11.鉄屑の行方 肆
彼――四号と呼ばれたことしか覚えていない為に古代数字から取ってダレットと呼ぶことにした――の秘密の場所の特定には心当たりがあった。手掛かりは鐘を鳴らす白い塔と、街の近くの針葉樹林。これを聞いた際にイスラが思い出したのが、戦時中最大の戦闘が起きたとされる東部の丘に建てられた鎮魂の塔だった。
シャイアナ教会の戦略術式部隊――厳密には騎士団の部隊である「聖歌隊」の投入によって膠着した戦況を変える為の作戦が実行されたが、当時の司令官の判断によって聖歌隊の攻撃は数多の味方や傭兵を巻き込んだ。結果として戦局は覆ったが、その作戦の影響でこの戦場には数多の屍徒もどきが蔓延ることになった。
屍徒とは本来特殊な術によって死後も肉体に囚われた存在だが、この戦場のそれは違った。味方に裏切られ、祖国と宗教に見捨てられた霊魂たちが『あちら側』に行くに行かれず――或いは自分でも訳が分からないまま続く死苦に苛まれた果てに死体に宿り始めたのだ。
本来、このような現象は起きないのが自然の摂理だった。しかし、あの大きすぎる戦争によって生と死の境目が極めて不安定になり、結果として現在の世界には異常なまでに悪霊の類が増加している。イスラはその行き場のない魂を只管に向こうに送り続けているが、そうした知識と技術のある人間たちの殆どがそうした現象に無自覚、或いは無関心だ。それが悪霊の活動範囲をじわじわと広げている。
白き鎮魂の塔は、表向き霊を慰めるものとして掲げられているが、実際には巨大な鐘に仕組まれた神秘術を以てして悪霊たちを強制的に戦場跡地から締め出して外面を保っているだけだ。ここでの戦いは聖戦だった、皆悔いなく死んだのだ、と喧伝するように。
勿論、悪霊たちは丘の外に押しのけられただけで、あちら側にも行けずに存在し続けている。イスラはこの周辺で一か月もの時間をかけてその多くをあちら側に送ったが、既にこの場所から周囲に拡散したと思われる霊魂たちの被害が周辺地域で加速度的に進行していた。鎮魂の塔など建てなければあの場に屍徒もどきは止まり、除霊はもっと簡単なものになった。これは教会による人災だ。
シャイアナ教会の戦後の混乱はまだ続いている。彼らの余りにも霊魂に対して無関心な態度は、そのまま行動として現れ、周辺各国を蚕食しつつある事にさえ彼らの大半が気付いていない。あの塔の白は、無知と白痴の白だ。
――その塔の近くに、同じ霊魂を締め出す結界で守られた町と、守られぬ針葉樹林がある。これらの情報を基に「秘密の場所」の当たりをつけたイスラとダレットは、その場所へと向かっていた。既に塔に上った先から見える丘にいくつか目星をつけているので、今はそれらを虱潰しに当たっていた。
空を見上げれば、もう夕日の朱が森を染めつつある。
『死神さん、物知り。僕ひとりじゃもっと大変だった』
「この辺りには嫌という程に足を運んだからね。これも巡り合わせか――もしかしたら俺と君は一度くらい顔を合わせたことがあるのかもしれない」
『そうかな。そう。昔……む、か、し、思い、出……ああ、あああああ、う、う、う』
「………無理しちゃいけないよ」
過去の記憶を掘り返そうとするたび、ダレットは発作のように全身を震わせ、やがて暴走する。彼の気持ちを静めるように、感情を抑える術式でパニック状態を防ぐと、彼はまた冷静に戻った。もう数十回繰り返せば、暴走する前に止めるのも慣れたものになる。
脱力したように首を落としたダレットは、しかし、すぐに何かを感じたように顔を上げ、歩き始める。すっかり慣れた四足歩行で、灯りに誘き寄せられる羽虫のように危うく、ふらふらと。彼が迷いない足取りで歩き始めた時、彼は何かを思い出して、それを辿っている。
ダレットは幾度となくパニックになった。特に一番ひどかったのが、自分の姿を認識した瞬間だ。まっとうな道徳を持つ人間ならば見るだけで嘔吐してもおかしくない異形に、彼は自分という存在をひどく揺さぶられた。
彼の脳は彼のものかもしれないが、果たして脳以外の殆どが訳の分からない代物に入れ替わった今のそれは、彼だと断言できるだろうか。パーソナリティの最も基礎たる顔さえ、彼は失ってしまった。魂の在処を疑った。しかし、イスラには見えていた。だからイスラは彼の認識する死神という虚像の自分を利用して、彼の存在を認めた。そこから、彼は自分が自分であることを漸く疑わなくなった。
どんな辱めを受けたとしても、魂だけは自分のものだ。
そこは絶対であり、神にさえそれに触れることは許されない。
それが真理ではなくて、ただのイスラの我儘であったとしても――生ある限り、イスラはそうある。
自我を取り戻したダレットとの探索で最初に見つけたのは枯れた井戸。次に朽ちた桟橋、そして町へ続く獣道。彼はきっと森の中に住んでいたのだろう。彼の思い出す記憶の断片が、その事実を端的に告げていた。次に彼が見つけたのは、随分と町に近づいた場所。それは長らく放置されたような小屋だった。
中に踏み入る。人が住んでいた形跡は見られないが、壁に丸っこい落書きや玩具がいくらか転がっていた。部屋の隅には萎れた花が転がっている。
「さしずめ子供の秘密基地、かな」
『うん、たくさん遊んだ。鐘の音が聞こえる場所までなら行っていいから』
「……ここの絵、男の子と女の子がいるな」
『うん、妹。妹との約束だったんだ。思い出した。思い出せた』
子供特有の頭身が低い人物絵の片割れは、スカートとリボンが協調されている。彼が人間だった頃に妹と共に残した記憶の欠片、或いは残骸。この瞬間に時計の針が二度と戻る事はなく、しかし脳裏に刻まれた記憶は永遠になる。彼は戻れないが、彼が人間であったという事実がここにあった。
「――誰?」
と――背後に気配。振り向くと、そこに女の子がいた。10歳を少し越えたくらいだろうか、イスラがこの場所にいることに酷く驚いていたが、布をかぶせたダレットの事にはまだ気付いていないらしい。よく見ればその手には花が包まれている。恐らくは供花だろう。
イスラは焦るでもなく、自然な口調で少女に尋ねる。
「君は昔からここに来るの?」
「う、うん……お兄ちゃんと一緒に遊んでたの」
「お兄ちゃんは一緒じゃないのかい?」
「………お兄ちゃんは、事故に遭って、死んじゃったってママが。でもお墓の中にお兄ちゃんはいないから、思い出の場所に花をあげてるの」
「ママは、君が一人でこんなところに来るのを止めないのかい?いくら町の近くって言ったって森の中だ。獣も出るかもしれないだろうに」
「お兄ちゃんが死んでから、ママはあんまり私のこと見てくれないから。うち、お金がないからママはいっつもお金の話ばっかりしてる。だから私は……」
短い会話だったし、何も踏み込まなかった。ただ、大よその想像がついた。
あの研究所の検体は生きていなければ意味がない。
彼女の兄は事故に遭って死んだことになっているが、死体はない。
彼女の両親は――金に困っていた。
「そっか。じゃあ最後に一つだけ聞きたいんだけど――」
残る疑問、丘の場所を聞こうとした刹那――風が小屋の入り口に吹き込み、それがダレットを隠していた布をめくりあげた。月光を反射する光沢に怯んだ少女が見たのは、肉が剥き出しになった獣の顔面に金属を無理やり埋め込んだような、悍ましい貌。
「――イヤァァァァァァァァァッ!!」
布を裂くような甲高い悲鳴が周辺に木霊した。
『……妹だ。僕の。セニア――約束、守りに、僕……』
「ば……化け物ッ!?屍徒!?貴方まさか……嘘っ、嫌ぁぁぁぁッ!!」
黒づくめの男が連れた醜悪な化け物。成程、疑う分には筋が通っていた。しかしそれにしてもタイミングが最悪だ。少女は手に持った花を投げ捨て、一目散に小屋から逃亡していった。その心ない言葉を、執念だけでこの世に留まる兄の心にありったけ突き刺して。
ダレットの体がぐらりと揺れる。イスラはそれを手で優しく受け止めた、布越しに彼の全身を包む黄ばんだぬめりが手に付着する。彼の肉体に限界が近いせいでこうなっているのは、想像に難くない。
『僕……僕、お兄ちゃんだよ。お兄ちゃんなのに………』
「………行こうか、ダレット。彼女を追いかけよう」
『え……でも、僕はもう人間じゃ――』
「彼女、これから日が暮れるってのに町の反対側に走っていった。もしかしたら君のことに頼りたくて、約束の場所に向かったのかもしれない」
黄昏時を過ぎようとする太陽を見送りながら、ふたりの短かった旅は終着へと向かう。
命の終焉、零へと。