18.蚕食の邪法
坐教。それは、大陸東部より更に東の列島で発祥した古い宗教。
その宗教圏は広く、規模は精霊信仰やシャイアナ教に匹敵する。
シャイアナ教とはその勢力圏を争うように侵攻し、侵攻され、数多の生命と血を流してきた。
坐教の組織的特徴としては、真道派と総道派が存在する事がある。
真道派は己に問いかけ、修練をひたすらに積む事で己のうちにある浄土への道を拓く、いわゆる修行僧の派閥だ。その性質上、末端でも俗世と一定の距離がある。争いにも参加しないが、古くからの坐教の在り方を保っている。
対して総道派は、坐教こそ人が元来生きるべき道と信じ、厳しい修業を行わずとも浄土への道へ行けることを指南するという名目で大衆、他民族にまでその教えを広める事を目的とする派閥だ。民衆の大半はこちらに属し、そして利権を求める時の権力者や力を持て余した僧侶もこちらに加担し、侵略戦争を正当化している。
つまるところ、総道派は上位の権力者によって操られている。これはシャイアナ教が戦争に向かう理由とさして変わらないが、あくまで信仰心を掲げるシャイアナ教と違って利益優先を掲げる者も多い坐教は人と金だけは豊富にある。ここに、坐教過激派の恐ろしい所がある。
宗教にさしたる興味のない人間、信心深くない人間、宗教を持たぬ人間にとって、金と利権は悪魔の囁きにも似た魔性の魅力を帯びて見える。そして道を究めずとも浄土への道は拓かれるという「都合のいい信仰」を体面上取っていれば味方として引き入れることが出来る。
極端な話をすれば、彼らは「利益を求める侵略戦争」を止める気はなく、休戦協定は単なる態勢の立て直し程度にしか思っていないということである。
「北方から探っていた部隊はどうなった」
「間が悪く寒気にぶつかって殆ど凍死したよ。機を見て北方の遊牧民と接触してガイドをやらせるべきだな」
「シャイアナ教の連中の手は回ってないのか?」
「連中の領土側から見れば、人もいなければ耕作にも使えない荒れ地乗り越えなければならん。存在そのものさえ知らんだろう」
「西方の抜け道は?」
「あの気味が悪い傭兵共が見つけたそばから攻め入ってくる。零戦だか何だか知らないが、ハイエナみたいな奴らだ。切り札を使わねば正攻法は不可能だな」
「砂漠、荒れ地、寒冷地……障害の多いこって。海岸線と海はどうだ?」
「進めているが、どうも上手くいかない。最近海から怪物が湧いて出たり、送った連中が怪物に変化させられてたりだ。あの魔の海域に近いせいだな。まぁ聖教の連中も同じ問題に直面して海から攻められない。道士くずれの連中にどうにか対策させて、無理ならこちらの線は捨てよう」
「スパイはどうだ?」
「流石に聖教には潜り込めんが、そこそこは入れた。だが騎士団の気狂い共に相当数捕まってる。ま、拷問の末獄死だろうな。腕のいいのも何人かやられたよ。流石は拷問大好き民族だねぇ」
拷問を嬉々として行っている連中がいるという点では決して間違いとは言えないが、坐教の歴史にも道徳心が退廃して様々な拷問が考案され、それが現代も残っている事を考えると同じ穴の貉でしかない。
大きなテーブルの上に地図を広げて話し合う彼らは、総道派に所属する工作隊の重役達である。彼らの仕事は専ら、シャイアナ教の支配権をどう切り崩すかの皮算用と偵察、破壊工作などに精を出すこと。ただ、それだけだ。
その過程で味方と敵が何人死のうが、敵でもない無辜の民が貶められ犯され殺害されようが、彼らはそれに対して特に思う所はない。支配域を拡大して土地を奪い、民を隷属させていくら金が毟り取れるか――そして、その分け前がいくら自分たちの懐に収まるか。彼らの興味の行きつくところはそこでしかない。
彼らは国というシステムの中では末端だ。ゆえに政治的思想などないに等しい。ただ目先の利益を優先し、せっかくここまで広めた支配権をもう少し、もう少しと逸る欲望に任せて突き進んでいる。それを端的に形容するならば、彼らは骨の髄まで戦争を好む戦争屋だった。
「――時に、例の本はどうなっている?」
「二百五十冊。南方で仕入れた奴隷共が気が狂うほど楽しそうに書いてくれたからな」
「ほう、時の皇帝殿の怒りに触れて焚書されたアレの写本の、さらに写本か。どの程度のモノだ?」
「使い方を間違えなければ町一つ程度は軽い。暴走すれば、それはそれで混乱の坩堝。奴さんは弾圧が過激なだけに、それに噛みつき返したいと燻る輩もいる。魔女、シャーマン、悪魔契約者……果てには精霊剣士なんてのもいるそうだが、実物は拝んだことがないな」
世間話のように語る男の手には、一冊の分厚い本が握られている。立派な装丁はされているがページはどれも微かに歪で黄ばみ、とてもよい本には見えない汚らしい色彩だった。いや、より正確には、一定以上の審美眼を持つ人間ならば『おぞましく、存在すべきではない』と感じる異様な存在感を放っていた。事実、それの製造過程や用途を知った人間がまともな感性を有しているのなら、その原本を焚書した皇帝とやらと同じ行動を選ぶだろう。
「既に本はあらゆるルートで送り込んだ。もう止められん。俺たちが対岸で眺めている間に、勝手に連中の戦力は蚕食されていく寸法よ」
「しかし、零戦は『そういった事柄』に詳しいのも多いのではないか?」
「それこそ好都合よ。強くなり過ぎれば――教会との折り合いが悪くなるだろう?」
居ながらにして物を知り、動かずして人を動かし、絵図のままに事を為す。
古代に於いてそれを為すものを人は聖者とも神とも呼んだ。
だが、一定の権力と環境と精神を持つことにより、人はそれになることが出来る。
神と呼ぶには余りに未熟で下等で不完全だが、人間の社会性に操られて実体を得る欲望という名の怪物。僅か百の年月にも満たぬ間に、人はそれを途方もなく巨大に成長させてゆく。
故に、そのぶくぶくと醜く肥やした欲を削り取る者が現れるのは、必然であったのかもしれない。
突如、部屋の扉が番ごと吹き飛ばされ、大きな何かがテーブルの中央に叩きつけられた。
何事かと目を見張る男たちの目の前にあったのは――それは、人間だったものであった。頭蓋、腕、腹を数か所、まるで巨大な怪物に食い千切られたが如く欠損し、止め処なく鮮血を垂れ流し、彼らの皮算用の紙を朱に浸してゆく。
「で、で……りぇ……けふっ、………」
それはまだ、一応生きていたらしい。何事かを喋ろうとし、結局なんの言葉にもできず、そのまま事切れた。半分ほどなくなっているその男の顔を見た一人の顔がさぁっと青ざめた。
「こやつ、慶奉警備隊長……ッ!?」
この建物の警備隊長である慶奉は、先の戦争で前線に立ち将を打ち取った事もある剛の者であった。任務に実直で練気道の達人でもあり、あらゆる状況で冷静に判断を下す指揮能力もある。彼ら『裏』の部隊の中でも十指に入る手練れだ。
それが、こうも凄惨に殺害された上で目の前にいる。その状況が何を意味するか、彼らは受け入れ難いがためにすぐには呑み込めなかった。さりとて状況は待ってはくれず、破壊された扉の先にいる、彼らにとっての死神が、ゆるりと自然な動きで部屋に踏み入る。
「隊長格か。成程、道理で久方ぶりに闘争が出来た訳だ。坐教はよい。粒揃いである。数に頼る連中では闘争の相手として余りに生温い」
そこに立っていたのは、長髪の東洋人だった。
言葉にかなり訛りこそあれ、言語は坐教圏のもの。鋼のごとき筋肉を隠そうともせぬ堂々たる姿に、手練れの者であろうことを疑う余地はない。服装もまた坐教圏の意匠が感じられるが、その服にはあらゆる場所に故意に肌を露出させるような形状になっており、かつ戦闘を前提として肌に強く密着している。
露出した肌に坐教の古い教えである陰陽の刺青が入っているが、だから味方側の人間だと思うほど呆けた事を考えられるほど、彼らは目出度い頭をしていない。
入ってきた男は、別段焦るでもなく余裕を持って歩いていた。故に、現状を飲むこむのに時間が掛かった彼らも一斉に動く。元は荒事から成り上がった者たち、一人は青龍刀を、一人は懐から瞬時に鉄扇を、次々に武装を手に持つ。そしてその一部は、投擲武器の針や鋲を侵入者に投げつけていた。
肉を裂き骨を抉る鈍い音。
「な、に……?」
それは、投擲した男の驚愕と困惑の声だった。
投擲した武器は一直線に男の顔面に向かい、そのまま突き刺さった。避けられも防がれもせず、無抵抗に凶器は命中していた。男は顔面から血を噴き出し、倒れた。
「……おい」
「分かっている」
一人の男が組み立て式の長棒を持った男に目配せし、じりじりと長棒を突き付けながら倒れた侵入者に向かう。その間に別のものは隠し扉を開いて逃走の準備をし、あるものは自分たちの手元にあった書類を集めて手早く術で燃やしてゆく。
既に侵入者は常人なら即死する傷を負い、倒れている。焦ることはない――そう考える者はこの場に誰もいなかった。
そも、この場所は身内にすら一部しか知らない隠れ場だ。しかも侵入者が入りこんでいるのに誰も駆けつけず、あまつさえ警備隊長が殺害されているという事は、下手をすると砦の護衛は彼らの気付かぬうちに全滅しているという事だ。
すなわち、侵入者が一人であると決まったわけではなく、依然として自分たちに暗殺者のような敵が仕向けられている可能性が高い。
そしてもう一つ――警備隊長程の剛の者を正面からであれ不意打ちであれ無残に殺害した男が、あの程度の攻撃を避けられない訳も、慢心にまみれていたとも彼らには思えなかった。故に、これまで命を弄んできた――そして命を懸けて金を儲けてきた彼らの本能が叫んでいる。
今、この状況は明らかにおかしい、と。
退路を確保した。
燃やすべきものは一通り燃やし、あとは火を放って全て炭と灰にするのみ。
そして棒を持った男の間合いに、倒れた侵入者の体が入った、その時。
「矢張り坐教はよい。質は劣るが、こうでなくては闘争の意味がない」
侵入者の足が長棒に向かって振り上げられ、通り抜けた。
長棒が足を避けたのでも、足が外れたのでもない。通り抜けたのだ。
では、当たったはずの長棒はどうなったか。
「き、貴様――その足はッ!!いいや、貴様の体に刻まれた陰陽の正体はッ!!」
「――そういえば、貴様らにはまだ名乗りを上げていなかったな。習わしという訳でもないが、冥途に逝くに負けた相手の名も知らぬとあらば寂しかろう」
侵入者が自らの顔に刺さった刃に手を翳した瞬間、刃が抜けた。
傷だらけで無残な形状になった男の顔の傷が瞬時に塞がり、数秒で元の顔に戻る。
そして、翳した手と棒を通り抜けた足から金属が捩じ切られるような異様な金属音を響かせながら、侵入者は堂々と名乗った。
「零戦部隊第十席、『檮餮』――ラゴウ・カウラン。貴様らを喰殺しに来た者だ」
事ここに至って、その場にいる全員が、それを直視した。
刺青だと思っていた彼の陰陽、その陰と陽の狭間がぱっくりと口を開け、その中に奈落のような深い孔と、人間のもののような歯がびっしりと生え揃っているのを。その歯が先ほど触れた長棒と刃をばりばりと咀嚼し呑み込むという、冒涜的な光景を。
彼らは聞いたことがある。零戦には嘗て狂帝が編み出した八十八の死に至る呪術が一つ、『餮餐孔』を無数体に纏って戦う者がいると。その名をラゴウ・カウランと言うと。不死者でありあらゆる傷を再生すること。
そしてもう一つ――彼は戦う意思を見せもしない者には見向きもしないが、一度でも戦う意思を見せればたとえ女子供とてその呪いの孔で貪り食らう狂人であると。
手遅れだった。彼らは戦いに慣れているが故、初手を間違えた。
彼らは武器を出し、先手を打ってしまった。
自分たちが戦闘能力と意思を持った戦士であることを、悟らせてしまった。
「ば、化け物……!」
「闘争に挑む者の多きこと、善哉。では存分に鏖殺し、鏖殺されよう」
彼らの隠れ家に恐怖と怒号、そして狂喜の雄たけびが響き渡った。
数分後、音はぴたりと止み、内から分厚い長袍と手袋を嵌めたラゴウが入口から出でて、遅れて隠れ家からもうもうと火煙が立ち上った。
人を食い物に欲を満たさんとした男たちは、須らくその欲に食い殺された。
されど、その欲は死後も夜を這いまわり、時に人を殺める事もある。
「カウラン殿。生存者は?」
「おらぬ。久方ぶりに善き仕事であった」
ラゴウのサポートをする異端審問官に、僅かながら満足げに返答するラゴウ。彼は抵抗しない者は例えそれが敵の重要人物であろうと堂々と無視する困った悪癖があり、異端審問官はそれを気にしての質問だった。結果、懸念は徒労であったと知り、それ以上審問官は何も言わなかった。
もうこの場に用はないとばかりに審問官が転移術の準備をするなか、ラゴウは屋敷で拾った一冊の本を無言で見つめていた。普段なら彼は敵の情報の持ち帰りになど一切の興味を示さない。闘争の相手がいるかどうかだけが最大にして唯一の判断基準である掛け値なしの戦闘狂、それがラゴウだ。
そんな彼が本を手に取った理由は唯一つ。この本から、自らの肉体に課せられた呪いである『餮餐孔』一つ分に匹敵する呪いの力を感じたからだ。餮餐孔は一つとて通常の呪殺の術を遥かに上回り魂に刻まれる強烈な呪いであるため、それに匹敵する呪いの力を持ったそれが物珍しかったのだ。
ついでとばかりに彼は殺害した警備隊長の血で濡れたが故に焼失を免れた何枚かの書類も持ち出していた。彼は、その本と書類から嗅ぎつけたのだ。常々彼が求めて止まぬ血煙と騒乱――すなわち闘争の気配というものを。
「螺諏蟸伝本……か。人皮に記される書物とは、呪い師の好きそうな代物だ」
そして翌日、彼の持ち帰った情報が事件の幕を開けさせた。
彼の二つ名「檮餮」のトウは檮杌のトウ。そしてテツは饕餮のテツ。どちらも中国の悪神「四凶」から。檮は愚か、餮は貪り喰うという意味なので、饕餮(二つとも貪り食らうという意味の漢字)とはちょっと違います。




