望ましい結末
世界が青い空を取り戻した日から間もなく、王女とその一行が確かに世界を救った、という報せがグラーフェ邸にまで届いた。
エルザはそれからすぐに父に頼み込み、できるだけ早くグラーフェ領を発つと王都へと急いだ。
遠くから一目だけでもいい。ルーフェンの健勝な姿を確認したかった。
帰還した一行はまず、旅の報告のために王都に留まるだろう。その後ルーフェンは一度ベルネット侯爵領へ戻り、どんなに早くてもエルザが彼と会えるのはそれ以降になるはずだ。
けれど王都にいれば、王都を凱旋する姿を遠目に見られるかもしれない。エルザを突き動かすには、その可能性だけで十分だった。
長旅で疲れている彼を煩わせたくない、と思いつつも、エルザは一縷の望みをかけ、ベルネット侯爵家の本邸と王都の別邸へ、王都へ滞在する旨を記した手紙を送った。
優しいルーフェンは、時間が作れるようになれば顔を見せてくれるかもしれない、という淡い期待を捨て切れなかった。
「エルザ様、もうお休みください」
青い空を取り戻しても、それから王女一行が王都へ帰還するまで、また長い時間が掛かるだろう。王都のグラーフェ邸に着いたエルザは、毎日ルーフェンの帰還を待ち続けた。
使用人に咎められてからようやく眠って朝早くに起き、また窓の外を眺めてはルーフェンたちの情報を待つ。
それからいくつもの夜を超えて、その日もエルザは夜更かしをしていた。使用人に促されてようやく寝台に向かおうとしたとき、二階の自室にいた彼女は、階下が何やら騒がしいことに気付く。
すでに侍女にも休むよう伝えていたため、エルザは一人でひっそりと部屋の外へ出た。廊下を歩いて階段へ向かう。
王都のグラーフェ邸は玄関を開ければ広間となっており、突き当りに二階へ向かう階段がある。
その階段に差し掛かり、一段ずつ降りようとしたところで、ようやくエルザはその人の姿を捉えることができた。
「……ああ、こんな時間にすまない。色々とすることがあって、今しか時間が取れなかったんだ」
一層大人びて、繊細で美しく整った面立ちには精悍さが増していた。けれど、ほろりと零れるように浮かべる微笑みは、エルザの知っているものと変わらない。
「ただいま、エルザ」
よく知った声で名前を呼ばれ、彼女は堪らず階段を駆け下りた。エルザが転んでしまうと思ったのかもしれない。彼はぎょっと目を見開くと、慌てて彼女の方へ駆け寄った。
そして、最後の一段を下りきる前に、彼――ルーフェンはエルザを抱え上げるように引き寄せた。
「エルザ、久しぶりだね。少し痩せた?」
背中に回った彼の腕が、エルザを強く抱きしめる。
彼女は何も言えなくて、名前を呼ぼうとしても嗚咽にしかならなくて、彼にしがみ付いて子どものように泣きじゃくることしかできなかった。
「泣かないでよ」
困ったように笑って、ルーフェンがそう呟く。
軽く笑うような口調はいつもの彼のものだ。ふふふ、と彼は嬉しそうに笑い声を立て、主人に甘える子猫のように、エルザの首筋に顔を擦りつけた。
「会いたかったよ、エルザ」
その情感のこもった声が、ルーフェンの言葉が心からのものであると告げる。だから、彼女は嗚咽を抑え込んで、必死に言葉を紡いだ。
「私も……私もずっとお会いしたかった。ルーフェン様……!」
抱きしめた身体が温かい。抱きしめられる腕は痛いほどだ。聞こえてくる声も間違いなくルーフェンのもので、ようやくエルザは彼が本当に無事であったことを理解した。
今、こうして生きていてくれる。これ以上の幸福はなかった。
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本当に忙しい中、会いに来てくれたようで、ルーフェンはエルザに顔を見せると慌てて王都のグラーフェ邸を後にした。
その翌日に、昨夜王女一行が王都に帰還したという報せがエルザの下に届き、彼がどれだけ急いで会いに来てくれたのかを知った。
喜びの余り眠れず、明け方にようやく眠って目が覚めたエルザは、ルーフェンと再び会えたことが夢だったのではないか、と無性に不安になった。同時に、そんな訳がない、と逸る気持ちもある。
自分に都合のいい夢でも見たのではないか、と思っては、使用人に現実にあったことかと確認し、一日が終わる頃にはすっかり侍女を苦笑させてしまっていた。
それからほんの数日後、王女一行は王都を凱旋することとなる。王都は世界が救われた喜びに湧いていた。誰もが取り戻した平和を、当たり前に続く未来を、天に広がる青い空を、心から尊び、感謝した。
当然、王都では王女一行の噂で持ちきりだった。買い出しに出掛けた使用人が教えてくれるには、ルーフェンは第二の勇者だと言われているらしい。救世の旅において、目覚ましい活躍を見せたそうだ。
エルザはとても誇らしかった。誇らしいと感じている自分に気付き、ちょっとばかりおこがましい、と思って反省した。
それでもどうしても、さすがルーフェン様だ、と浮足立つ気持ちを抑えることなどできない。
普段は、王都は比較的安全とは言え何があるか分からないから、と言われ、ルーフェンがいないときはあまり外出しないようにしている。しかし、凱旋の日ばかりはどうしても彼の晴れ姿が見たい、と思って我慢できなかった。目立たないように気をつけ、護衛を連れて王都の広場へ向かう。
夜中に会いに来てくれた日以来、ルーフェンとは会えていない。忙しくしているのだろうが手紙もなく、一目だけでも彼の姿を見たかった。
「すごい人ね……」
広場に向かったエルザは、見たことがないくらい沢山の人が集まる様子に圧倒された。賑やかな広場では、人々の歓声や話し声が飛び交っている。
「聖女アーデルハイト姫の再来だ」
「まさかベルネット家の人間が剣で勇者と呼ばれるなんて」
「カイ・ハーメルの魔力には知性のない魔物も怯えるらしい」
広場の盛り上がりに相応しい調子で交わされる噂話が、エルザの耳にも届いた。
誰もが世界を救った英雄たちの訪れを、今か今かと待ち詫びている。
「聖女様はハイディ様とおっしゃるらしい」
「これまでその存在を秘されてきたが、今後は王宮に戻られると」
「しかし、それも一時的なものだろう。アーデルハイト姫も、戻ってすぐに婚礼を上げたそうだ」
「今度の勇者は侯爵家の人間だから、昔よりも早く纏まるかもしれないな」
え。
と、エルザは思わず足を止めて振り返った。しかし、先程の会話が誰から聞こえてきたものなのか分からない。例え、誰の言葉か分かったところで、エルザには何もできなかっただろう。
「あ、ほら! 来たぞ!」
突如、大きな歓声が上がる。あらゆる楽器が奏でる音楽と共に、馬に乗った一団がゆっくりと広場を通過する。そうして、ぐるりと王都を一周し、王宮へ戻っていくらしい。
馬に乗った一団の真ん中で、エルザはすぐにルーフェンの姿を見つけた。英雄たちの凱旋に、広場は異様な熱気で盛り上がっている。
そんな中で、エルザは突然すべての音が、温度が、遠ざかるように感じた。ひどくひんやりとして、心もとない気持ちになる。
あんなに見たかったルーフェンの晴れ姿なのに、今はどうしてだか心が波打ってくれない。
ルーフェンは他の人たちと同様、馬に乗っていた。ただし、その馬に乗るのは彼一人ではなかった。
ルーフェンの腕の中には、一人の女性がいた。
この距離では、その容姿は窺えない。ただ、可愛らしい薄紅色をしたドレスを纏っていることから、年若い少女だろう、と察せられた。
二人は、けしてエルザの手の届かない馬上で、睦まじそうに寄り添っている。
エルザの心の中に、何度も繰り返し読んだ一節が浮かび上がる。
『長い旅の間、支え合い続けた勇者と聖女は、いつしか愛し合うようになったのでした』
みしり。
心が軋む音がした。