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17.交差する夜道

 女であるという事は、異端審問官という仕事を執行する上では不便だった。


 低俗な男は言い寄ってくるか、女だからと侮って下に見てくる。その度に実力行使で解決するのは非効率的であり、ともすれば男のふりをするという手段を取るのは当然の帰結であった。幸か不幸か、異端審問官は名前だけでなく自らの素顔を隠すことも珍しくはないいため、ノウハウがあった。


 彼女は腐敗した教徒が嫌いだった。だから腐敗を除去することを主とした異端審問官は、彼女にとっての天職だった。そして幸運なことに、彼女は術師としても処断者としても優秀であった。


 彼女が与えられた仕事名の『マタイ』は、誰にでも与えられる名ではない。異端審問会の中では、仕事名は嘗てシャイアナ教の為に敢えて汚名を被った罪人の名を借りて守護者を代行する――そんな高尚な意味を含んでいる。マタイはその中でも特に聖シャイアナが存命だった時代を生きた存在だ。罪の大きさがそのまま自分に圧し掛かる。彼女が第十八席の補助を任されているのは、それだけ重大な責任を与えるに値すると考えられているからだ。


 しかし、いつからだろう。

 マタイがイスラ・ミスラという青年を個人的に深く意識するようになったのは。


 彼は冷めているのにどこか大人になり切れない。

 自らを卑下しているのに青臭い綺麗事を忘れられない、そんな男だった。


 屍徒を殺害すれば、望んでこうなった訳でもないのに苦しかったろうと呟く。

 不死者を殺害すれば、死ねないでいるから狂ってしまったのかと悩む。

 亡霊を浄化すれば、そこに魂のあった証として律義に石碑を置く。


 仕事としてあらゆる意志を強制的に刈り取って金銭を得ることの愚かしさや虚しさを揶揄するように、彼は自分をろくでもない人間だと断言する。しかし、彼がろくでなしならば、異形狩りに快楽を覚える連中や金の為に戦う連中とは何なのだろう。

 彼は全てを自分がやりたいから勝手にしていると言い、教会にあまりいい顔をしない。それは宗教と言う柔軟性に欠ける救済では救いきれない人間がいることを知っているからだ。そして彼は、どこまでもそんな棄てられた存在から目を逸らせない人間だった。


 例えそれが偽善と呼ばれるものでも、誰の称賛や感謝を得られる性質のものではなくとも、彼はそうする。その過程で悪意や腐敗に塗れた人間を容赦なく死に至らしめてその返り血を浴び、周囲から蔑まれても、決して道を違えない。そして彼はその行為の根拠を頑なにまで他者にゆだねようとはしない。


 宗教の後ろ盾も社会の後ろ盾も拒絶し、己の正義をひたすらに執行し続ける。

 彼は余りにも純粋過ぎて、救いという朧げな価値観に対して敬虔だった。

 その姿はどうしてか、マタイには殉教者のように見えた。


 思えばこの頃から、マタイには彼に対する憧憬のような意識があったのかもしれない。

 だから、その憧れを己が女であるという事実が崩してしまうのではないかという恐怖があった。


「――どうした?」


 不意に、彼が振り返る。彼の透き通った視線に覗き込まれ、マタイは少し気を乱された。


「何がでしょうか。歩幅は遅れていませんが……」

「普段と雰囲気が違った気がしただけだ。いや、余り深い意味はないけどね」


 彼の目はいつもと変わらない。当然だ。彼はフェミニストではない。現にこれまでも、任務の過程で彼に「罪のない存在を苦しめるだけの者」と断ぜられた者の中には女性も多数含まれている。彼が殺害した裏切者の元十三席『魂縛師』も妙齢の女性だった。

 だからきっと、問題があるのは自分の方なのだろう。静かにそう自覚し、マタイは己を殺した。これより先は任務の場であり、己のすべきことは彼の全面的な援護である。


 イスラは『指定席』の中で最も教会側に近い存在だ。そしてその信念が故、万一にも零戦部隊や騎士団などの組織の軍事力が暴走した際、その根幹を断つ処刑人として異端審問会は見ている。その彼を、聖騎士団に目をつけられた状態で単独行動させるのは危険。故に牽制も兼ねて、彼の傍に常に異端審問会の意向を臭わせていく必要がある。


 しかし――と思う。マタイは果たして、イスラという男こそが危険因子と断ぜられた際、彼を殺せるのだろうか。

 マタイにとって彼は余りにも清廉だ。それは経歴や所業の話ではなく、その在り方がマタイにとっての理想の行動に限りなく近しいし、そうあろうという不断の意志を感じられるからこそ彼を美しく感じる。その想いが、任務という鉄の規律を蚕食するように見えない深層下を覆っている気がするのだ。

 これ以上彼を見つめ続けると、戻れなくなるかもしれない。

 だから、これ以上彼と言う存在を意識してはいけない。


 無言で二人、荒れ地を黙々と進む。すると暫くして、臓物の腐れたような嘔吐えずく悪臭が風に乗って鼻腔に届く。

 どうやら目的地が近いらしい。空気は濁り、草木は枯れ果て、雨も降っていないのにヘドロのような液体が地面で水溜まりを作っている。この周辺の空間そのものが腐れているかのようだ。イスラが無言でそのヘドロのような液体に手持ちの銅貨を投げ込むと、ジュウジュウと音を立てながら氷のようにゆっくりと形が崩れ、やがてヘドロに飲み込まれた。


「こいつは酷いな………溶解液の類じゃない。水の性質が異界に塗り替えられている。実体のある存在を実体のない存在へシフトさせたって所かな。術の防護がない人間であれば、この空気を吸い込んだだけで肺からぐずぐずに崩れて死ぬぞ」


 今回の依頼は、とある町はずれの林で起きた騒動。

 その危険度は言わずもがな、第十八席が派遣される程に手の付け難い異常事態だ。


 当初は単なる異臭騒ぎだった。しかし翌日に異臭の原因を調べに行った近隣住民が戻ってこないと報告が上がり、その翌日に林に近い民家で老人や子供が変死。やがて臭いを中心にその周辺に黒雲が大量に発生し、その雲が「太陽が照ろうが風が吹こうが微動だにしない」という事実を確認して、やっとシャイアナ教会に話が回ってきた。そのときには、既に行方不明者を含む犠牲は32名にも及んでいた。


 ここ最近は発生が増加傾向にある、「異界化」――通常の物理法則では発生し得ない現象が発生し、それが現実を塗り替えるという現象だ。基本的に自然発生することはなく、必ず人の妄念が複雑に絡み合った場所で発生する。

 しかし、異界化には必ず起点が存在する。残留思念、時空の綻び、異界より干渉してくる異形の仕業、原因は様々だが最終的な対応は同じ、起点に収束する。それは言わば門であり、実体を得た幻であったり、物質であったりする。この起点に適切な処理を施すことで、異界化現象は終息する。この異界化に明るい零戦部隊員がただちにこの場所に派遣された。


「この水溜まりに足を取られた部隊員が全身溶解して1名死亡。5名が奥の元凶に殺害され、2名が行方不明になりました。唯一の生存者の報告です。それによると起点は異形種。調べたところ、157年前に異端宗教によって召喚されたのが確認された『トゥルスチャ』に酷似しているとの報告がありました」

「トゥルスチャ……教会の資料で見たことがあるな。西岸部を丸ごと溶かして半径10キロのクレーターを作ったとかいう化け物か。確か第二席の『雷鳴』が撃滅したと聞いているけど?」

「似た個体なのでしょう。第二席が早急に排除したため、トゥルスチャの情報は少ないのです。ただ、ここも対処が遅れれば西岸部と同じ結末を迎えるでしょう」

「そのようだね。進むにつれて足場が不安定だ………発生原因は?」

「推測ですが……戦時中には表向き心を病んだ人々の為の精神病院として扱われている施設がありました。実際には牢獄よりも凄惨な環境であり、流行り病にかかった末期患者なども押し込まれ、管理する人間は存在しないのに檻だけは厳重に閉じられ……噂では、戦乱のどさくさで邪魔者を送り込む場所として扱われていた、とも。終戦後は教会が丁重に弔い、処理しましたが、以前から小さな怪異の発生はありました」

「そう」


 事務的に流すイスラだが、その目は深い水底を揺蕩うように暗い。既に終わってしまった教会の過ちについて、彼なりに感情を噛み砕いているのだろう。彼の心では今、潔癖な感情と汚れを是とした感情がせめぎ合い、水面下で静かにうねっている。

 感じすぎる子供と、鈍感すぎる大人の境界線。

 それでいて、彼の目は別の方を向いている。


「……………まぁ、急ぐかな」


 指に顎を乗せて少し考え込んだイスラは、歩みを進める。


 彼の考えている事は分かる。このような異形の存在は邪神崇拝のような大掛かりな思想や儀式を起点として顕現する、非常に珍しいケースだ。そしてトゥルスチャ信仰は異端審問会によって徹底的に歴史から排除されている。それにこの林はシャイアナ教会の総本部の視線が届かない程辺境ではない。つまり、トゥルスチャを呼ぼうとした邪教徒がそれを呼び込んだ可能性は限りなく低い。


 つまりは、空間に残った狂気の残滓と異界の存在の融合。戦争開始より前には起きなかったそれが、今こうして起きている。それも、今回が初めてではないのが現実だ。

 見えないどこかで世界が崩れていくような錯覚。

 世界は平静を装いながら、静かにその歯車を軋ませ、時の針は狂い始めている。


「――いた」


 イスラが立ち止まり、目を細める。

 その視線の先には、立ち上る濃緑色の柱が立ち上っていた。

 マタイは双眼鏡を取り出し、その柱の根本を見る。


 7メートル近い巨躯は腐れた臓物に灰を塗したような悍ましい姿形をしていた。不規則に脈打ち、全身から盛り上がる瘤のようなそれは、人の顔のようにも見える。瘤には孔が開き、その中から濃緑色の液体を絶えず垂れ流している。この世の存在ならざる狂気的な姿は、常人であれば直視すらできないだろう。

 立ち上る柱の正体は、あの液体が気化したもののようだ。既にこの液体によってトゥルスチャと思われる存在の周囲は大地に沈み始めている。神秘術による防護越しにでも、そこから発せられる生きとし生ける者すべてを否定するような汚臭と刺激を感じられる。


「トゥルスチャの特徴はありますが……残留思念と融合しているのか、形状が不安定になっています。なまじ混ざりものになった結果、物質面の効果が弱まっているのでしょうか」

「そのようだ。霊的な側面が強くなっている。魂に物質が引っ張られたな。異形としての意識も、恐らくは混濁している」


 イスラの魔眼の前には双眼鏡も必要ない。1km以上先にいる存在の姿を、その性質まで理解しているようだ。

 魔眼という技術自体は魔術師などの間では広く知られているが、高度な力を発揮する半面で脳や眼球そのものへの負荷が非常に強く、暴走や失明のリスクが高い事から余り使われてはいない。扱うとしても、最悪の事態に備えて片目だけに施し、使用するとき以外は魔術を施した眼帯や眼鏡で保護するのが基本だ。なのに、彼の魔術刻眼は両眼ともに裸眼である。

 イスラの魔眼への適正が異常に高いのか、それとも施術者がとびきりに腕のいい人物だったのか――彼の両目が魔眼であることを知る者は少ないが、彼がいつ、どうやって魔眼を得たのかは本人しか与り知らない。だが、その目が彼を今の地位まで押し上げたと言ってもいい。

 そんなイスラの美しき蒼き瞳が、マタイを向く。


「霊的な側面と物質側面の両方があるのなら、魔術での攻撃も有効だろうな」

「本来はこの世の者ならざる耐久力を持つが故に撃破が困難な異形も、ああなれば通常の退魔術法でのダメージが見込めますね」

「異形と残留思念の融合がプラスに働いた……と考えるのは楽観しすぎだろうけれど、今回は都合がいい」


 イスラは懐から一つの拳銃を取り出す。

 第七席『御影』より預かり、あまつさえ専用に調整までされた拳銃は、イスラが理想を求める為に手に入れた新たな力。その力を自分も受け取る事になるとは想像だにしていなかったが、彼は今回の任務でこの力の神髄を確かめるつもりだ。


 魔眼の効果を高めるために大きく見開きながら、拳銃を両手で構えて発砲。瞬間、内部に込められたイスラの魔力が破滅の奔流となって一気に発射される。術にありがちな予備動作を極力排除したそれは、範囲ではなく貫通力を求めたのか極めて絞られていた。

 発射からほぼラグなしに、光が異形の上部を貫通する。遅れて命中した部分から大量の濃緑色の液体を撒き散らしたトゥルスチャは激しく蠢き、瘤を突き破って夥し量の腕らしき何かを放出する。一つ一つが数十mはあろうかというそれは周囲を探るように出鱈目に絡み合いながら砲撃を受けた方向に手を伸ばす。

 話によれば、攻撃を仕掛けた隊員の殆どがあの手によって掴まれ、噴出する体液をまともに浴びて腐れていったという。どうやら目は見えていないのか、手はイスラ達のいる側を中心に扇状に伸び続けている。当然、その進路にある地面を腐らせながら。


「これは貫通力より広域攻撃の方が有効か……おい」

「はい」

「確実を期すために、アンタと俺ので同時に仕掛ける」

「諒解しました」

 

 自分でも驚くほどスムーズに、マタイは懐の拳銃を抜き放っていた。

 マタイという異端審問官が背を任せるに値するか、イスラはここで試すつもりだろう。これまで彼の補助をしたことは何度もあるマタイだが、戦闘で直接的に手を貸すことは控えてきた。それは零戦部隊の領分に入らないという意味もあったし、単純にイスラがそれを必要しない実力だったというのもある。しかし、これからはそうではない。


 マタイはイスラを今まで以上に、直接的に援護する機会が増えるだろう。少なくとも騎士団の動きが沈静化するか、政治的に区切りが付くまで、マタイは騎士団と零戦部隊の間を阻む第三者の防壁とならなければいけない。


 それが善い事か悪い事か、彼女に判別はつかない。

 ただ漠然と、その任務を行う上で自分が彼の敬虔さを阻む存在になる事だけは、彼女の意志として拒絶したいと思った。


「相手の手がこちらに到達する前に、神秘術の光と魔力で作った疑似反性質波をぶつけ、対消滅で発生したエネルギーで奴を掃滅する。1、2の3で最大出力だ」

「使い方は覚えましたが、この距離では照準に不安があります。私には魔眼はないので」

「問題ない、俺が合わせる。それに、これは狙撃というより爆弾を放り込むようなものだ。多少の誤差は関係ない」

「反動が我々の下にも到達することが予想されますが」

「俺が守る」

「……………了解」


 一瞬。ほんの一瞬、任務から思考が逸れそうになった強い感情を強引に噛み潰し、マタイは照準した。不思議と緊張や動揺はなく、むしろ安心さえ覚える程に迷いがない。ただ、失敗すまいという緊張は少しばかり心に残した。


「行くぞ。一……」

「二の……」

「「三」」


 全く同時に鳴った引金、放たれる白い光と黒い光の幻想的な軌跡。

 それは流れ星と流れ星が衝突するかのようにトゥルスチャの肉体の前で交錯し――瞬間、爆発的な衝撃と閃光がマタイの前に迫った。


 爆発と轟音は十数秒間に渡って続き、周囲の腐れた大地、大気、ありとあらゆる物質を押しのけて天高くまで轟き――やがて、止んだ。


「西岸部のそれ程じゃないが、結局クレーターは出来ちゃったか」


 どこか呆れるような声。

 己の得物である大鎌を回転させて衝撃波を防ぎ切ったイスラの背中がマタイの視界に映る。イスラが防御した部分の後ろだけが、先ほどと同じ大地の形を残していた。

 遅れて、自分が衝撃に尻餅をついていたことを自覚。視線を彼の背からずらすと、清涼な空気が空から吹き荒ぶ大地には巨大な大穴が空き、その中心にいたトゥルスチャは影も形もなくなっていた。元凶が消滅したことで一気に異界化が解除されたのか、風に靡かない黒い雲も霧散し、吸い込まれそうな蒼穹が空に復帰している。


「………あれだけの衝撃が発生したことにも驚きましたが、貴方にも驚かされます」

「守ると言ったろう。どうせ自分の身を守るついでだ」


 顔を合わせない彼の言葉に、感情はない。まるで呆れられているかのようだ。

 まるで守られているか弱い女。自分でそうなりたくないと思っていたのに、自分の放った攻撃の衝撃波で転倒する情けない足手まとい。

 失望されたかもしれない、と自嘲する。これから、彼は足手纏いの邪魔な女を連れて任務に赴かなければいけなくなる。それに、彼は教会側の不手際にはいつも辛辣だ。自責の念に一瞬瞼を下ろしたマタイは、次に目を開いた時に少し驚いた。


 そこに、差し伸べるようなイスラの手があった。


「あんた、魔眼抜きの俺より銃の扱い上手いのかもな。いい照準とタイミングだった。これからもよろしく、マタイ」

「私の名を………いえ、こちらこそよろしくお願いいたします」


 マタイはその手を握り、立ち上がった。無骨な手袋越しに、血の通った温かさを感じた。



 イスラはその日以降、名前すら呼ばなかった異端審問官の事をマタイと呼ぶようになった。

 きっと彼にとっては些細な事だし、それは仕事名でしかない。

 それでも、マタイにとってそれは――。

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