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呼べなかった名前



 吉報が届いたのは、ルーフェンがグラーフェ領を発つ二日前のことだった。

 エルザはその報せを受けて、目を剥いて驚いた。はしたないということも頭になく、慌ててルーフェンの元へと駆け出した。

 彼のために用意された客室の扉を開ければ、剣の手入れをしていたらしいルーフェンが微笑んで出迎えてくれた。


「ルーフェン様! こんなところにいらしてよろしいのですか!?」

「……酷いことを言うね、エルザ。君は僕がここにいては迷惑かい?」


 ルーフェンの眉尻が下がる。椅子に座っているため、普段とは違って下から見上げてくるその悲しそうな目に、エルザの中で罪悪感が湧き上がる。エルザは彼の悲し気な表情にめっぽう弱かった。


「そんなことは……」

「そう? ならよかった」

「はい……いえ、あの、そうではなく」


 碧い瞳に困惑を浮かべるエルザを見かねたのか、ルーフェンはくすくすと笑いながらからかってごめんね、と全くそうは思っていなさそうな顔で謝罪を口にした。

 今度はエルザの方が眉尻を下げたが、すぐに気を取り直して先程届いたばかりの手紙を彼に突きつけた。


「リーゼロッテ様がご結婚なさったと言うのに、弟であるルーフェン様が式にご出席なさらなくてよろしいのですか?」


 手紙の内容は、リーゼロッテの結婚を知らせるものだっだ。お相手は、もちろんかねてよりの婚約者、カイ・ハーメルである。

 成婚の日付はルーフェンがグラーフェ邸に滞在を始めてすぐの頃となっていた。


「ああ、それはいいんだよ。挙式はしてないから」


 婚姻自体は、教会で神に誓いを立てることで成立する。しかし、親族や仕事関係、友人知人へのお披露目も兼ね、この国では挙式を上げるのが通例だ。結婚式は社交の場としても望ましい、とされている。貴族のように大きなものではないにしても、平民も簡単なパーティーを催すらしい。

 つまり、挙式も上げずに婚姻を果たすということは、随分異例のことだった。


「挙式をしていない、とは……?」

「そのままの意味さ。旅に出ると決まってから、式を挙げるほどの時間はなかったからね。式も挙げずに婚姻なんて反対されるに決まっているから、父にも言わずに勝手に教会に行くと言っていた」


 ルーフェンはリーゼロッテから直接その考えを聞いたようだった。彼は手入れの終わったらしい剣を鞘に納め、手入れのためにと用意していた布を畳む。

 目を伏せ、長い睫毛がルーフェンの頬に陰を落とした。


「姉さんはとてもしたたかな人だよ。意地が悪い癖に、自分のために、家のために、といつも最良の選択をしようとする。だからこそ、勝手な婚姻は姉さんにとって家への裏切りとも言えるだろう」


 彼の言葉に思い出すのは、リーゼロッテの美しい微笑みだった。豊かな蜜色の髪も、紫の色の瞳も、いつだって人目を惹きつけて離さなかった。整った目鼻立ちが、リーゼロッテの清廉な魅力を引き立てる。

 それでいて、とても頭のいい人だった。エルザにはいつも無償の優しさを向けてくれていたけれど、その優しさと美貌を必要なときに必要な分だけ振る舞うことができる人だった。

 貴族の子女として、彼女ほど理想的な人物をエルザは他に知らない。


「それでも姉さんは今、カイの妻になることを選んだ。それ以外を選べなかった。僕の意地悪な姉さんは、カイのことを心から愛しているんだね」


 カイには同情するよ、とルーフェンは肩を竦めておどけるように笑った。憎まれ口に含まれるのは、きっと彼なりの姉に対する捻くれた愛だ。


「まあ、上手くいってよかった。カイは婚約を解消しようとしていたようだから」

「え? 何故ですか?」


 カイ・ハーメルとは、エルザもベルネット侯爵邸で何度か顔を合わせたことがある。釣り目がちで、意思の強そうな真っ黒の瞳が印象的な、口数の少ない少年だった。エルザと同い年にしては少々童顔で、その面立ちにはまだ幼さが残っていた。

 お世辞にも表情豊かとは言えず、エルザには彼が何を考えているのか全く分からなかった。けれど、例えば階段を上るとき。黙ってリーゼロッテに手を差し伸べる姿を見て、とても大事にしているのだと、そう素直に感じられた。


 だからこそ、二人は政略結婚とはいえ、心から愛し合う婚約者同士なのだと、エルザは思っていた。それなのにどうして、カイは婚約を解消しようとしていたのだろうか。


「彼は真面目で優しい男だから。帰ってこられるかも分からない旅に出るのに、姉さんを自分に縛り付けてはいられない、と思ったようだよ。姉さんはすでにいい歳だしね。事情が事情だからお互いの家に禍根を残すこともないだろう」


 椅子に座ったルーフェンの隣に立つエルザの手を、彼の指が掬い上げる。互いの指と指を絡ませて、組むように手を繋いだまま、彼の長い指がエルザの手の甲をすりすりと撫でた。


「それが、カイの愛なんだろうね」


 そうかもしれない、と彼女は思った。エルザ自身はカイとそう親しい訳ではない。けれど何度か顔を合わせる中で、そう納得できるような印象を抱いていた。

 カイには大事なものを遠ざけて、離れたところで見守るような、そんな不器用さがあった。


「……僕には真似できないな」


 独り言のようにルーフェンが呟く。胸の中心に爪を立てられるような痛みを感じたけれど、エルザはそれを無視してそうだろうな、と思った。

 そもそも立っている場所が違うのだ。愛し合う二人と、よくていい友人である彼女とルーフェンでは。


 手放そうとしたカイのひた向きな愛も、それでも手放さなかったリーゼロッテの情熱的な愛も、ここにはない。

 あるのはたった一つ。エルザの臆病な恋だけ。


 だから、二人は今も婚約者でいられた。



 +++



 そうして、旅立ちの朝がくる。

 空は相変わらず薄雲が掛かったようにすっきりせず、爽やかとは言い難い朝だった。その日も早朝から起き出したルーフェンは、毎朝の鍛錬を終え、身支度を整える。


 夫の身支度を整えるのは妻の務めだ。エルザはあくまで婚約者でしかなかったけれど、その役目を望む彼女に、ルーフェンが許してくれた。


 けれどその身支度も、すぐに終わってしまう。

 エルザは向かい合うルーフェンを、ただじっと見上げていた。


「エルザ」


 零すように、いつの間にか大人の男性の声へと変わっていたルーフェンの声が、彼女の名前を呼ぶ。低く落ち着いた声が、エルザはとても好きだった。

 ルーフェンの大きな手のひらが、彼女の頬に触れる。そのままするり、するり、と繰り返し優しく撫でた。


「エルザ」


 もう一度名前を呼んで、ルーフェンは困ったように首を傾げて笑った。


「……泣かないで」


 どこかつたなく、ルーフェンが言う。

 エルザの頬に触れる彼の手は、彼女の涙ですっかりと濡れていた。手のひらの温かさを意識すると、もうだめだった。止めようとも思い至らないくらい、次から次へと涙が溢れ返ってくる。


 エルザはただ、怖かった。

 ルーフェンが危険な旅に出てしまうことが。その中で怪我をしてしまうかもしれないことが。そうして、もしかしてもしかしたら『最悪』なことが起こってしまうのではないか、と。

 エルザは恐ろしくて、不安で、耐えられなくて、もういっそ『行かないで』と泣き縋ってしまいたかった。


 けれど世界の命運を背負って、誇りを胸に旅立とうとする愛しい人を、どうして止めることができるだろうか。


 彼の決意を、彼の覚悟を、エルザが踏みにじる訳にはいかない。


「……っ」


 それでも、どうしても、

 『いってらっしゃい』とは言えなかった。


 だって行かないでほしい。叶うならどこにも行かないでほしい。安全なところでいつも笑っていてほしい。

 

『行かないで』も『行ってらっしゃい』も言えなくて、そうなるとエルザはもう、何も言えなかった。その癖、涙だけはどれだけ溢れ返っても止まってくれそうにない。


「エルザ、待っていて。僕は必ずここへ戻るよ」


 行かないでほしい。けれどエルザの愛したその人は、いつだって迷わず剣を握り、凛と前を向く人だから。


 エルザは何も言えなくて、その代わり彼に手を伸ばし、その身体に抱きついた。縋るように背中に腕を回せば、ルーフェンはそれに応えるように抱きしめ返してくれる。


「行ってくるよ、エルザ」


 ルーフェンは名残惜し気に手を離す。

 そして、彼はエルザの前から旅立っていった。


 だんだん小さくなっていく彼の背が見えなくなるまで見送って、エルザはその場に崩れ落ちる。


 せめて一言彼の名前を呼べばよかったと、そんな後悔が残った。





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