求められる覚悟
空には靄がかかったようになり、世界に青空が広がることはなくなった。夜に月が輝くことはなく、真っ暗な闇だけが世界を支配する。
雨季でもないのに曇り空のように薄暗い日が続き、どことなく不気味な気配を感じさせていた。
異常事態だということは、誰しも気付いていただろう。
エルザもまた、不安に感じていた。
領地に戻っていた彼女の元には、ルーフェンから一度だけ手紙が届いた。何が起きているのか判明するまではあまり出歩かないように、という内容で、それ以来定期的に交し合っていた手紙は全く届かなくなった。
日中は曇り空のようになっているものの、真っ暗ではない。そのため世界は異常を感じつつも、常通り機能している。それでも彼からの手紙が届かないということは、ルーフェンがそんな暇もないほど忙しくしているということだろう。
まさか彼に何かあったのでは、そう悪いことを考えそうになって、その度にエルザは慌てて首を横に振った。こんなことは初めてだった。だからこそ、彼女は不安でならなかった。
頼みの綱は彼女の父だ。グラーフェ伯爵は王都の様子を知るために色々と動いているようだった。しかし、その詳しいところをエルザに教えてくれることはない。ただ、ルーフェンが体調に問題なく忙しくしている、ということは伝えてくれたので、エルザはそれを信じて待ち続けた。
そしてまた、季節が移ろい変わる頃。
突然、ルーフェンはグラーフェ伯爵邸を訪れた。
「手紙で先触れを出したのだけど、どうやら僕の方が早かったようだね」
変わらない笑顔で、ルーフェンはそう微笑んだ。父に呼ばれ、彼の来訪を知ったエルザは慌てて駆け寄って歓迎する。
「お久しぶりです、ルーフェン様」
「ああ、エルザ。会いたかったよ」
ルーフェンはいつもと変わらない笑顔をエルザに向けた。華美な装飾を避け、動きやすさを重視した、けれど質のいい意匠。左に携えた片手剣。柔らかそうな蜂蜜色の髪に、優しく細められた菫色の瞳。
けれど、その心の高揚が滲み出ていることに、エルザはすぐに気付いた。
「エルザ、しばらく休暇をいただいたんだ。その間の君の時間を、僕にくれないかい? 君のお父上には、グラーフェ邸に滞在させてほしいことも含め、話を通してある」
「それはもちろん構いませんが……どうして突然……」
エルザが王都に滞在するとき、ルーフェンはいつも時間を作ってくれた。しかし、彼は何も言わないが、それだって無理に都合をつけてくれていたようなのだ。王都を出てどこかに滞在できるほどの休暇など、これまで一度もなかったはずである。
そんな彼が、突然王都の外へ滞在できるほどの休暇を得たという。何かあったのでは、というエルザの不安は膨れ上がるばかりだった。
そして、そんな彼女の懸念は見事に当たる。
「陛下より栄誉を賜った」
ルーフェンは、どこか誇らしげに口を開いた。国のための騎士である彼にとって、それは確かに誇らしいことであるのだろう。
「およそ百年前、聖女によって払われた闇の魔力は、長い時間をかけ、再び膨れ上がったらしい。それを払い、封じるための旅の一員として、選ばれた」
それはまるで、かつての救世物語のように。
「僕はこの世界を救うため、旅に出る」
エルザはすぐに二の句を継ぐことができなかった。
おめでとうございます、と称えることもできない。
彼の栄誉を共に喜ぶこともできないなんて、婚約者失格なのかもしれない、とエルザはどこか冷静な頭の隅で思った。
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闇の魔力を払う光の魔法は、代々王家に受け継がれてきたものである。
その力は王家の女児に特に強く宿ると言われ、実際に救世物語において、光の魔法で世界に満ちた闇を払ったのは、その時代の王女だった。
当代の王家には王子しかいない。しかし、実際は死亡した、とされていた王女が生存していたらしい。あまりに強い光の魔力の制御に困り果て、王宮を離れて魔力を制御する術を身に付けていたそうだ。
王女の安全のために万全を尽くしてはいたが、それでもその存在を守り、害なそうとする者から秘するために、死亡したと発表していたようである。
ルーフェンらの仕事はその王女を護衛し、世界に光を取り戻すことらしい。魔術師として活躍している、リーゼロッテの婚約者のカイ・ハーメルも同行するとルーフェンに聞かされた。
「魔女の言葉を信じるならば、百年前の世界の危機に比べ、闇の魔力の広がりは薄く、王女殿下の力で問題なく払いきれるものらしい。百年前に比べれば魔物も少なく、魔力から受ける影響も少ないだろう、ということだった」
増えすぎた闇の魔力は、理性のない獣を狂暴化させる。彼らの旅には、獣による危険も懸念されていた。幸いなのは百年前の旅とは違い、世界を牛耳ろうとしている魔王がいる訳ではない。
当時魔王に迎合していた魔族は、勇者たちの手によって打ち滅ぼされた。元々数が少なかったこともあり、人間と距離を置いていた他の魔族は、今では隠れ潜むように細々と暮らしているらしい。
そんな中で、魔族の血を引きながら人間に協力する者がいた。それが、前回の救世の旅の同行者でもあり、人間と魔族の間に生まれた魔女、トレーネである。
彼女の所見を語るルーフェンは、何故か顔を顰めて不機嫌そうにしていた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、不快なことを思い出しただけだ」
不快さを振り払うように大きな溜息を吐いて、ルーフェンはその表情の理由を口にした。
「……笑ったんだ」
「どなたが、でしょう……?」
「その、魔女だ。王女殿下を保護していると言うから迎えにいけば、僕の顔を見て笑ったんだ。よりにもよって『あの坊やによく似ている』と!」
『坊や』という言葉が誰を指しているのか、エルザには分からなかった。しばらく考えて、それからあっと閃く。
トレーネは魔族の血を引く。長い時間を生きており、百年前の旅にも同行していた。そんなトレーネがルーフェンの顔を見て思い出す可能性のある男性。そして、彼が似ていると言われて嫌がる相手となれば、エルザには一人しか浮かばなかった。
「ルーフ様ですか?」
「……今も生きているようにその名を呼ぶのはやめてくれ」
どうやら彼女の予想は当たっていたらしい。顔を顰めていたルーフェンが、今度は拗ねるように背ける。
ルーフ・ベルネットは、ベルネット家を代表する魔術師だ。けれど、ルーフェンはその先祖に対し複雑な感情を抱いているようだった。魔法を不得手としていることが、彼の心を煩わせているのかもしれない、とエルザは思う。
「ルーフェン様はその……お嫌いなのでしょうか」
「嫌いと言うか……君は好きだろう」
名を呼ぶなと言われればはっきりと誰を、と示すことはできなかったが、話の流れでエルザの言葉の意図を察してくれたらしい。ルーフェンは顔をしかめたまま、視線だけを彼女へ向けた。
「はい。私は、あのお話が好きなので」
「だから……いや、違う。そうじゃないな」
口ごもりならが呟いて、ルーフェンは一度大きな溜息を吐いた。そして、顔を上げると、もう先程の不機嫌はなくなっており、いつも通りの優しい微笑みを浮かべている。
「僕の仕事の話はここまでにしよう。せっかく休暇をいただいたんだ。もっと楽しく君と過ごしたい。そうだ、領内を案内してくれないかな、エルザ。君の生まれ育った場所で、君の好きなものを沢山知りたいな」
そう言って立ち上がったルーフェンは、エルザの手を引いて来客用の部屋から屋敷の外へ向かう。
笑って素直に手を引かれながら、けれどエルザの胸は押しつぶされそうだった。
ルーフェンには十日ばかりの休暇が与えられた。それは、大きな任務を前にして与えられる、ある意味で『準備期間』とも言えるものだった。しかし、すでに旅立ちの準備は終え、全ての都合も付けてあるという。
それでは一体何の『準備』か――別れの準備である。
魔を払うための旅には多くの危険が伴う。そのすべての危険を退け、王女殿下をその命に換えても守らなければならない。それは、王女が忠誠を誓うべき王家の人間である、ということ以上に、彼女以外に光の魔法を使える者がいないからだ。
世界を救うために、他の何を犠牲にしても王女を守らなければならない。
そのためにルーフェンたちに求められるのは、死ぬ覚悟というものだった。