13.屑鉄の行方 弐
『セニア、僕だよ。約束が守りたくて、こんな姿になってもここまで来ちゃった』
その言葉に、妹のセニアははっとして振り返り、そして僕の貌を見た。しかし、きっとその瞳は僕の面影や気配を掴むことは出来ず、代わりに化け物に追い詰められたという絶望しか与えられなかった。セニアは涙を流して、地面を爪で抉りながら蹲った。
「お兄ちゃんのフリして、私を食べる気なんだ!!お兄ちゃんが助けに来てくれたって、一瞬思ったのにッ!!」
『お兄ちゃんだよ。化け物みたいになっちゃったけど、僕はお兄ちゃんなんだ』
「大人たちがみんな言うんだ!そういうのはオバケや悪魔が人間を騙す為に言う言葉だって!何で屍徒が町の近くにいるのよッ!」
予想通りの、拒絶。僕が兄であるなど想像だにしていないのが分かる。でも、僕はそんな事とは裏腹に、そういえば僕もオバケや悪魔の事を大人から聞いていたなぁ、と郷愁のような感情を覚えた。
『じゃあ、オバケでも悪魔でもいいよ。話が終わったら僕は眠るから、寝ている間に逃げればいいよ』
「人間みたいなフリして、馬鹿にして……ッ!あんで化け物なの!何で、お兄ちゃんは戻ってこないのよぉッ!」
『………良かった』
「………何がよ」
『急にいなくなった僕のこと、セニアは恨んでいるんじゃないかって、少し怖かったから』
僕は、僕自身に何が起きたかは知らない。でも、あの大人たちに好き勝手に体を弄られたとはいえ、僕はきっと何も言わず、何も残さずにセニアの前から消えたのだ。それは理由がどうであれ、セニアにとっては裏切りに等しい事だった筈だ。
でも、返ってきた言葉はその安心を打ち砕くには十分な言葉だった。
「良い訳ないじゃない……何が良かったよッ!!お兄ちゃんはこの町で私の唯一の味方だったのに!!どんなときだって私の傍にいてくれて、私が怖い思いをしたらすぐに飛んできて、いつだって……この場所だってッ!!また来ようって言ったのに何日経っても何週間経っても、お兄ちゃんは戻ってこなかったッ!!」
「………………」
「何でよ……何で置いていったの!?私のこと邪魔だったの!?お母さんみたいに!?貴族の家に奉公に行けって言われて、やらされたのは娼婦の真似事!?それでいて這う這うの体で家に帰ってきたら、あの人は私を売って手に入れた金でご飯を食べながら実の娘に向かって『何しに来たの?貴方の分のご飯はないわよ』ってのたまったのよッ!!」
それは、僕の知らないセニア。僕が人間でなくなっている間に起きた時間を埋める、余りにも非道な事実だった。僕はそのとき、あの親という立場にいた筈の女が、本当に子供に対する情など持ち合わせていなかったことを知った。そして、それを知ったセニアを庇えなかったという事実を叩きつけられた。
セニアが持っていた花束ごと腕を地面に叩きつける。その衝撃で、花束の中から何か細い金属が零れ落ちた。それは、赤黒くて鉄臭い何かで染められたパン切り包丁だった。セニアは震える手でそれを掴み、凄惨な笑みを浮かべる。それは、きっと十余歳の子供が浮かべてはいけない狂気。
「そうよ。最初からああしてやっていればよかったんだ………あの女はねぇ!お兄ちゃんを売ったのよ!!事故なんて全部ウソ!!どこの誰とも知らない大人たちに、お金に釣られて子供を売ったのよッ!!そういう、どうしようもないママだったから、私がッ!!」
『セニア………お前は………』
「あいつ、お兄ちゃんを馬鹿にしたんだ!!邪魔で生意気だったって、今頃死んでるって!!だから私は刺したの。ママを殺して、お兄ちゃんを売ったことを後悔させてやるってぇッ!!そしたらお兄ちゃんはきっと喜んでくれるよね!?また戻ってくれるよね!?汚い大人たちの誰にも邪魔されないで二人でずっと約束の場所で遊んでいられるんだよねぇ!?」
救いを失った人間の感情は、刃となって命に向かう。僕は、妹はその刃を自分に向ける存在だと思っていた。でも、それは僕の勝手な思い込みでしかなく、事実として彼女の包丁はあの母親を穿ったのだろう。僕の為に?僕のせいで?僕がいないから?
「でも駄目ね。悪いことしたら罰が下る。貴方を連れていたあの黒い服のお兄さんはきっと死神で、悪いことをした私を殺しに来たんでしょ?殺したら?殺せば?薄汚い娘一人さぁ!!」
『そんな事……ないよ』
「嘘ばっかり。あは、あはははははは………ああ、ここは思い出の場所だぁ。ここに来ればお兄ちゃんが約束を守るために待っていて、またやり直せるんだ!お兄ちゃぁん、隠れてないで出てきてよう。あの日に戻ってママを殺せばずうっと一緒だよッ!!あはははははは………」
焦点の合わない瞳、道理の合わない言葉。
妹は、もう壊れていた。
『………ごめん。もう、やり直せないかな』
こんなにも悲しいのに、涙も出ない。こんなにも胸が苦しいのに、それももうすぐ終わる。
僕はセニアに歩み寄った。瞬間、セニアは鬼気迫る顔で僕の頭にパン切り包丁を振り下ろした。頭部に軽い衝撃。ペき、と小気味の良い音を立てて包丁は折れた。茫然と刃先を見たセニアの横まで歩み寄り、僕は空を見上げた。茜色の太陽はいつしか地平へ沈み、驚くほどに早く、灯りのない森は暗闇に飲み込まれていた。
『完全に日が沈んじゃった。あの日もこうだったよね?お母さんに叩かれたセニアが家にいたくないって言って森に逃げ出して、追いかけっこしてるうちにここに来たんだ』
「……それ、何で知って……あれは私とお兄ちゃんしか知らない事なのにッ!!」
『帰ってから余計に怒られて、セニアを庇った僕は頬を叩かれて口から血が出たんだ。なかなか傷が治らなくて、その間ずっとセニアに心配かけさせちゃったよね』
「……なんでお兄ちゃんみたいなこと言うの?巫山戯るな化け物ぉッ!!お兄ちゃんは貴方みたいなぐちゃぐちゃの屍徒じゃない!ない、ないでしょ。あるの?ある筈ない――」
『何を忘れても、ここでの約束だけは忘れられなかった。死神さんに無理を言って、僕は死ぬ前にここに来てセニアとの約束を守りたかったんだ』
「――フェロー、お兄ちゃん………」
『ごめんね、セニア。お兄ちゃん、こんな体になっちゃったから………もうすぐお兄ちゃん、動くことも出来なくなっちゃうから………ごめんね』
僕の名前はヨンゴウでもダレットでもない。僕の本当の名前はフェロー。
でも、僕はもうフェローじゃなくてもいい。フェローとしての僕は、実験台に体を置かれたあの時に死んでいたんだ。だから僕はダレットの名前で、ここで死ぬ。不思議と恐怖は無かった。後悔は沢山あったし、悲しみも沢山あったけど、死は受け入れられた。
「お兄ちゃん……何で、何でそんな姿なのよ………なんで生きていたのにッ!約束守ってくれたのに、また私を置いていくの!?」
『最期まで勝手なお兄ちゃんだったね、僕。こんな事なら死んだままでいた方がセニアを悲しませなかったかもしれないのに、化け物の姿になってでも、どうしても約束を守りたかった………』
「意味ないよ……お兄ちゃんが死んじゃうんなら、こんな約束に意味なんて!!ねぇ、もう一回約束してよ!もう一度会えたじゃない!!私なんだって我慢するから、お兄ちゃんが化け物のままでいいから一緒にいてよ!置いてかないでぇ……!」
セニアの手が、僕の体を抱きしめた。その感触も温かさも、もう今の僕にはほとんど感じ取ることが出来ない。ああ、本当にもうすぐ駄目になるのだと思うと、もう少しだけ生きていたいという望みは湧いて来た。
女神様、聖シャイアナ様。せめて一分、せめて一秒。お金も食べ物もいらないから、時間をください。金属のパーツや腐りかけた肉にも構わず僕を兄と呼んでくれる世界で唯一の妹と、もう少しだけ一緒にいる幸せをください。
あの日も夜も僕らを見下ろしていた、いと丸く美しき月を見上げ、僕はそう祈った。
それが、僕の最期だった。
僕が最期に見た光景――それは。
砕け散る自分の頭蓋と月すら霞む眩い光。そして、左手の肘から先がなくなって茫然としているセニアの呆けた表情だった。
何が起きたのかは全然理解できなかったけど、唯一つだけ。
とうとう僕は最後まで妹を守り切れなかったのだという事実が、たまらなく悔しかった。
◆ ◆
その一撃は、イスラの予想を超えて唐突、かつ突然に、騎士団とイスラの戦いに終わりを告げさせた。
戦闘開始から数分。既に騎士団のメンバー20名余りのうち、既に13名がイスラの鎌によって四肢のどこかを切断され、呻きながら地面に転がっていた。騎士団の剣は届く前に剣そのものを破壊され、不意打ちで放った筈のどの神秘術も瞬時に看破、破壊され、両者の戦いがもはや戦いとして成立しなくなってきた頃合いを見計らったかのように、その光は唐突にイスラの頭上を通り抜けた。
それが先ほどまで騎士団が放った『聖槌』などとは比べ物にならないほど強力な神秘を内包している事に気付いたイスラはそれを全力で薙ぎ払うように鎌を振るうが、その光は斬撃を受けて尚、砕け散る事はなくイスラの頭上を通過し、イスラが張った結界を一撃で突き破り、そして――。
「ダレットくん………セニアちゃん………」
抱き合っていた兄妹。その兄の頭部を、後ろからかけられた妹の腕もろとも正確無比に破壊していた。
「え?………え?おにぃ、ちゃん………?」
セニアは目の前で起きた事が唐突すぎて、まだ自分の腕が破壊されたことにも気付かずに座りこんで茫然とダレットを見ていた。ダレットは頭が破壊され、そのままぴくりとも動く気配はなかった。イスラの魔眼は、その魂が『あちら側に旅立つこともなくその場で四散した』のを、はっきりと見た。
「………『祓剣』。そうかい、ああそうかよ………はは、ふざけやがって」
乾いた笑い。楽しさや可笑しさなど微塵も存在しない、怒りの末に逆転した感情表現を口元から漏らしながら、イスラは自分でも驚くほど冷静に魔眼の干渉でセニアの腕に干渉し、その断面を『殺し』、痛みと出血を抑えるよう術を放った。セニアは自分の腕が更に一段、達磨落としのような厚みで音もなく落ちたことにさえまだ気付いていない。
イスラは知っている。
『祓剣』は騎士団にのみ伝承される究極の術の一つであり、それは聖シャイアナの下にそぐわない万物を『祓う』ことを目的としていることを。それによって破壊された魂はあちら側に向かうことなく完全に消滅することを。そしてそれによって傷を与えられた者は、浄化という名の光に犯され、内側から破壊されるが故にそれを防ぐにはセニアの腕を更に切らねばならなかったことを。
イスラは知っている。知っているからこそ――もう、イスラは我慢ならなかった。
「もうすぐ旅立つ子供が一人、最期の未練を断ち切る為に家族と出会うのが、わざわざ神様の名を借りてまで不意にしなきゃならないもんかね?」
「訳の分からないことを言うな、貴様。そこにあるのは異教徒の作り出した邪物であり、教会はその存在そのものを許容することはない。それは子供ではないし、命ですらないし、仮に元はそうであったとして、既に異教徒の力を吸収した穢れである」
淡々とした返答。振り返れば、そこに一際上等な装備を身に着けた一人の男がいた。
白銀の髪、蒼い瞳。記憶を手繰ろうとし、どうでもいいかと思う。だってこの男は今からイスラが殺すのだ。名前が何であろうが、立場がどうであろうが、殺すのだ。
「お前みたいな、命も魂も聖書の中にあると思っているような奴がいるから――これだから、俺は教会が嫌いなんだ……ッ!!」
「おお、奇遇だな。我等も常々、貴様ら零戦部隊のような志も信仰も持たぬ塵共が教会の近くで屯している姿が不愉快で仕方がなかったのだ。思考の次元が二つほど下とはいえ、貴様と結論が一致しているのは不思議な気分である」
「そうかい、じゃあやることも一緒かな?」
「そうであるな――塵ですらない零よ、教会の本分も理解せずにいたずらに異教徒の邪物を国内に連れ回した罪を祓わせて貰おう」
言葉と共に、男――セント・スーの手に極光の剣が握られた。腰に下げたご立派な剣ではなく、それは祓剣』。騎士団の殆どが一度発動するのが限界とされる神秘の塊を、男は一度放った後に息をするようにもう一度手に顕現させて涼しい顔をしている。
明らかに他の騎士とは別格。下手をすれば『指定席』クラス。
だから何だと言うのだ、とイスラは頭の中で戦力を推し量る自分をなじった。
あれは聖職者でも騎士でも何でもない。ただ人の心の痛みを理解できず、神の道理を借りて自分の道理を正当化するだけの害悪だ。人間ですらない。ああいった存在が世界に歪みを持たせ、悲劇を伝染させていく。
抑えきれない怒りが魔眼で精製される魔力を爆発的に高め、溢れ出た力が大気を歪ませる。
ダレットの事を知らないくせに。ダレットの何が罪だというのか。例え罪人だとして、それでもあちらに旅立つ権利くらいはあるのではないか。それを、高みから見下ろすだけの無知蒙昧な人間に結末を選ぶことがどれだけの傲慢であるかを、分からせなければ気が済まない。否、いっそ理解が出来ぬまま死んでゆけばいい。
「悲劇を生み出す事しか能がない選民主義の戦争屋如きが、罪を語るなぁぁぁぁーーーッ!!!」
「女神の齎す秩序も恩恵も理解できない愚昧が、我らに並び立つ道理はなしッ!!不要なのは神意に背く貴様であるッ!!!」
イスラは鎌を上段に構え、その男に何の躊躇いもなく鎌を振り下ろした。
セントもまた、その極光の剣を振り抜いた。
二つの力が、月光に照らされる丘と一つの亡骸、そして失いすぎた少女の眼前で激突した。




