僕を忘れないで
ルーフェンの朝が早いことを、エルザは初めて知った。
休暇と称してグラーフェ伯爵邸に滞在しているが、その間も身体が鈍らないようにと、彼は早朝に庭に出て剣の鍛錬をしている。
使用人からそのことを聞かされたエルザは、次の朝からルーフェンに合わせて起床し、彼の鍛錬を見学するようになった。
「まだ寝ていればいいのに」
ルーフェンはそう言って笑って、けれどそばにいるエルザのことを、遠ざけるようなことはしなかった。
一頻り剣を振るい、手の甲で汗を拭う彼に手拭いを渡せば、ありがとう、と礼を言って受け取ってくれた。ルーフェンはそれで顔や首の汗を拭いていく。
「ルーフェン様は、剣がお好きですね」
「まあ、仕事である以前に趣味でもあるな。それに、身体を動かすこと自体が好きだ」
ルーフェンは鞘に収めた剣に視線を落とし、そう答えた。
剣を振るう横顔を思い出す。その表情は真剣そのもので、視線は鋭く、緊張感に満ちていた。けれど、先程の言葉通り、確かにどこか楽し気だとエルザは思った。
自負と誇りに裏打ちされたルーフェンの真剣な表情が、彼女は胸が高鳴るほどに好きだった。
「……私も、剣を扱えればよかったのに」
ぽつりと、思わずそんな言葉が漏れた。
エルザの発言に、ぎょっと目を見開くのはルーフェンである。
「何故、そんなことを」
「ルーフェン様がそれほどお好きなことなら、私も興味があります」
彼の目線を知りたい、とエルザは思った。ルーフェンが何を見て、何を感じ、何を想うのか。彼と同じことをして、同じものを好きになればその欠片を掴めるような気がした。どうして自分は剣を扱えないのだろう、と後悔にも似た気持ちが浮かぶ。
「だめだよ、エルザ。君が怪我でもすれば、僕は悲しくて泣いてしまう」
肩を竦めるようにして、ルーフェンがそんなことを言う。手拭いを首にかけ、剣を持つのとは反対の手を伸ばし、エルザの頬に触れた。
「僕をそんな情けない夫にするのは忍びないと、どうか諦めてくれないか」
そう言われてしまえば、エルザには頷くことしかできない。ルーフェンはよかった、と笑って彼女の頬を、優しく一撫でした。
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旅立ちまでのわずかな時間を、ルーフェンはエルザと過ごしてくれた。
ルーフェンが彼女の読書に付き合うこともあれば、エルザが彼のおしゃべりに相槌を打つこともあった。時には、グラーフェ領の散策に出掛け、時には椅子の上で隣り合って座り、いつのまにかルーフェンがエルザにもたれて眠ってしまったこともあった。
旅立ちまで残り五日をきった頃、ルーフェンの計らいでグラーフェ邸には近頃評判の画家が呼ばれた。突然のことに戸惑っているのはエルザだけのようで、事情を知っている様子の使用人には、見たことのないドレスや髪飾りで飾り立てられた。
使用人に聞けばすべてルーフェンが用意したものらしい。どれもこれもとびきり上等で華やかなものばかりで、エルザは立派な意匠に存在が霞んでしまいそうだと思った。
「よく似合っているよ、エルザ」
いつもなら嬉しい彼の褒め言葉にも、今回ばかりは自信を持てなくて俯いてしまいそうになる。それでも顔を上げたのは、ルーフェンもまた、正装に着替えていたからだ。その姿に、思わず目を奪われる。
美しい人だと思った。少年のような頼りなさは自然となくなり、いつしか堂々とした男の人になっていた。
見惚れてしまう。美しくて、輝かしくて、こんなに素敵な人の隣に自分が並んでいいものかと、エルザはまた少し不安になる。
「おいで、エルザ。絵を描いてもらおう」
ルーフェンに促され、エルザは画家の前で椅子に腰かける。彼はその隣に寄り添うように立っていた。
「色を付けて完成したものを後で届けてくれるらしいから、それを部屋にでも飾っておいてくれ」
ああ、これも旅立つ準備なのか、とエルザは相槌も打てずに納得した。
しばらく無言で画家と向き合っていれば、おしゃべりなルーフェンが我慢できなくなったように口を開く。
「そうそう、遠い海の向こうの国では、王家の姫君と平民の画家が婚礼を上げたそうだよ」
「……そんなことが、あり得るのですか?」
エルザは驚いてルーフェンへ顔を向ける。こらこら前を向かないと、と咎められ、慌てて居住まいを正した。
君主制であるこの国において、生まれ持った身分には強い意味がある。王家の結婚相手となれば貴族か他国の王族が通例で、平民と王族の婚礼などあり得ない。それが、この国で生まれ育った彼女の中の常識だった。
「我が国が誇る救世の勇者ユリウスだって、平民の出でありながらアーデルハイト姫を娶ったじゃないか」
「それは……例外でしょう。お相手は共に世界を救った勇者です。これ以上相応しい相手はいません」
「そうだね。それと同じだよ。その画家は王位簒奪を目論む不忠義者の悪事を暴いたという話さ」
画家が絵筆を滑らせる静かな部屋で、まるで内緒話でもするように囁き合う。その中で、ルーフェンの零れるような笑い声も響いていた。
「それを、民衆の面前で派手にやったらしい。直後、すぐに姫君と画家が恋仲であったという噂が広まった。美しい恋物語に酔った民衆を抑えきれず、婚礼を認めることとなったようだよ。まあ、姫君と画家の夫婦だなんて、奇異なことではあるね」
事実在ったことである、と語りながら、ルーフェンの口調はどこか御伽噺でも読み聞かせるような調子だった。軽やかな口調で、だからこそあまり現実味がない。
「……でも、そうだね。国を纏めるのは貴族であり、国を統べるのは国王陛下だ。けれど、国を支えるのは一人一人の国民と言えるだろう。いくら王家とはいえ、民意には逆らえなかったということかな。……まあ、お綺麗でいいんじゃないかい?」
嫌いじゃないよ、そういうの。そう、歌うように付け足して、ルーフェンはしばらく口を噤んだ。エルザにはやはり上手く、想像が出来ない。彼女は根っからの貴族である。
けれど、確かに姫君と画家の間に愛があるのだとしたら、ただよかったと、そう思った。愛する人のそばにいられるなら、これ以上の歓びはないだろう。少なくとも、エルザはそう思っている。
しばらく無言の時間が続いた。その無言の空気を打ち破ったのは、やはりというべきかルーフェンだった。静かな、けれど重みのある声で彼が告げる。
「エルザ、僕はこの絵を残していくよ。君と二人で描かれたこの絵が、君の婚約者は僕であるという証明だ。何度でもこの絵を見て。その度に僕を思い出してほしい」
紡がれるのは、別れの準備だった。彼がグラーフェ邸に身を寄せて以来、とても穏やかな時間を過ごしている。エルザの家族も、使用人も、食事時と必要な時以外はそっと二人きりにしてくれていた。
エルザは幸せだった。ルーフェンと穏やかなときを過ごせるだけで、ただ幸せだった。
けれどそれは、終わりの決められた幸福だった。
「僕を忘れないで」
どうして忘れられるだろう。
こんなにもあなたが恋しいのに。