知っていた
ルーフェンは優しい婚約者だった。
出会った当初こそ頑なな部分もあったが、わだかまりさえ解ければいつもエルザを気遣い、思いやってくれた。家が決めた婚約者であるのに、本当に大切にしてくれるのだ。
優しく、温厚で、栄えある王国騎士団の一員である。聡明であり、かつて英雄の一人を輩出したベルネット家の生まれで、容姿も端麗だ。加えて、今度は彼自身が勇者と呼ばれるようになった。
文句のつけどころのない、出来過ぎた婚約者だった。
誰もが彼に惹かれるだろう。エルザが常々そう考えてしまうくらいには、ルーフェンは彼女にとってもったいない婚約者だった。
だから、エルザにはいつも焦りがあった。彼に相応しい婚約者とはなれずとも、彼の負担にはならない存在でありたい。
けれど、もしも。もしもルーフェンに心から愛する人ができたとしたら、エルザはその存在自体が彼の邪魔になるのだと、今になって気付いてしまった。
気付いて、そのことに傷つくのを自覚して、エルザはどうしようもないほど自身に対し失望した。
ルーフェンが生きていてくれればそれだけでいい、とずっと祈り続けてきた。それなのに、エルザは胸を引き裂かれるような心地になってしまったのだ。
彼に寄り添う王女の姿を遠目に見て、誰もが望む物語の結末を見て、泣き叫びたいほどの悲しみを覚えた。
エルザは自身の浅ましさが、辛くて悲しくて仕方がなかった。
「初めまして、エルザさん! 僕は魔女、トレーネの一番弟子、ハイディ。どうぞ、以後お見知りおきを」
そんなエルザのもとに、鮮やかな太陽の光のような少女が現れた。
淡い色をした赤い髪は驚くほど短く、ようやく肩にかかり始めた程度の長さしかない。灰色の丸く大きな瞳が、人懐っこそうにエルザを見つめる。エルザの一つ、二つ年下だろう。表情をくるくると変える愛らしい面立ちには、あどけなさがあった。
「あっ……あ! 御前を失礼いたします! 王女殿下」
「そんな堅苦しいのはやめてほしいな。慣れていないんだ。正直王女と言われてもピンとこないし、身を隠すためと言って男として育てられたから、ガサツな自覚もあるしね」
もっと気軽にハイディと呼んでくれ、とこの国の王族たる少女はあまりにも気安く微笑む。そうは言われても、本当に呼んでもいいのか、それとも遠慮するべきなのか、エルザは自身の取るべき態度に迷う。
それに助け舟を出してくれたのは、ハイディを王都のグラーフェ邸まで連れてきたルーフェンだった。
「あまりエルザを困らなせないでくれ。君が会ってみたいと我儘を言うから連れてきたんだ」
「いいじゃないか。ルーフェンの婚約者が王都にいると聞けば、興味が芽生えるのは自然の成り行きだよ」
反射的に体を震わせそうになって、エルザは必死に堪えた。どうして、ハイディがエルザに興味を持つのだろう。悪い想像をしては必死に振り払い、何とか笑顔を貼りつける。
「ね? エルザさんも。せっかく王宮を抜け出したんだから、堅苦しいのはなしにしよう。僕と遊んでくれると嬉しいな」
とても王女殿下とは思えない気安さで、ハイディは笑いかける。気位の高さはない代わりに、気安くどうにも憎めない印象の少女だった。
「はい……あの、私でよろしければ」
「君がいいんだよ。ルーフェンが何度も君の話をするから、すっかり興味津々なんだ」
「ハイディ、余計なことは言わないでくれ」
王女殿下の名をルーフェンが呼び捨てたことに、エルザは驚愕した。彼は社交的だが礼節を弁えた人間だ。そんな彼が、婚約者であるエルザや親族以外の女性を呼び捨てにする姿を初めて見た。
「そう眉間に皺を寄せなくてもいいじゃないか」
からからとハイディが笑う。彼のその態度を当たり前のことのように受け止める彼女からは、確かな親しさを感じた。
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使用人にお茶の用意をしてもらい、三人で席に付いた。二人とも何とか空き時間を捻出してここにいるようで、少し話せばまたすぐに王宮へ戻ってしまうらしい。
「ドレスなんて着たくない、と逃げ出すものだから捕まえるのに難儀したよ」
「だって僕はずっと男として育てられたんだ。ルーフェンだってドレスを着ろと言われたら嫌だろう? 髪を伸ばし始めただけでも褒めてほしいくらいだよ」
王都を凱旋するまでに、どうやらひと悶着あったらしい。拗ねるようにハイディが呟いても、ルーフェンははいはい、と軽くあしらっている。
「ドレスなんてものは、エルザさんのような可憐な女性が身に付けてこそ、意味があるんだよ」
「えっ……」
突然彼女に話の水を向けられて、エルザは咄嗟に反応できなかった。それに、ハイディはまるで似合わないように言うが、そんなことはない、と思う。
確かに髪は短く、顔立ちも中性的だった。けれど、その造作は整っており、簡素な格好をしている今は少年のようだが、相応しい格好をすれば、美しく輝くだろう。
「……他人の婚約者を口説くような真似はやめてくれ」
「余裕がないなあ。僕は単に褒めただけじゃないか」
第一これでも僕は女だよ、とハイディはくすくすと笑う。ルーフェンはばつが悪そうに目を逸らした。気負った様子のない二人に、旅の間もこうして接してきたのだろう、と容易に想像がつく。
「ねえ、エルザさん。エルザと呼んでもいい? 僕のこともハイディと呼んでほしいな」
改めてそう望まれたが、エルザは困ったように眉を下げてしまう。
「私のことはお好きにお呼びください。けれど、殿下を名前でお呼びするなど……」
「そんなこと言わないでよ。ずっと森の中で育ってきたから、友人が少なくて。仲良くしてほしいんだ」
そう言って、ハイディは少々心細げにエルザの瞳を覗き込む。そんな風に見つめられれば、王族に対する畏敬の念よりも、ただ年下の女の子を邪険にしてしまったような、そういう罪悪感に駆られてしまう。
「あの……では、ハイディ様、とお呼びしてもよろしいですか?」
「ううん、じゃあとりあえずはそれで。改めてよろしく、エルザ」
ハイディはまだ少し不満げながら、それでも嬉しそうに破顔する。陰のない笑顔に、エルザは眩しいものでも見るような心地になった。
「また一人友人が増えた!世界を救う旅なんて、そんな大それたことはできないと思っていたけど、今じゃあ森から出てきてよかったと思うよ」
「あっ……」
そこで、エルザは思わず声を上げてしまう。恐縮してハイディの様子を窺うばかりであったのに、ぽろりと漏れた声が戻ってくれるはずもなく、ハイディとルーフェンの目が彼女へと向けられる。
「どうしたんだい、エルザ」
焦りを見せる彼女を気遣ってくれたのだろう。ルーフェンがいつものように優しい声で、続きの言葉を促した。
エルザは彼の声に後押しされ、躊躇いがちに口を開く。
救世物語を愛読してきた彼女は、その英雄たちにずっと聞いてみたいことがあった。
「あの、どうして、旅に出ることを決意できたのですか? ……恐ろしくはなかったのですか?」
物語の中では、色んな理由が語られた。自身の使命だから、力を持って生まれたものの定めだから、人々の笑顔を守りたいから、と。
どの登場人物も、それぞれの人生という背景がある。その背景が理由となり、旅立ちを決意させていた。
それでは、実際に旅立った彼女たちは、一体何を想い、世界を救う決意をしたのだろうか。
エルザの視線を、ハイディはしっかりと受け止めた。彼女はきょとんと眼を丸くして、それからゆっくりと微笑む。それまでの天真爛漫な様子とは違う、大人びた表情だった。
「……僕はね、百年前に救世の旅に同行したトレーネに育てられたよ。こう説明するとすごくいい魔女みたいだけど、トレーネは悪い魔女なんだ。それもとびきり悪い魔女だった」
光の魔力を制御できなかった王女は、魔女に預けられた。それもまた、人々の間で噂となっている。人間には使えない闇の魔法を、魔族の血を引く魔女は意のままに操ることができる。光の魔力と正反対の性質を持つ闇の魔法だからこそ、王女の魔力を制御することができたのだ。
「どうしてトレーネが悪い魔女だと思う?」
ハイディは問い掛ける形を取ったが、答えを求めている訳ではないらしく、誰かが口を開くよりも早く、言葉を続けた。
「……トレーネがそう決めたからだよ。だから、トレーネはとっても悪い魔女なんだ」
肩を竦めるようにして笑う。トレーネを悪い魔女だと語るハイディだが、その言葉には溢れるほどの親しみが込められているようだった。
「それでもトレーネは、確かに世界を救ったよ。そんな悪い魔女が救世に手を貸したくなる世界なんて、どんなに素晴らしいものだろう、と思った。だから、僕は旅立つことを恐れなかった。だって、ずっと広い世界を見てみたかったんだから」
「どう……でしたか? ハイディ様の目から見て、この世界は」
意気揚々と語る彼女に、エルザは恐る恐る口を挟んで問い掛ける。ハイディはどこか遠くを見るような目で、静かに語った。
「恐ろしくて、冷たくて、どうしようもないくらい寂しいところだったよ。けれど、それ以上に優しくて、温かくて、愛しい場所だった。僕は、この世界を守れたことを誇りに思っている」
「――ああ」
静かな同意が、その場に落ちる。
「僕もそう思うよ」
そう口にするルーフェンの紫の瞳は、ハイディと同じ色をしていた。二人は同じ目線で、きっと同じものを見ているのだろう、と思う。
エルザはそのとき、強い疎外感を覚えた。けしてエルザが理解できないものを、二人は共有している。
頭の中に、いつかのルーフェンの言葉が蘇る。
『民意には逆らえなかったということかな』
それは、遠い国の王女と画家の婚礼の話をしていたときだった。
エルザは知っている。今、最も期待に満ちた民意がどういったものか。
民は望んでいる。かつてのような、幸福な結末を。
それは、聖女と勇者による幸せな結婚式だった。