9.鉄屑の行方 陸
苦しい――まるで狭い箱に体を無理やり押し込められたように、体が苦しい。
苦しみに喘ぎ、ふと、喘いだ声がイメージの通りに出ないことに気付く。訳が分からず体を動かすと、足が予想通りの動きをしてくれず、手も思うように踏ん張れず、何度もよろける。体が動くのに、はやり押し込められたような体の苦しみは消えない。むしろ、今こうして動かしている手足が偽物で、体の苦しさが本物のように思える。
朧げな意識で周囲を見渡す。色の判別がつかない、セピア色の世界。
壁。檻。見たこともないガラスの道具や金具。驚愕、或いは歓喜の表情を浮かべる、名も知らない大人達。大人達は「成功だ」、「信じられない」、「57人目のヒケンタイ」、「サンゴウの記録を超えた」と意味の分からないことをずっと叫んでいる。成功――何が成功なのだ。こんなに体が苦しくなり、体が上手く動かないのが成功なのか。
大人の一人が言った。「ヨンゴウ」、と。お前の名前だと。
ヨンゴウ。そんな名前は知らない。だって本当の名前は――名前は?
名前はなんだ。頭に激しい痛みが走り、呻く。名前が思い出せない。それでも無理に思い出そうとすると、狂いそうな痛みが頭の中を搔き乱した。耐え難い、本当に耐え難い痛みで、既に自分の体の制御ができないほどにもがき苦しんだ。
名前だけではない。性別も、家族も、誕生日も、何も思い出せない。何故思い出せないのかと悩むほどに、更に、頭を割って中にミキサーを叩きこまれたような激痛が奔って何も考えられなくなった。どうしてこんなに苦しいんだ。こんな苦しみを味わうぐらいなら死んでしまいたい、と願い、痛みに任せて出鱈目に体を動かし続けた。
壁にぶつかり、びしり、ぱらぱらと音がした。
何か柔らかいものにもぶつかり、ぐちゃり、びちゃびちゃと音がした。
それでも神経の一本一本を潰していくような激痛と鈍痛の嵐は欠片も引いてくれず、もう何も思い出せなくてもいいから痛みを止めてくれと頼みたかった。永遠に思えるほどに永く果てしない痛みの果てに、いつしか周囲は破壊されつくしていた。
理性が浮上し、意識が覚醒する。同時に、もう望まないと思った筈のそれが急激にクリアになった脳裏に浮かび上がった。
吐息が漏れるほど美しい幻想的な三日月に照らされた、丘の上の小さな特等席。
右手に見える天高き、大鐘鳴らす白の塔。左手に微かに見える街の灯。
針葉樹のカーテンに囲まれて、月の光を浴びて長く、長く伸びる二つの陰をみつめる。
『また来ようね、ヒミツの場所』
小さな女の子の声がそう言ってはにかんだ。月の美しさとは違うけれど、何よりも愛しかった。
月下で交わされた小さな約束に、記憶の中の『僕』は応じた。
確かに、応じて、それで――それから、あそこに行かないままでいる。
僕、僕。僕はヨンゴウ。きっと約束した僕はヨンゴウではない僕。
「や……ぉく、守ラ……ト」
言葉にはならなかった。喉が上手く動かせず、意味をなさない断片的な振動音が漏れた。
まだ体は締め付けられるような重さがあるが、暴れたことで少しだけ動かし方が分かってきた。
行かないと、あの夜に。探さないと、あの森を。守らないと、約束を。
きっとそこに、『僕』がいる筈だから。
「こいつは――………っ」
不意に、音が聞こえた。あの大人たちのそれよりやけに鮮明に聞こえる音は、背後からだった。振り向くとそこには、大きな鎌を携えて、黒い黒い、とても黒くて長いローブを纏った存在があった。
その出で立ちはまるで、死神のようだった。
◆ ◆
聞いているだけで胸糞が悪くなる依頼を受けて現場に辿り着いた時、イスラの脳裏に浮かんだ言葉は「手遅れ」だった。
視界に映るのは破壊され尽した研究所と、ぶちまけられた肉片と骨片の赤絨毯。そして無秩序無造作に大量の金属部品を埋め込まれた、嘗て生物と迷いなく呼べたはずの何かだった。
例えるならば、それはバラバラになった大型犬の死体にそれらしい肉を機械ごと繋ぎ合わせ、それでもガタの来ている筋繊維にコードや針金を強引にねじ込み、皮と肉が足りないせいで垂れ下がった金属部品と内臓を鉄板で無理やり固定して剥製の体を作ったような――言葉にならない、何かだった。
シャイアナ教でもそうでない組織でも異端という判断を下す以外にあり得ない、生命に対する冒涜の塊。人類に新たな灯を与えると嘯いた科学信仰のなれの果て。望まれざる、そして望まざる加害者にして被害者。咄嗟に魔術刻眼を開いてそれの中身を検めたイスラは、やはり、と顔を顰める。
(これでは……もう、この子は駄目だ。こうなってしまったのでは、手の施しようも――)
原型を留めない程に改悪された肉体に縫い留められた魂が、激痛に悲鳴を上げている。元に戻そうにも、この子の肉体は既に脳しか残っていないも同然。その脳も、狂った科学者共のみっともない技術力で辛うじて生命活動が維持されているだけだ。限界まで長く持って1週間――そうでなければ、今この瞬間にも潰える命。
足元に転がるばらばらの死体に恨みを込めた視線を送る。この連中が狂気とも好奇心とも判別出来ない無責任な研究をしたせいで、すべて手遅れになった。生きていたところでどうせ戻し方など知る筈もない。何故なら彼らにとって生命とは使い捨ての玩具に過ぎないのだから。だから、その傲慢のツケを自分の「作品」とやらに支払わされたのだ。
イスラはすぐさま魔術刻眼を使って研究者たちの残魂を見つけ、無造作に鎌で切り裂いた。いつもの除霊とは違った、邪魔な蠅を追い払うような冷たい動作だった。霊になった以上面倒は見るが、イスラは魂を縛る死霊遣いと同程度に、歪んだ命を作り出して悲劇を無秩序に撒き散らす彼らにも虫唾が奔った。
この冒涜的な肉塊は、魂の牢獄だ。なまじ命がある分だけ余計に性質が悪い。イスラは続いて、生肉と金属の複合体となったそれを一思いに眠らせようと手を翳した。既に存在が続くことが苦痛になる程の苦痛が連続してる筈だ。この世のどんな拷問よりも、きっと恐ろしい。
だが、それは怖がるように後ずさった。四足歩行の動物のような体形と動き。しかし中にいるのは、人間の少年。死の気配を感じ取り、まだ足搔こうというのだろうか。そう思案した刹那、それの喉から振動音が漏れた。
「まっ………ォこ、あ………約そ………」
「………………」
言葉にならない言葉。ぼうっと聞けばただの雑音か唸り声にしか聞こえないそれの意味を、イスラはしかし辛うじて感じる事が出来た。この子にはまだ、予想以上にはっきりとした人間としての意識が微かに残っている。イスラは怯える彼に近づき、人間を容易に肉塊に変えた存在に触ることの危険性を敢えて無視しながらその頭にそっと触れた。
「大丈夫、危ない事じゃない」
「…………!!」
落ち着かせるように出来るだけ柔らかい言葉をかけ、魔術を発動。断片的で意味を成さなかった彼の表層意識がイスラのそれと接続される。本来は人間のような複雑な思考の持ち主の思考を読み取るのは魔眼の補助を以てしても至難の業だが、彼の感情は動物のように一極化している。真実も虚構も剥がれ落ちて残された、それは真実だけの言葉。
『まって、死神さん。僕は約束を守るために、あそこに行かなきゃならないんだ』
「待つのは構わない。でも、体が辛いだろう?俺は君の心が途中で壊れてしまわないか心配なんだ」
『そうなんだ。優しい死神さん、僕は約束の場所に行きたいの。それまで待って?』
「分かった。俺は君が我慢できる限り待つし、君を手伝うよ」
人間は、未練なく死ねるのならば悪霊とはならない。ただ安らかに、あちら側へと逝くのみ。悪霊が異常なまでに増大した現代で、そうした死を迎えられるのは幸せな事だ。例えそれが最良でなくとも、次善で彼が眠れるのならば、俺はそれに付き合う。
(教会からの依頼内容は『研究物の処分』だけだ。期日は早めにとしか言われていないし、処分の方法は俺の専任事項。席持ちとして自由な権限でやらせてもらう。研究所が壊滅してる事だけ伝えとけば、後でどれほど時間がかかろうが異端審問官も文句は言うまい)
イスラには教会の面子も都合も関係ない。ただ、あるべき死を。望むのはそれだけだ。
月光に照らされる夜の闇の中、一つの醜い肉塊と、一人の勝手な男が研究所を後にした。
彼らの行く末を追うは、空に輝く星たちの瞬きと――イスラさえ気付かない程に遠方から研究所を監視していた、一人の存在のみ。
『………やはり零戦部隊などという胡乱な連中に大義も信仰もなしか。別段構わない。何故ならば、それを貫くは我らが宿命なのだから』
それは、望遠レンズ越しにイスラの姿を心底軽蔑した表情で眺めたのち、『転移術』で姿を消した。
今更小話。
第四席と第七席は他所のサイトで私の書いたキャラのアナザー的な存在でもあります。