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空に祈る


 旅立つルーフェンを見送ってから、エルザには新しい日課が出来た。

 領地内にある教会に通い、彼の無事を祈る。そんなことしかできない自分がもどかしくて、けれど祈らずにはいられなくて、エルザは毎日通い詰めた。


 日課が増え、代わりに一つ、それまでの日課が減った。


 表紙が褪せてくたびれるほど読み込んだ救世物語の本を、一切開かなくなった。物語の中では、聖女や勇者一行が乗り越えたあらゆる苦難が記されている。


 読み物としてならば苦難も物語を盛り上げるための一要素と言えるが、現実ではそんなもの、ない方がいい。今もし、ルーフェンもこんな風に苦しんでいたら、と考えると恐ろしくて、エルザはこれまで大事にしていたその本を、収納棚の奥の奥にしまい込んでしまった。


 ルーフェンが旅立ってから五日ほどで、彼の手配通り二人で並んだ絵画が届いた。画家本人が届けにきて、エルザに確認してほしい、ということだった。


 応接室に通して、画家が大きな布から取り出したのは、エルザが抱えれば難儀してしまいそうな大きさの絵だった。繊細な意匠の額縁が嵌められ、その中で寄り添うルーフェンとエルザが微笑んでいる。


 絵の中のルーフェンはその柔らかな表情も、真っ直ぐな立ち姿も、優しい菫色の瞳も、癖のある蜂蜜色の髪も、本人そのままだった。

 この間見送ったばかりなのにもう懐かしくて、エルザは胸が締め付けられるようだった。

 王都で働いていた彼とは、もっと長い間会えないことも当たり前にあったのに。


「どこか、違和感はありませんか?」

「いえ、いえ。問題ありません」

「それはよろしゅうございました」


 ルーフェンの隣で椅子に腰かける自分の姿は少し、むず痒い。自分の顔を客観的にみると、何だかエルザには違和感があった。確かに自分自身なのだが、こんな顔だっただろうか、と不思議に思ってしまう。

 けれど、ルーフェンをこうまで描き出してくれているのだから、きっと他人から見た自分はこんな姿なのだろう、と思う。


 着こなせていないと思っていた、ルーフェンが贈ってくれたドレスも、絵になるとしっくりときた。もしかしたら、画家が似合うように気を利かせて描いてくれたのかもしれない。


 そういえば、画家の前で並んで描いてもらった日、ルーフェンは帰り支度をしていた画家と何やら話し込んでいた。これだけしっくりとくる絵姿なのは、そのときルーフェンが細かく指示していたからかもしれない、とエルザは思った。


「それでは、私はこれで失礼いたします」

「ありがとうございました」

「それはこちらの台詞ですよ、奥様。睦まじそうなご夫婦を描かせていただき、清々しい気持ちにさせていただきました」


 ありがとうございます、と画家にしては身なりのいい男は軽やかに口にする。画家を志せるということは、貴族ではないにしてもそれなりに裕福な家の出だろう、と察せられた。

 物怖じすることなく、けれど礼節を弁えた画家はにっこりと人好きする笑みを浮かべている。


「いえ、私たちは夫婦では……あの、婚約者です」

「ああ、それはそれは失礼を……いや、しかし、そうですか」


 荷物を抱えなおした画家は、実に晴れやかな顔で笑った。


「きっと愛し合う、よき夫婦となられることでしょう」


 そして、画家はグラーフェ邸をあとにした。


 エルザもずっとそう思ってきた。ルーフェンを煩わせることなく、彼の役に立ち、立場を弁えた妻になり、彼にとっていい夫婦になりたい、と。

 そうすればいつか、物語の中の聖女と勇者のように、愛なんてものも芽生えるのではないか。そう、願っていた。

 


 +++



 リーゼロッテ・ベルネット改め、リーゼロッテ・ハーメルがグラーフェ邸を訪れたのは、ルーフェンが旅立ってから、季節がようやく変わろうかというときだった。

 彼女の上で広がる空は、やはり今も靄がかったままで、きっと青空の方が似合っただろうに、とエルザは残念に思う。


「こんにちは、エルザ」


 紫の瞳を細めるリーゼロッテは、今日も美しい。母親似だというルーフェンと彼女は、その容姿もよく似ている。中でも、エルザが特に似ていると思うのは、二人のまっすぐと伸びた背筋だった。

 余談ではあるが、彼らの兄にあたるベルネット家の長男は、父親似であまり二人とは似ていない。


「お久しぶりです、リーゼロッテ様。ご結婚おめでとうございます」

「ありがとう」


 エルザは使用人に頼んで用意してもらっていた、二人きりのお茶会の席にリーゼロッテを促す。腰掛けた彼女は、エルザに向かって微笑んだ。


「突然のことで驚いたでしょう?」

「……ええ、まあ。けれど、ルーフェン様に事情は伺いましたので」

「あら、あの子はなんて?」


 エルザはあのとき聞いたルーフェンの言葉を思い返す。言葉を選ぶために一度カップに口を付けた。


「二人きりで誓いを立てた、と」


 それ以上なんと言葉を続けようか、エルザは迷った。ルーフェンはリーゼロッテやカイの考えについても口にしていたけれど、それを自身がどこまで話していいものだろう、と悩む。

 そんなエルザの考えを読んだように、リーゼロッテは苦笑しながら口を開いた。


「身勝手と呆れているかしら?」

「いえ! そんなことは……」


 思わず立ち上げりかけて、勢い込んで否定したエルザに、リーゼロッテは珍しく目を丸くして素直に驚き、それから頬を緩めて今日一番の笑顔を見せた。

 その表情の変化を見て、エルザは初めて気づく。リーゼロッテは今日、来訪したときからずっと緊張していたのだ。


「そうね。あなたはそういう人だわ、エルザ」


 安心したように、嬉しそうにリーゼロッテが言う。その声に信頼が込められているような気がして、エルザは湧き上がるような喜びに体温が上がるのを自覚した。

 出会った当初、ルーフェンの姉である彼女と、良好な関係を築きたいと思っていた。いつしか彼女の人柄を知り、姉がいたらこんな風だろうかと、心から慕うようになった。

 だからもし、本当にリーゼロッテが信頼を向けてくれているのだとしたら、エルザはとても嬉しい。


「……たぶんね、待っていてほしい、と言われたら待っていたわ。だけどあの人、婚約を解消しよう、と言うんだもの」


 リーゼロッテはカップに口をつけ、困ったように微笑む。


「私は行き遅れではあったけれど、これでもね、今もお声を掛けてくださる方はいらっしゃるのよ。父は私の年齢を気にしていたし、きっと彼が婚約解消を口にすれば、すぐに応じて次の婚約者を探してくれるでしょう」


 リーゼロッテの美しさは、有名な話だった。社交の場に出れば、いつも周囲の視線を一心に集める。一つ微笑むだけで、どれだけの男性が彼女に焦がれるのだろう。

 リーゼロッテの魅力は、けして年齢で褪せるようなものではなかった。


「でも、無理よ。あの人を愛したまま、他の人の妻になんてなれないわ」


 そう言ってリーゼロッテは目を伏せる。きっとその心には、カイ・ハーメルの顔が浮かんでいるのだろう、と思った。


「……そう、ですね」


 エルザもそうだ。エルザはルーフェンに恋をしている。彼を想ったまま、他の男性と結婚することになれば、きっと身を裂かれるような苦しみを味わうに違いない。

 ましてや今、ルーフェンはその命を懸けて、世界を救うために旅をしているのだ。ただでさえ不安で、心配で、毎日毎日恐ろしくて堪らないのに、誰かの妻の仮面なんて被れるはずもなかった。


「……大丈夫よ、エルザ。二人とも、きっと拍子抜けするくらいあっさり帰ってくるわ」


 そんなエルザの心を見透かしたように、リーゼロッテは言う。彼女は夫と弟を見送って、ここにいるのだ。その不安はどれほどのものだろうと思う。それでもエルザのことを気遣ってくれる彼女の優しさが、ありがたくて申し訳なかった。



 +++



 エルザはルーフェンを見送ってから、グラーフェ邸に人が訪れる度に怯えていた。もしかして、もしかしたら、何か彼女にとって恐ろしい報せが届いたのではないか、と悪い考えに陥っていた。


 空は未だ靄がかかったままで、世界に広がる闇の魔力が払われていないことは分かる。そんな中でもし、何か報せが届くとしたらきっと凶報なのだろう、と考えていた。


 エルザは毎日祈った。どうか無事であるように、並んで描かれた絵のルーフェンを見つめて、その度に涙を拭って祈り続けた。世界の危機よりも、彼の危機が何よりも恐ろしい。


 ルーフェンはやめてくれと言っていたけれど、やはり剣を扱えたらよかったのに、とエルザは後悔した。そうすれば旅に同行して、彼を危険から遠ざけることもできたのかもしれない。


 時折リーゼロッテとお茶会を開き、励まし合うように和やかな会話をした。そのときだけは、エルザもほんの少し肩の力を抜けるような気がした。


 季節を一つ越え、また一つ越え、そしてもう一つ越えた頃。

 それは、突然のことだった。


「あ……あ、ああ……」


 エルザは堪らず外へ駆け出した。屋外に出て、しばらく呆然と辺りを見回し、空に向かって手を伸ばす。何かを求めるように伸ばした手はそのまま、彼女は大地の上で膝をついた。


「ああ……!」


 空を見上げて、エルザは堪らず歓声を上げる。溢れ返った涙が、彼女の頬を次から次へと濡らしていった。


 彼女の見上げる先。そこには、晴れやかな青い空が広がっていた。





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