠いのにわざわざ来てくれたのね、ありがとう。」

美枝子と呼ばれた人は敏史も見た事があった。葬式で母と親し気に話していた、母とどこか似ているふくよかな女性。この女性は祖父の兄妹の末っ子で、母とも歳が近い。祖父が生まれた年代では、七、八人兄妹が当たり前の時代だった為、甥姪と叔父叔母の歳が近いことも割とあるようだ。美枝子と母もその例外ではなく、十つ離れているかいないかだろう。美枝子は、祖父の兄妹の中で一番見た目と性格が祖父に似ていた。

「それで、車でも買い替えたの?可愛らしい車だけど。」

母は心なしか弾んだ声で美枝子に問いかける。すると、先程運転席に乗っていた女性が車側に建っている玄関の柱と美枝子の間から遠慮がちに顔を出した。母は女性を目にした途端、より一層声を張り上げて驚きを表現した。

「まぁまぁまぁ!貴子(たかこ)ちゃん?大きくなったわねぇ!」

「お久しぶりです、芳子おばさん。」

 日本人形が動いているかのような色白さと黒髪、そして細身の体型。異性から言い寄られてもおかしくないような面持ちの可愛らしい女性だった。貴子という女性は芳子を知っているようで、深々とお辞儀をしていた。

「そちらの逞しい方は(とし)ちゃん?これだけ大きくなるんだから、私たちも歳を取るわね。」

「逞しくなんかないわよ。蔦みたいにヒョロヒョロっと身長だけ高くて。」

母の声は筒抜け、敏史は急に声を掛けられた事に驚き目線を美枝子に移し会釈した。敏史は貴子に目を奪われていたのだ。我に返り、微かに頬を赤らめ俯く。しかし気付く者はおらず、むしろ貴子の方から声をかけてきた。

「敏ちゃん、久しぶりだね。最後に会ったのが私が中学に上がる前だから、十年ぶりくらいかな。」

敏史は弾かれたように貴子を見つめた。どこかで見た事がある、先程からそう感じ頭の中の引き出しを荒らしていたのだが、全く思い出せないでいた。焦れば焦るほど言葉が喉から出てこず、敏史は曖昧な笑みを返すだけだった。その様子を見て痺れを切らし、母は敏史を急かした。

「ほら、(たか)ちゃん!皆で集まった時、よく一緒に遊んでたでしょ!」

そう言われた瞬間、敏史は急に引っ張り出された思い出を見て固まった。年に一度、親戚同士で集まり大きな食卓を囲んだ事、あの畳部屋で雑魚寝をした事、唯一歳の近い貴子とはよく遊んでいた事。何故忘れていたのかと思う程楽しい思い出だったのに、言われるまで気付かないなんて。

「あ…貴ちゃん!思い出したよ、随分変わってたんで気付かなかったよ、ごめん。」

敏史は失礼なことを言ったのではないかと一瞬焦ったが、本人は思い出してくれた事が嬉しかったようで、笑みを深めた。

「良かった、思い出してくれて。」

実際には、母の言葉がなければ恐らく思い出せていなかっただろうが、そこまで正直になる必要はないと口をしっかり結んだ。

 二人が玄関で立ちっぱなしでいる事に気付いた芳子は非礼を詫び、仏壇のある部屋まで招いて行った。敏史はその間に新しいコップで五つお茶を用意し座卓と座布団の敷かれた部屋へ向かう。氷とガラスの擦れる音が、自分の足取りの軽さを現しているかのようだった。

 二人が線香をあげ終えると、ようやく気付いた祖母が覚束無げに立ち上がり感謝の念を述べた。それからしばらく祖母と芳子、美枝子の三人は近況や思い出話を止まることなく話し出していた。貴子は敏史の隣に座り、お互いまだ居心地が悪そうに目を伏せ、敏史に至っては執拗にコップを回し続けている。意を決し、貴子に話しかけた。

「本当、久し振りだね。今何してるの?」

少し身じろぎをし、貴子ははにかんだ。

「会社員として勤めてるの、今年で三年目だよ。新しい子が入ってきてしっかりしなくちゃなぁって思うんだけど難しい。敏ちゃんはもう六年目くらい?」

そういえば、貴子は年下なのだ。大叔母は三人子を産んでいて、貴子が末っ子。敏史も兄がいるが、貴子は二番目の姉と年の差が開いている事もあって、敏史よりも年下なのだった。懐かしい呼び名も相まって、昔の貴子と今の貴子が少しずつ繋がっていく気がした。

「そうだね、今年で六年目だよ。俺は三年目でも上司から叱られまくってたよ、今もまだまだだけどね。」

敏史は先輩らしい助言をしてあげたかったが、上手く言葉に出来ず開こうとした口を結んだ。それからポツポツと会話を交わし、貴子が今実家を離れ一人暮らしをしている事、今日はこの家で一泊する事を聞いた。母も貴子の母を姉妹のように慕っており、しばらく家に帰るつもりはなさそうで、敏史は貴子と話す時間が長く取れる事に素直に喜んだ。話は次第に逸れ、思い出話へと移り変わっていく。既に二人とも、最初の緊張感は無くなっていた。

「そういえばさ、昔伯父さんが乗ってたトラックの荷台でよく遊んだよね。」

貴子が遠くを見ながら口を開いた。貴子にとって、祖父は伯父に当たるのだと敏史は今更ながら感じ、違和感を覚えていた。

 祖父は自営業をしていて、溶接作業を行い得意先へ納めていた。今も家の前には工場(こうば)が残っていて、覗けば祖父が保護具を身に着け火花を飛び散らせている光景が蘇るようだった。そんな仕事をしていた祖父はトラックやフォークリフトを使った作業もしていて、その荷台で遊ばせてもらっていたのだ。あまりの懐かしさに、二人はしばし思い出に耽った。


***


「じいちゃん、今日はトラックある?」

 敏史は、早く遊びた気に足踏みをしながら祖父に問いかけた。隣で、物静かだが好奇心旺盛な少女がじっと見つめる。祖父は孫と姪を交互に見て、頷いた。

「あるよ。ケガしないようにね。」

その言葉を聞くや歓喜の声を張り上げ、少年は猿のように飛び跳ねながら工場へと走っていった。貴子もお礼を告げ、追いかけていく。祖父は二人を見届け、静かに笑いながら作業着に着替えるため居間を後にした。

 祖父が工場に行くと、二人は高い声を上げながら荷台で飛び跳ねてみたり石を並べてみたり、一見よく分からない遊びではしゃいでいた。一体どうやって登ったのか、祖父には想像も付かない身体能力だった。二人は祖父に気が付くと、まだ遊び足らんと言うばかりに眉を下げた。

「じいちゃん早いよぉ。もうお仕事始めるの?」

「ごめんなぁ、向こうの畑で遊んでおいで。」

祖父が微笑みながらそう言うと、貴子は俯き手を煩わせ始めた。姪は何か言いたい事があると、決まってこの仕草をする。祖父(おじ)は笑みを崩さず、貴子が口を開くのを待った。

「…おじちゃん。」

孫を荷台から降ろした時、ようやく貴子が言葉を発した。振り向くと、貴子は拳を握りしめ堰を切ったかのように言葉を吐き出した。

「たかこ、おじちゃんの仕事してるところ見てみたい!」

何を言い出すのかと思えば、これまで危ないからと見せてこなかった作業現場を見せてほしいという願いだった。貴子は興奮しているのか、顔を真っ赤にし小さい鼻を膨らませ荒々しく息をしている。孫はともかく、姪は基本的に素直に言う事を聞いてくれる子だ。しかも、家に泊まっている間は家事を手伝ってくれたり、肩を揉んだりしてくれる優しい子だった。祖父(おじ)は少し考え、貴子に問いかけた。

「それじゃあ貴ちゃん、作業場の外から眺められるかい?中に入ると火傷しちゃうからね。」

貴子は目を輝かせながらコックリと頷く。それを見て祖父(おじ)は貴子を愛おしく思い、抱きしめた。

 工場にある物はどんな事に使われるのか貴子には想像も付かなかったが、黒電話やおもちゃが置かれていて親近感が少し沸いた。しかし、おもちゃでさえ工場に置かれると錆びて見え、面白いような、怖いような不思議な空間を作り出していた。作業が始まると、貴子は思っていた以上の火花と音を体験することとなった。バチバチと大きな音で火花が光を放ち、祖父を白く照らす。溶接している部品は火花で全く見えず、何をしているのか分からない。貴子は初めて見る光景で、祖父(おじ)が凄まじい魔法を使っているかのように見えていた。少し経つと、音が気になったのか敏史も様子を見にやって来た。何度か目にしているようで近づくことはせず、二人とも祖父の作業が終わるまで定期的に飛び散る火花を見つめていた。


***

コップは暑いと言わんばかりに汗を掻き、下に敷いたティッシュペーパーはぐっしょりと濡れていた。水滴が手の平に付くのを感じながら、敏史は残りのお茶を一気に飲み干した。それを見た貴子も注がれてから口にしなかったお茶を一口含んだ。相変わらず祖母達の話は絶えず、こちらを気にする素振りもない。二人は顔を見合わせ微笑んだ。

「この家は、宝の山だったよな。そういえば、物置の二階にはまだあれ、あるかな?」

敏史は思い出を手繰り寄せる内に様々な思い出がよぎっていた。かくれんぼで屋根裏部屋に隠れた事、プレハブの壊れたオルガンで猫踏んじゃったを弾いた事。そして外にある大きな物置の二階には、いくつか綺麗な盆栽が飾られていた事。

「あ、懐かしい。ちょっと行ってみる?上れるかな。」

貴子は興奮を隠し切れない声を出し立ち上がった。それに続き敏史も立ち上がり、母に庭へ出る旨を伝え貴子の後を追う。玄関を出ると、暑さは少し落ち着いたものの日差しがまだ痛かった。祖父の家がある地域は、車がないと買い物すら出来ない程の田舎なので、地面からの照り付けはあまり感じる事なく過ごせるのがありがたい。

「敏ちゃん、早くー!」

家の前の駐車場を跨ぐとすぐ草木が広がり、右手全面が畑、左手奥に工場、そして左手前に大きな物置がある。空いたスペースには百合やコスモス、梅など様々な花が植えられているようだ。坪で言うと二百近くあるのではないかと思う程広大だが、周りの家も広さだけは有り田舎ならではの光景なのだろう。貴子は蚊に刺されるのも厭わず草が生い茂る場所を分け入ったようで、見た目のお淑やかさからは考えられない行動力だった。

 敏史が回り道をして物置の二階へ繋がる階段に辿り着くと、貴子は嬉しそうに階段を指差した。

「この階段、こんなに急だったんだね。錆びてるし、狭いし、ちょっとワクワクするね。」

昔の好奇心旺盛な所は相変わらずで、敏史は心の中で微笑んだ。貴子は敏史の柔らかい視線に気付く事もなく階段を見つめている。このままでは先に行ってしまいそうで、敏史は慌てて階段を閉ざす柵に手を掛けた。

「さすがに階段が抜けたら危ないから、俺が先に上ってみるよ。」

重々しく柵が開き、敏史は思わず頂上を見上げた。段数は十数段なのに、勾配が強いせいかとても高く感じる。しかも幅が異様に狭く、丸々と太った祖父でも上がる事が出来たのかと疑問に思う程だ。手すりに掴まりながら一段目に踏み入れてみると、意外と板は頑丈でびくともしない。それでも敏史は最後まで慎重に上って行った。振り返ると、不安げに見上げる貴子の姿が一回り小さくなっていた。

「大丈夫みたいだ、気を付けて上っておいで。」

少し大きめな声で貴子を呼ぶ。すると、ふんわりとした黒いスカートを左手で押さえ、手すりに右手を付きながら貴子が上り始めた。途中後ろを振り返り、高さを実感したのか目をまん丸くしながら上っているのを見て、敏史は優しい眼差しを送っていた。

 貴子は上り終えた途端、残念そうな溜息を付いた。二階には何台か長いテーブルが並んでいたが、空の植木鉢が置いてあるだけで、錆びだらけの寂しい場所になっていた。

「なーんだ、片付けられちゃったんだねぇ。残念。」

そう言いながらも、貴子はテーブルの間を通り畑側の柵に手を付いた。敏史もその後を追い、二階から畑と祖父の家を眺めた。畑を見下ろすと、茄子や胡瓜、とうもろこしが綺麗に並んで実っているのがよく見えた。今は祖母が畑の手入れをしているようで、畑の五分の一だけ雑草が目立っている。右から緑のグラデーションが薄くなって、土が露出している。

 ふと敏史が貴子を見ると、目で何かを追っているようだった。視線の先を辿るとその理由が分かった。オニヤンマがずっと、駐車場の砂利の上を何回も往復しているのだ。確かにあそこはよくオニヤンマが通る道で、敏史達も昔は虫網で捕まえていたものだ。オニヤンマも、目の前に食料の宝庫があるのだから何度も往復するのだろう。どこからか聞こえ始めた蜩の鳴き声を聞きながら、二人はぼんやりと眺めていた。

「そういえば、会社の上司が。」

屋根があると言えど、薄っすらと汗をこめかみに浮かべながら貴子が口を開く。敏史はオニヤンマから目を離さず耳を傾けた。

「お盆の虫は殺しちゃいけないって言っていたの。お盆の虫は、ご先祖様とか亡くなった人の魂を乗せているんだ、って。」

静かに、しかし通る声で貴子が言う。その声には、戸惑いのような願いのような、切ない想いが混ざっているように感じた。

「私、伯父さんの事大好きだったんだ。人の話をニコニコしながら聞いてくれて、優しくて。長い休みじゃないとこっちに来られなくて、お葬式に行けなかったのは悲しかった。だから、せめてお盆には絶対顔見せに行かなきゃって、そう思ったの。」

貴子は微笑み、往復し続けているオニヤンマを指した。

「だから今、あのオニヤンマは伯父さんの魂を乗せているのかなって、ちょっと思っちゃった。でも、伯父さんはのんびり屋さんだったから、オニヤンマじゃ落ちちゃうかな。」

その言葉を聞いて、敏史は思わず笑った。貴子は驚いた表情を見せたが、すぐに口角が上がり敏史と一緒にひとしきり笑った。

「そうかもね。じいちゃんはどちらかと言うと羽黒とんぼじゃないかな。ふわふわ飛んでいくし。」

貴子は優しく微笑みながら頷く。

「うん、私もそう思う。その話が本当なら、きっと羽黒とんぼに乗って来てくれるね。」

貴子は風に髪をなびかせ、しばらく庭を眺めていた。


 貴子の言う通り、祖父はとても優しい人だった。口数は少ないものの、知り合いが遊びに来たりすると終始笑顔で楽しそうに話を聞いているような人だ。敏史や貴子に関しては、最近はどうだと学校や恋人の話を聞きたがり、話が終わると必ず「そうか、そうか」と嬉しそうに微笑むのが癖だった。自分の事に関してはほとんど話さない祖父だったが、亡くなってしまう前、まだ話の通じる時に、病院で一度だけ祖父の口から自分の話を聞かせてもらったのを、今でも覚えている。

 祖父は若い頃は痩せており、テニスや野球などスポーツ好きで、アウトドアな一面も持っていたらしい。しかも昔はハンサムと周りから人気を集め、当時“三烏(さんからす)”と呼ばれハンサム三人衆の一人だったという驚くべき話を聞かせてくれた。母はその話を知っていたようで、敏史に分かるように補足しながら聞いていた。後から母が嬉しそうに、今日は祖父の機嫌がとても良かったみたいだと言った。後にも先にも、自分の話を沢山してくれたのはこの時だけだった。その後徐々に病気が祖父の体を蝕み更には呆け始め、別の人を敏史だと勘違いしている痩せ細った祖父を目の当たりにした時から、敏史は心の中で“祖父”はもういなくなってしまったのだと無意識に思うようになっていたのだった。

 物思いから覚めると、全員が敏史を見ていた。先程から静かだと思ったら、敏史に何かを問いかけていたらしい。答えてくれるのを待っていたようだ。貴子が心配そうに見つめてくる。

「敏ちゃん大丈夫?具合悪くなった?」

長い事(ほう)けていたようで、熱中症を心配したようだ。近距離で見つめられた敏史は、動揺を(さと)られないように視線を奥の三人に移した。

「大丈夫、考え事してた。それで、何?」

空のコップにお茶を注ぎながら尋ねると、芳子が急ににやけた顔になった。

「だから、貴子ちゃんよ。可愛いでしょう?」

あまりに唐突だったので、飲み込んだお茶が物凄い音を立てて喉を通る。器官に入ったのか、敏史は勢い良く咳き込んだ。貴子は頬を赤らめながらも、顔を歪めて真っ赤にしている敏史の背中をさすった。敏史はこの顔の赤さを咳き込んだせいにしようと少し大袈裟に演じた。

「急になんだよ。…可愛いと思うよ。会社でもよく言われるでしょ?」

敏史は努めて冷静を装いながら、貴子に笑いかける。貴子はいよいよ顔を赤くさせると、幼い時のように表情が見えないくらい顔を俯かせた。

「会社では、お世辞で言われるだけだよ。」

「この子、彼氏を家に連れてきた事ないのよ。良かったら敏ちゃんどう?敏ちゃんなら安心だわぁ。」

顔を真っ赤にさせたまま、貴子は美枝子を睨みつけた。

「もう、敏ちゃんを困らせないで!」

敏史は返答に困り曖昧に笑みを浮かべたまま、敏史では嫌だと拒絶されなかった事に安心し笑みが深くなっていた。

 その後もしばらく、従妹なら結婚出来るだのこのままだと敏史は独身のまま歳を取るだの茶々が入っていたが、敏史はコップを片付ける振りをしてお勝手まで逃げて来た。気付けばお勝手の白い壁が橙色に変わり、暑さも大分和らいでいる。少し気持ちを落ち着かせようと、敏史はお勝手の椅子に座り、居間に繋がる引き戸を眺めていた。

「敏ちゃん、ごめんね。お母さんったら、芳子さんに会って浮かれてるの。」

廊下側の入り口から、ばつの悪そうな顔で貴子が入ってきた。敏史も目を見ないように気を付けながら視線をずらし、貴子を見た。

「いや、貴ちゃんが謝る事じゃないよ。それに、お世辞言った訳でもないから。」

貴子は隠し切れずに笑みを零すが、気付かれないようにしているのか顎に力を入れ口を尖らせた。その様子が幼く見え、敏史は思わず微笑んでいた。

 二人でコップを洗い他愛ない会話をしていると、芳子が玄関で帰り支度を整え始めた。敏史と二人で車に乗ってきた為、帰る時も一緒に行動しなければならない。敏史も少ない荷物をまとめ、玄関に置いた。もう人も来ないだろうと、玄関先の盆提灯が雨で濡れないように中へ仕舞い込む。祖母と美枝子、貴子が見送ろうと外へ出てくれた。明日も来る予定だが、日の暮れと比例し敏史も気持ちが沈んでいた。

「明日はお昼に帰るって言ってたわよね、私達は朝早く来るからよろしくね。」

芳子はそう告げ車の助手席へ乗り込んだ。敏史も軽く会釈し、運転席に乗る。中はまだ昼間に溜め込んだ熱が残っており、エンジンがかかると同時に風量を調整するつまみを最大まで捻り窓を開けた。

「明日はそんなに人は来ないだろうけど、手伝うからね。また明日。」

貴子はわざわざ運転席の方へ回り込み、手を振った。敏史も軽く手を挙げると、車のギアを下げ狭い道を進み出した。

 帰る間は疲れからか芳子も敏史も黙り込み、スピーカーから流れるラジオを何となく聞いた。夏の終わりを象徴する歌が次々に流れ、切ない気持ちが募る。母は何を思っているのか、片肘を窓の縁に付き外を終始眺めていた。

「今日はお疲れ様。先にお風呂入っちゃいなさい。夕飯の支度をしておくわ。」

家に着くと、芳子は先に家へ戻りお勝手へ姿を消した。敏史も汗でじっとりとした体を早く洗いたくて、母の言葉通りに風呂場へ進んだ。脱衣所の籠に服を放り投げ、桶に湯を汲み頭から被った。頭と体を洗えば、汗と汚れが落ちすっかり清々しい気持ちになった。湯に浸かり疲れを癒しながら、敏史は今日の出来事を振り返る。お昼過ぎまで目まぐるしく過ぎた一日だったが、様々な事を経験した気がする。後々必要になる経験だろうと、敏史は忘れないよう何度も振り返った。

 その日は通常では使う事の無い筋肉や気力を使ったせいか、夕飯を食べた後から記憶がなかった。それもそのはず、敏史は夕飯を食べた後座布団に横になり寝てしまっていたのだ。日付が変わった夜中に起き歯磨きだけしてまた同じ場所で寝たのだが、硬い床で寝たせいで体が強張ってしまった。きちんと布団で寝れば良かったと後悔するのは、朝方目が覚めた時である。

「あらやだ、敏史ったらずっとここで寝てたの。」

洗濯物を干し終えるまで居間に入ってこなかった芳子がようやく敏史に気付き、怪訝そうな顔で覗き込んだ。敏史はまだ良く回らない頭で状況を整理し、顔を歪めながら上半身を起こした。

「今日は何時に出る予定?」

敏史が尋ねると、芳子は顔を上げ時計の針を追った。

「そうね、出来ればあと三十分くらいしたら出たいんだけど。」

準備出来ない時間ではないが、何故起こしてくれなかったのかと敏史は心の中で呟いた。敏史はお勝手に用意されていたおにぎりを食べ、身支度をしに部屋へ戻って行ったのだった。

 祖父も、高齢にしては遅くまで寝ていた記憶がある。敏史が泊りに行くと決まって一緒に寝たがり、敏史はいつも祖父の布団で寝ていた。ただ、抱きしめられるものだから、息が苦しいのと重いのと、何より鼾がうるさくてそっと自分の布団へ戻るのだった。朝も敏史が先に起きてしまう為、姿が見えないと敏史の名を呼び寂しがる。それだけ孫の事が可愛かったのだろうと思うと、敏史はもう少し一緒に居てあげれば良かったと後悔した。次々に湧いてくる思い出を振り払い、敏史は靴下を履き玄関へと向かって行った。


 祖父の家に着くと、祖母は既に畑で草むしりをしていた。いつからそこに居たのか、昨日残っていた雑草のほとんどがむしり取られている。だが、もう日は昇っていて熱くなりつつある。高齢者は脱水症状に気付きにくいと聞く。敏史は祖母を案じ家の中に入るよう説得に行った。

「ばあちゃん。もう暑くなってるから家に入ろう。また夕方やったらいいよ。蚊にも食われるよ。」

ゆっくりと皺だらけの日焼けした顔がこちらを見上げた。孫だと気付くと皺を深く刻み、軽く手を擦り合わせる。

「敏ちゃんかい、今日もお願いしますねぇ。」

話を聞いていたのかいないのか、しかし祖母は腰を曲げたまま家に向かい歩き始めた。祖父の葬式でこそ泣いていたものの、今ではこうやって外で畑仕事をするなど元気に歩き回っているようだ。母とは事ある毎に喧嘩をしているが、買い物以外は不自由なく過ごしているようで母も安心していた。

 玄関には昨日仕舞った盆提灯が飾られ、扉も開け放たれている。美枝子か貴子、若しくは母が来た時に出したのだろう。二階から下がってきた美枝子と目が合い、会釈した。

「おはようございます。休めましたか?」

敏史が声を掛けると、親指を立てて歯をちらつかせた。

「おはよう、ばっちりよ。昨日は近くの温泉入ってきたしね。」

祖父の家の近くには温泉がいくつかあり、一番近い温泉は冷えや肩凝りに良く効くらしく地元に人気の温泉だ。昔は祖父も足繁く通っていた温泉だった。

 お勝手でコップの用意をしていると、貴子が二階から降りてきていた。敏史を見つけると表情が明るくなり、気付くと敏史と一緒にお菓子の用意をしてくれていた。

「おはよう敏ちゃん、今日もよろしくね!」

「あぁ、貴ちゃん。おはよう、よろしくね。」

昨日の気まずさを感じさせない陽気な声でお互い挨拶を交わす。今日の昼過ぎには帰ってしまうのを気にしてか、お互いよく話しかけた。

 まだ九時も回らないのに、日はすっかり昇り油蝉の羽を擦る音が煩く鳴り響く。この地域は十五日が送り盆という事もあり、訪れるのは近くに住む親族だけだった。敏史や貴子にとっては知らない人が多く、大きくなったと親し気に話しかけられても愛想笑いをして過ごすしかなかった。それでも身内だと分かれば気を引き締める必要はなく昨日の忙しさとは比にならない。敏史は久し振りに楽しそうにしている母に代わり、居間で御仏前の名前を書き写し始めた。貴子も向こうにいるのはつまらないらしく、敏史の正面に座り帳簿を眺めていた。

「そう言えば貴ちゃん、この人誰だか分かる?」

 敏史は帳簿を二枚遡り、菓子屋を営む店主の名前を指した。貴子は肘を付き前のめりになり、しばらく唸ってから首を振る。その表情を見て、敏史は二ッと笑った。菓子屋の名前を出すと、貴子は目を大きくしながら笑う。

「あー!確かにこんな名字だったかも。うわぁ、懐かしいなぁ。」

今はもう子供が少なくなり店も閉めてしまったが、店主は毎日元気に散歩しており、その途中で祖父の家に寄って祖父と話すのが日課だったそうだ。線香をあげに来た時、冗談めかしながら「俺がそっちに逝くまでゆっくりしてろや」と言っていた横顔が寂しそうだったのは、今も目に焼き付いている。

 祖父はあまり自分の意見を言う人ではなかったから、もっと主張していいんだよと言う人もいたが嫌われる事はなく、むしろ皆から好かれていたと思う。病院でも世辞だろうが、祖父の介護を担当してくれていた看護婦さんは、ニコニコしていて可愛いと言ってくれていた。それは転院しても同じだった。正直に言ってしまえば祖父は耳が遠く、笑って誤魔化す事もざらにあったのだが。それでも近所の人は、相槌を打ちながら優しく聞いてくれる祖父を好いてくれていたのだろう。新聞を見て県内でも遠い所から訪れてくれた人もいたのだから。そう振り返ると敏史は何故だが胸が締め付けられ、涙が溢れそうになり慌てて書き写しに集中した。

 熨斗袋もあと数枚になり、敏史は一旦凝り固まった背筋を思い切り伸ばした。母が書いた文字と自分が書いた文字を見比べ、あまりにも汚い自分の字に敏史は溜息をついた。それまで暇潰し用に持ってきた小説を読んでいた貴子は眼鏡を外し微笑む。

「お疲れ様、書き終わった?」

外された紺色の眼鏡に視線を置きながら、敏史は首を振った。

「いや、あと四枚かな。集中してたからちょっと休憩。それより、貴ちゃん視力良くないの?」

敏史の視線に気付き、貴子は再び眼鏡を掛ける。いつもと違う雰囲気に、敏史は見惚れていた。

「ちょっとね。普段の生活には必要ないけど、運転する時とか集中したい時は眼鏡するの。」

目が疲れるのか、貴子は眼鏡を外すと目頭を抓んでマッサージをしている。敏史はその動作を見て、自分も目が乾燥している事に気が付いた。書き写している間ほとんど瞬きしなかったのだろう、目を強く閉じ涙を出そうと試みたが大して変わらなかった。何となく貴子を見ると目が合ってしまい、敏史と貴子は笑い合った。

「敏ちゃんは凄いね、若い男の人がこうやってお盆のお手伝いしたり帳簿書いたりなんて普通しないよ。」

貴子は急に真顔になった。敏史は急に褒められた為、どうして良いのか分からず固まる。このくらいは当たり前だと思っていたし、祖父の事も大好きだったのでお墓参りもしておきたかったのだ。返事は求めていなかったらしく、貴子は気にする素振りもなく話を進めた。

「私もそうだけど、忙しかったりすると行事を省いちゃったりするから。面倒そうな顔せずお年寄りとかの相手をするのは凄いと思うよ。」

言っていて出過ぎたと思ったのか、貴子は眉を下げながらはにかむ。敏史は素直に嬉しいと思い、お礼を述べた。貴子はまだ恥ずかしそうな表情で肩を揺すりながら、小説に挟んでいた指を離し続きを読み始めた。

 敏史が最後の一枚を書き写したのと同時に、母が居間に隠しておいた引き出物を取りに入ってきた。戸が開かれた瞬間、先程まで遠くに聞こえていた賑わった声が間近に迫る。親戚と祖母や美枝子が玄関まで出てきており、親戚が帰るのだと分かった。敏史と貴子も顔を出し、砂利を引き始めた車に向かって深々と頭を下げた。

「さて、私達もそろそろ帰る支度をしましょうか。」

親戚の乗った車が曲がり角で姿を消すと、美枝子が振り返り貴子に話しかけた。貴子の瞳が一瞬揺れたが気付く者はおらず、敏史が貴子に視線を移した時には微笑んで頷いているところだった。軽く腕を振ってから腕時計に目を落とすと、いつの間にか正午を過ぎている。大通りはそろそろ混み始めるかもしれない。

「もう帰っちゃうなんて寂しいわぁ。今度は是非(うち)に来て頂戴。」

母が心底残念そうな声で美枝子に話しかける。美枝子は廊下に上がりながら頷いた。

「嬉しい、その時は貴子も連れて行こうかしらね。」

美枝子がそう言うと、母と貴子の表情がパッと明るくなる。貴子は何度も頷き、母も笑顔で執拗に予定を聞き始めていた。

「母さんは気が早いんだよ、まったく。そんなすぐ予定空かないだろ。」

母の悪い癖で、自分がその気になるとすぐ予定を決めたがるのだ。良く言えば行動が早いのだが、世辞で言った言葉も鵜呑みにする為困る人も多かったりする。母は息子に注意され、大袈裟に眉を上げながら肩を竦めた。二人の穏やかな表情を見て、美枝子と貴子は顔を見合わせて笑った。

 祖母は人が来ないのを良い事に、蒸し暑い中草むしりをしに行ってしまった。敏史は何度も止めたのだが聞かず、何かあればすぐ飛んで行けるように居間の窓ガラスから外を眺めた。美枝子と貴子は帰り支度をしに二階に上がっている。母も駐車場で茄子と胡瓜に割り箸を刺しながら、先祖を送る為の準備をしていた。


 ふと、目の端に何かが見えた気がして振り返る。特に変わった所は無い、そう思った刹那居間の小窓の方で何か黒い物が動いた。よく見ると、黒い羽根が付いた青緑色の細い糸のような物体が止まっている。羽黒とんぼだった。

 美枝子より早く支度を終えた貴子が居間へ入ってきた。敏史の視線を追い、貴子も羽黒とんぼに目を留める。羽黒とんぼは居場所を見つけたように飛び立つ事なく、腹を上下にゆっくりと動かしている。

「…このとんぼ、伯父さんかな。帰る前に、来てくれたのかもね。」

貴子は羽黒とんぼから目を離さず静かに呟いた。敏史も昨日の貴子との会話が蘇り、考えずにはいられなかった。あり得ないと頭では考えるが、どうしてもそこに祖父が話を聞きに居てくれているのだと、そう思わずにはいられなかった。

「もう送り盆だって言うのに、相変わらずのんびり屋だなぁ。」

敏史が冗談めかし言うと、貴子も笑いながら同意する。羽黒とんぼは飛ぶ様子が一切なく、外に出そうとしても戻ってしまう。その様子が余計祖父を想わせた。無理やり出しても可哀想との結論に至り、そのまま休ませておく事にした。

「羽黒とんぼってそこら辺であんまり見かけないけど、綺麗なとんぼだよね。飛び方も蝶々みたいで優雅だし。」

貴子は部屋に入ってからずっと羽黒とんぼを見つめ、無意識に声を大き目にして話し出した。

「よくとんぼ捕まえに三人で近くの神社まで行ったよね、あの神社は日影が多くて涼しかったなぁ。羽黒とんぼもあそこには必ずいたよな。」

敏史も同じくらいの声量で返す。貴子と居ると、奥に仕舞い込んでいた思い出が芋を引き抜くように出てくる。貴子も同じなのか、すぐに頷いた。

「あったあった、そんな事。捕まえようとすると陰に隠れて見えなくなったりしてね。」

先程まで懐かしそうに微笑んでいた貴子は、急に寂し気な顔になった。祖父との思い出話が出来る敏史とも後少しで別れると思うと、寂しさが込み上げたのだ。この気持ちをどう伝えたら良いものか、別れる時まで貴子には分からなかった。

 美枝子もいつ支度が終わったのか、気が付けば車に荷物を詰め始めていた。芳子は引き出物を忘れないように、いそいそと居間へ姿を消した。午前中空に鳴り響いていた油蝉の鳴き声は止み、蜩の鳴き声の合間に時々つくつく法師が己を主張している。秋が少しずつ近づいている証拠だった。

「それじゃあ義姉(ねえ)さん、お世話になりました。体に気を付けてね、また来ますから。」

美枝子は畑から戻った祖母に優しく話しかける。祖母は貴子の手を握りしめたまま美枝子に頷いて見せた。

「美枝子と貴子も元気でねぇ、待っているよ。」

貴子も片手を祖母の手の上に乗せ、優しく握り返す。しばらくそうした後、ゆっくりと手を解いた。すると今度は敏史の方に向き直り、貴子は微かに顔を俯き、手を煩わせた。

「芳子おばさん、敏ちゃん、二日間ありがとうございました。お盆にこんな事言っていいのか分からないけど、とっても楽しかった。」

母は思わず貴子を抱きしめる。娘のいない母にとって、貴子は娘も同然になっているのだろう。

「おばちゃんも貴ちゃんに会えて嬉しかったわ、休みが分かったらお母さんに言ってね。美枝子姉、後で連絡するからね。」

美枝子は脇を締め、親指を突き立てた手を顔の近くまで持ってきた。それを確かめ、母はもう一度強く抱きしめて貴子を離す。

「こちらこそありがとう、久々に思い出話が出来て楽しかったよ。仕事頑張って。」

芳子は敏史の淡泊な会話に、やれやれと肩を竦めながら両手を広げた。しかし貴子はそこで諦めず、満面の笑みで最後に一言付け加えた。

「ありがとう、敏ちゃん。また来年のお盆に会えるといいね。今度連絡入れるね!」

返事をする間もなく、若しくは返事をさせないようにしたのか、貴子はすぐに運転席に飛び乗った。敏史は特に何かを思うでもなく、頷きながら手をゆっくり振っている。美枝子と芳子は目線を交わし、歯をちらつかせ笑った。貴子はなかなか乗り込まない美枝子を急かし、車を発進させた。

「気を付けてねー!」

芳子が大声で呼びかけると、二人は開けていた窓から手を振った。敏史も手を高く上げ、車が見えなくなるまで大きく振り続けた。

 二人が帰ると、蝉の鳴き声が一気に大きくなる。祖母と母は早めの盆送りをしようと昨日読んだ新聞紙に火を焚きつけ、玄関先に置かれた母お手製の茄子と胡瓜で作った精霊馬に火を移した。次第に割り箸や野菜が焦げ、煙が立ち始める。

 祖父や先祖が帰っていくのだろうと、思わず家の中を振り仰ぐ。すると、ずっと家の中に居た羽黒とんぼがふわふわと外へ出てきた。羽黒とんぼを見た祖母は歯の抜けた口を大きく開けて笑った。

「おや、じいちゃんがお帰りだよ。それとも、美枝子達を見送りに行くのかねぇ。」

祖母は虫が人の魂を乗せて飛ぶという話は知っているのだろう。何の疑いもせず羽黒とんぼに手を振って見送った。敏史も、今だけはこの羽黒とんぼが祖父だと信じて疑わなかった。

 祖父の事だ、今までうたた寝していたのだろう。貴子が居なくなった事に今気付き、寂しがって出てきたに違いない。しかも、敏史と芳子は精霊馬が燃え尽きたら帰るのだから、合わせて見送りにきてくれたのだろう。貴子から連絡が来たら、この出来事を話してやろうと敏史は誓った。


嗚呼、羽黒とんぼが、ふわりふわりと飛んでいく。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

この話は、私が実際に体験した出来事を元に想像を膨らませて描いた物語です。初めての投稿ですので拙い文章ですが、少しでも皆様の心に残る作品であれば幸いです。

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