約束
二話同時に更新しています。
これの一話前からご覧ください。
エルザは真っ直ぐに、ルーフェンの滞在している客室へ向かった。
慌ただしい様子に、すれ違った弟がぎょっとしたような目を向けていたが、彼女は構わずルーフェンの部屋へ向かう。
そして、部屋の前に立てば、深呼吸する暇もなく、三度客室の扉をノックした。
はい、という短い返事が聞こえて、そこでようやくエルザは深く息を吐き出す。緊張と、焦りと、高揚で、いつの間にか随分呼吸が浅くなっていた。
ゆっくりと、慎重に扉を開ける。
客室は扉を開けると突き当りに窓がある。その窓の前に椅子を寄せて、そこでルーフェンは本を読んでいた。
窓から取り入れた沢山の光を浴びる彼は、嘘みたいに綺麗で、完成された一枚の絵画のようだった。
けれど、その光景は何一つ嘘ではない。その光は彼が、彼らが、命がけで取り戻した現実だった。
「……エルザ?」
使用人が部屋を訪れたと思っていたのだろう。声を掛けられないことを怪訝に思ったらしいルーフェンは顔を上げると、彼女の姿を視界に収めて目を丸くした。
彼はすぐに立ちあがると、閉じた本を椅子の上に放り上げてエルザに駆け寄る。
「どうしたんだい? 体調は良くなった?」
久しぶりに真っ直ぐに向き合ったルーフェンは、やはり優しく笑いかけてくれた。彼の、繊細な容姿にしては武骨な手が、エルザの頬を撫でる。
ルーフェンはきっと気付いていただろう。彼女が避けていることなんて。それほどに、エルザの避け方は強引で分かりやすいものだった。
けれど、彼はそのことについて一つも問うことはなく、責めることもなく、エルザの身を案じる。優しい彼に申し訳なくて、同時に指先から震えてしまいそうなほど嬉しかった。
「はい、それは……大丈夫です。あの、ルーフェン様」
逸る気持ちでエルザは彼の名を呼ぶ。焦りと、期待と、不安で、舌がもつれそうになりながら言葉を紡ぐ。
「正直な気持ちを教えてください」
「どうしたんだい、一体」
不思議そうにルーフェンは首を傾げる。それでも、ゆっくりと話そうとするエルザのことを、根気よく待ってくれた。
「あの……ルーフェン様」
唇が震える。緊張しすぎて、心臓が割れそうに痛かった。全身をめぐる血の音が聞こえてきそう。
それでも、エルザは聞かなければならない。どうしても期待を捨てきれないから。自惚れに押しつぶされたとしても、はっきりとさせなければいられなかった。
「……私のことを、どう……思っているのでしょうか?」
顔から火が出るのではないか、というくらい恥ずかしかった。そんなことを自ら聞き出すような真似をして、ひどくはしたないと思う。
それなのにルーフェンは、不思議そうな顔のまま、あまりにもあっさりと口を開く。
「君は僕の妻になる人だよ。今更どうしたんだい?」
「いえ……そうでなく。どうして、私を将来の妻として認めてくださるのでしょうか?」
今もまだ、そう思ってくれていたことが、全身から力が抜けてしまいそうなほど嬉しい。けれど今は、その先の言葉を夢見ていた。はっきりとした言葉を聞きたい。そうでなければ、信じることは恐ろしい。
「それこそ今更だよ」
ルーフェンは彼らしい、軽やかな調子で口を開く。両手でエルザの頬を包み込んで、彼の菫色の瞳が、エルザの碧眼を覗き込んだ。
「僕が、エルザを愛しているからさ。それ以上の理由なんてあるかい?」
まるで、至極当然のことのように、ルーフェンは気安く口にする。当たり前のようなその言葉に、エルザは堪えられなくなって涙を溢れさせた。
思い返すのは、先程見つけた絵画の裏の文字。そこには、こう書かれていた。
『愛する妻、エルザと』
ルーフェンはいつもエルザを将来の妻として扱ってくれた。けれど、その口から愛を語ってくれたことは一度もなかった。おそらくそんな彼の指示で書かれたその文字に、エルザは期待をかけた。
ルーフェンはもしかして、もしかしたら、心から愛して、だからこそ『妻』と言ってくれているのではないか、と。
この絵が描かれてから、長い別離があった。その間に彼の気持ちが変わってしまった可能性もある。立場も変わり、考え方も変わるかもしれない。
けれど、旅から戻っても態度の変わらないルーフェンに、期待したのだ。
エルザが気付けなかっただけで、彼女はずっとずっと愛されていた。そのことを、エルザはようやく理解した。
「不安になってしまったのかな? でも、そういうことは僕の方が聞きたいな」
エルザの頬を流れる涙を親指で拭って、ルーフェンはそう口にする。すこしだけ眉間に皺を寄せた彼の顔は、拗ねているようだった。
「君が初めから僕に親切だったのは、物語の影響だと知っているよ。『ルーフ・ベルネット』への憧れがそうさせていたのだと。確かに僕は魔法は使えない。彼のようにはなれないだろう」
ルーフェンは拗ねた顔を押し込めると、今度は微笑んでエルザの頬を撫でた。その手の動きに一瞬目を向けると、また一滴、エルザの頬を涙が伝った。
「けれど僕は勇者になったよ。旅の一員ではなく、僕こそが勇者と言われている。剣の腕なら誰にも負けるつもりはないし、今後も誰よりも勇敢に世界を救う自信がある。そして何より、」
笑みを漏らす彼の唇が、エルザの額に触れた。ゆっくりと離れ、彼女の顔を覗き込む。菫色の瞳はわずかな迷いも躊躇いも見せることはなく、エルザを見つめていた。
「君のことを愛している。僕はいい男だろう? エルザ。どうか僕を愛して」
微笑みながら口にされた言葉。けれど見つめる視線は真剣そのもので、エルザはようやく理解した。
自分こそが、ずっと彼を不安にさせていたのだ。
ルーフェンから向けられる一途な愛に気付くことも信じることもできず、自ら彼に愛を告げることも、彼からの愛を乞うこともしなかった。その癖、彼に愛されていないと嘆いていたのだ。
愛を求めるために動けなかったのは、自分だったのに。
「ごめんなさい、ルーフェン様」
エルザは泣きじゃくって、彼に腕を伸ばし、その身体に抱きついた。
「私、あなたのことを愛しています」
ああでも、あまり危険なことは控えてほしいな、と思った。エルザは、彼が勇者でなくても、ルーフェンでさえあれば、それだけで愛しているのだから。
もっと早く伝えればよかった。もっと早く聞けばよかった。そんな後悔も、今ならば幸せだと思える。だって、こんなにも心が満たされているのだから。
彼はびっくりした、と妙に緊張した様子で息を吐き、彼女に応えるようにエルザの背に腕を回す。
「ようやく、君を手に入れた」
彼の言葉が嬉しくて、愛しくて、エルザは泣きながら笑って彼の名前を呼ぶ。
ルーフェンは、これまで見た中で一番嬉しそうに微笑んでいた。
+++
勇者と聖女の婚礼を望む声は、ルーフェンにとってもハイディにとっても不本意であったらしい。
エルザがそれを不安に思っていたことを知ったハイディは、次に顔を合わせたときに、豪快に笑ってこう言ったのだ。
「やめてくれよ、勘弁してほしい。旅の間あれだけエルザの話を聞かされて、それでも結婚したいと思う人がいるなら見てみたいくらいだよ」
聞けば、ルーフェンは何度もエルザに会いたいと呟いていたらしい。エルザは嬉しくて天にも昇る心地だったが、ルーフェンはひどくバツの悪そうな顔をしていた。
ハイディは格好つけだなあ、とまた笑う。
「それじゃあ、式には呼んでくれ。君たちの幸福を、心から願っているよ」
そんな言葉と共に祝福を口にし、ハイディは自分のことのように嬉しそうな顔で去って行った。
先日、エルザとルーフェンの挙式の日取りがようやく決まったのだ。彼がグラーフェ伯爵に会いに訪れたのは、婚礼の相談をするためだったらしい。
早とちりをして、勝手に傷ついて勝手に落ち込んでいたエルザは、無性に恥ずかしくなった。
「まあ、確かに僕も言葉が足りなかったね。妻と呼ぶことで、愛を告げたつもりになっていた」
「いえ、あの……何も言わなかった私が悪いのです」
「そんなことないよ」
肩を落として落ち込むエルザに、ルーフェンはくすくすと笑った。それからじゃあこうしよう、と緩やかに口を開く。
「これからはきちんと愛してると言うよ。だから君は、僕に愛してると言ってくれ」
約束しよう、と彼が笑う。
柔らかくて、優しくて、エルザの大好きな顔だった。
いつも彼女を思いやってくれる、エルザの出来過ぎた婚約者。
だからエルザは口を開く。
彼の想いに応えるために、彼のように、優しさを伝えるために。
エルザはゆっくりと言葉を紡ぎ、今日も彼との約束を果たした。
読んでいただき、ありがとうございました。




