表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

婚約者の彼



 その世界は一度滅びの道を歩みかけた。

 魔王と名乗る存在の企みによって。

 けれど、それはもう、百年は前の話。


 世界は一度滅びかけ、そして救われた。


『聖女』と呼ばれた王女と、共に歩んだ勇者、その仲間たちによって。

 今ではもう、物語として語り継がれる、確かにあった過去の話。



 +++



 かつて実際にあった救世の物語は、グラーフェ伯爵家の娘、エルザ・グラーフェの心を強く掴んだ。

 十二歳のエルザは同じ年頃の少女のように、華やかな恋物語に心をときめかせることはなく、英雄譚を好んだ。剣や魔法を駆使して世界を平和に導く物語にこそ、心を躍らせたのだ。


 そんなエルザにとって、紹介されたばかりの婚約者は『過ぎた』相手だった。


「ルーフェン・ベルネットだ。以後よろしく頼む」


 どこか、不機嫌そうな顔。一歳年上の少年は、菫色の瞳を伏せ、そう短く口にした。

 美しい少年だった。少し癖のある蜂蜜色の髪はふんわりとしている。伏せられた瞳は、どこか冷たそうに見えた。しかし、面立ち自体は、未だ少女めいた可愛らしさが残っている。

 頬の丸みも、目元の柔らかさも、健康的な色をした唇も、人目を惹く美しさだった。


「あ、あの……エルザ・グラーフェと申します……」


 彼に見惚れていたエルザは、消え入りそうな声で名乗ると、ぎこちなく頭を下げた。彼女の黒く真っ直ぐな髪が、その肩を流れる。

 顔を上げたエルザの碧眼に映るルーフェンは、彼女が名乗ったことに満足したのか、ふんと鼻を鳴らす。

 この婚約が彼にとって本意ではない、とエルザはその時点で悟った。


 ベルネット侯爵家と言えば、陛下の覚えもめでたく、優秀な魔術師を多く輩出した名家である。大して、グラーフェ伯爵家も、彼の家に比べれば領地は狭いが、古くから続く由緒ある家柄だった。

 家格で言えばグラーフェ伯爵家の方がやや劣るものの、婚姻を結ぶのに不自然ではない。むしろ、順当と言っても差し支えないだろう。

 それでもエルザは、この婚約を自分には『過ぎた』ものだと感じていた。


 ベルネット侯爵家は、かつて英雄の一人を輩出した家である。

 そう、彼はエルザが強く憧れる救世物語の登場人物、ルーフ・ベルネットの子孫にあたる人物だった。



 +++



 救世物語で、エルザが特に強く惹かれたのは、主人公として描かれる勇者でも、この世界に光を取り戻した聖女でもなく、ルーフ・ベルネットだった。


 今もその名を語り継がれる稀代の魔術師は、十三という若さで救世の旅に同行したらしい。物語の中で、今のエルザと変わらない年齢でありながら、有り余るほどの才と努力で世界を救うその姿に、強い憧れを抱いたのだ。


 だからこそ、そんな彼女にとって、ルーフ・ベルネットの生家である魔術師の名門、ベルネット侯爵家自体が、雲の上の存在と言えた。


「ご機嫌麗しゅうございます、ルーフェン様」

「……なんだ、来ていたのか」


 緊張気味に挨拶をするエルザに、ルーフェンは素っ気ない。一瞥と共にそれだけを告げると、彼は踵を返して立ち去ってしまった。

 その左手には彼の愛用する片手剣が握られていたので、これから剣の鍛錬にでも向かうのだろう。


 ルーフェンは魔術師の名門ベルネット家の人間だが、彼自身は魔法よりも剣に興味があるようだ。エルザがベルネット家を訪ねると、彼は剣の修練場にいることが多い。


「ルーフェン! いい加減になさい」


 その背中を叱りつけるのは、二人の様子を見守っていたリーゼロッテだ。彼女はルーフェンの三歳年上の姉である。

 彼とよく似た、ふわふわの蜜色の髪に、彼よりも少し明るい紫の色の瞳。

 すでに国一番の美姫と噂されるリーゼロッテは、輝かんばかりに美しく、エルザの憧れだった。


「ごめんなさいね、エルザ。あの子も悪い子ではないのよ。どうか嫌わないであげてちょうだい」


 仕様のない子、と彼女はエルザの代わりに腹を立てるように呟く。その後、ベルネット侯爵家に滞在している間は決まってリーゼロッテが相手をしてくれた。


「嫌うだなんてそんな……むしろ、ご不快な思いをさせているようで、申し訳なく思っております」


 エルザはルーフェンのことが好きだった。それは、救世物語への憧れが生んだ好意ではあったが、どうしても嫌う気持ちなど生まれそうにない。

 婚約者である、という事実に対し無条件の親しみも感じていた。将来良き夫婦となれるよう、良好な関係を築きたい。その努力をしたかった。


「エルザは何も悪くないわ。あの子が拗ねているだけなの」


 リーゼロッテはまた一つ、呆れるように溜息を吐いた。



 +++



 エルザは季節が一巡りするうち、六度ほどベルネット侯爵家を訪ねた。

 父とベルネット侯爵家の意向により、ルーフェンと交流を深めるためのことだったが、彼は相変わらずエルザを歓迎することはなかった。


 その度にエルザはリーゼロッテと過ごしている。弟しかいないエルザにとって、まるで姉のように接してくれる彼女との時間はとても楽しいものだった。

 少しでもエルザが過ごしやすいように、と配慮してくれることが有り難い。


 そんなリーゼロッテから助言を受けながら、何とかルーフェンと交流を図るべく、あの手この手で声を掛けていたのだが、それもすべて空振りに終わっている。


 そんなルーフェンが、あるとき初めて、何の先触れもなくエルザの家を訪れた。

 驚きつつも歓迎したエルザに応接室へ案内されたルーフェンは、どこか得意げな顔で彼女にある書状を突きつける。


「僕は騎士団に入団する」


 その書状には、ルーフェンの王国騎士団への入団を許可する旨が記載されていた。


「僕はルーフ・ベルネットのような魔術師にはならない。残念だったな」


 エルザは、何故残念だったな、と言われてしまったのかよく分からなかった。


「? ……それはおめでとうございます」


 だから、とりあえず祝辞を述べた。エルザの知る限り、ルーフェンはいつも剣の鍛錬に真面目に取り組んでいた。

 意気揚々とそれを報告してくれた様子からも、願いが叶ったのだろう、と思った。


「……それだけか?」

「それだけ、とは……?」


 ぎょっと驚いた様子のルーフェンの反応の意図がわからず、エルザは戸惑いながら問い返した。


「君は、僕との婚約に不満はないようだった」

「はい。私にはもったいないご縁だと思っております」

「それは僕が、ルーフ・ベルネットの血を引いているからだろう。だから、その……君は、魔術師であることを望んでいるものと」


 エルザが救世物語を好きなことは、彼女の父が婚約の挨拶の際、世間話の調子で口にしていた。

 だから、それをルーフェンに知られていることには特に驚きもないが、先程の発言に繋がった理由がよく分からない。


「けれど、ルーフェン様は、魔法よりも剣がお好きなのでしょう?」


 それならば魔術師になるよりも、剣を振るう方が彼にとって喜ばしいことだろう、とエルザは思った。

 もちろんベルネット侯爵が反対しているならば、そう簡単な話ではないだろう。しかし、こうして騎士団への入団が決まったということは、ベルネット侯爵も認めているはずだ。

 それならばエルザにできることは、彼の行く道を応援し、許されるならばそれを支えることだけである。


「ルーフェン様の願いが叶ったなら、とても嬉しく思います」


 素直にエルザがそう告げれば、彼は菫色の瞳をまん丸にして、彼女のことをまじまじと見つめた。

 いくら婚約者同士とはいえ、年頃の少女へ向けるにはあまりにも不躾に、それでもルーフェンはしばらくエルザのことを見つめ続けた。


「……エルザ、僕は誤解していたようだ」


 どこか呆然とした声で、ルーフェンは彼女の名を呼んだ。それは、初めて彼がまともにエルザの名前を呼んだ瞬間だった。


「僕はずっと、君に侮られているのだと思っていた。けれど、違ったんだ」


 彼の指が、ゆっくりとエルザの頬に触れた。まるで少女のように繊細で美しい容貌の彼の指は、意外なほどに無骨な感触だった。

 これが剣を握る人の手なのだ、とエルザは思う。


「僕が、ずっと君を侮っていたんだ」


 すまない、エルザ。

 そう謝罪を口にしたルーフェンは、目を細めた。口角を上げ、まるで幼い子どもがはしゃぐように、頬の血色がよくなる。


 その日、ルーフェンは初めてエルザの名前を呼び、頬に触れ、そして。

 初めて、エルザに笑顔を向けたのだった。



 +++



 それ以来、ルーフェンの態度は明らかに変わった。

 騎士団に入団したことで、以前よりずっと忙しそうにしているが、小まめにエルザと会う時間を作り、 会えないときは手紙を交わしてくれるようになった。


 手紙の内容は些細なことで、剣の鍛錬は大変だが毎日充実しているとか、邪魔になるからと短く切った髪がすぐに伸びて鬱陶しいとか、騎士団用の宿舎の寝台は硬いが食事は美味い、などなど。そんなことばかりだった。


「エルザ! 久しぶりだね。元気そうで安心したよ」

「お久しぶりです。ルーフェン様も、お元気そうですね」


 エルザが王都に行くときには、必ずと言っていいほど会う機会を作ってくれた。

 忙しいだろうに、ルーフェンは貴重な休みをエルザの滞在日に合わせてくれているらしい。


「大きくなられましたね」


 エルザは太陽の眩しさに目を細めるようにして、ルーフェンを見上げた。

 同じくらいだった身長には、今では頭一つ分の差が出ている。少女のような愛らしさは、いつしか精悍さへと変わっていた。

 まだその頬に残る少年らしい丸みも、すぐになくなって立派な美丈夫になるだろう、と容易に想像ついた。


「僕ももう、十六だ。いつまでも子どものままではいられないさ」


 けれど、そう誇らしげに口にすることこそが子どものように素直で、エルザは彼のそういう『可愛げ』と言える部分がとても好きだった。


「僕は君を守る、夫となるんだから」


 そう、おどけた調子で言う。

 ルーフェンはすっかりエルザのことを受け入れてくれていた。それは、彼女にとってとても嬉しいことだ。

 彼の人となりを知っている。勤勉で、努力家で、ちょっとした冗談が好きな甘え上手の人。

 初めは物語への憧れから勝手に好感を抱き、家に決められた婚約者とはいえ、親しくしたいと思っていた。

 けれど今は、彼がどういう人かを知っている。だからこそ、彼の婚約者であり、いずれ結婚する自分はなんて幸せ者なのだろう、と感じていた。

 彼はエルザにとって、過ぎた婚約者だった。



 +++



 引っ込み思案で口下手なエルザに対し、ルーフェンは少々おしゃべりな性質だった。

 騎士団であったこと、非番の日に王都を出歩いた日の話。ベルネット侯爵家で過ごした日々や、家族について。ルーフェンは色んなことをエルザに語り聞かせた。

 彼女はその話に、うん、うん、と相槌を打ちながら耳を傾けるのが好きだった。


 また、ルーフェンもエルザの話をよく聞いてくれた。お世辞にも話し上手とは言えない彼女の話に、急かすでもなく聞き入る。

 エルザの調子に合わせてくれる彼の気遣いが、彼女は嬉しかった。


 あるときルーフェンは、自身の胸の内の思いを語った。


「僕はベルネット家の人間だ。けれど、魔法はほとんど使えない」


 そのことについては、リーゼロッテから聞いたことがあった。けれど、こうして彼本人の口から聞くのは初めてだった。


「当たり前のように魔法の才を求められることが腹立たしくて、情けなくて。悔し紛れに剣を取った。それが存外向いていたようで、嬉しくて必死で鍛錬したよ」


 ルーフェンは苦笑してそう口にした。

 彼は騎士団でも頭角を現し、よく活躍していると話に聞いている。王都の街を歩けば、優美に剣を振るう、若く美しいルーフェンについて噂する少女があとを絶たない。


「僕はこれからも国を守る騎士であろう。この仕事に誇りを持っている。きっと君の憧れたような『ベルネット家の人間』にはなれない」


 困ったような顔だった。その顔でルーフェンはエルザを見下ろして、菫色の瞳を揺らす。いつも幼い少年のように輝く瞳が、そんなにも不安定に揺れるのを初めて見た。


「それでも、エルザ。君は僕を夫として認めてくれるだろうか」


 エルザには正直、彼が何をそんなに不安そうにするのかが分からなかった。

 エルザの婚約者は『魔術師』でも、『ベルネット家』という看板でもない。当然、物語の中の憧れの英雄でもない。

 ルーフェン・ベルネットなのだ。


「ルーフェン様、私が、あなたの妻になりたいのです」


 エルザにとって、ルーフェンは憧れの塊のような人だった。社交的で、明るく、人を楽しくさせる会話をできる人だ。自身で進むべき道を選択し、そのために努力して邁進することができる。

 いつだって迷わず前を進むルーフェンのことが、彼女にはいつも輝いて見えた。


 そんな彼が、エルザのそばに跪く。彼女の手を取って、その手の甲に口付けた。


「ありがとう、エルザ。嬉しいよ」


 そしてエルザを見上げたルーフェンは、その言葉通り嬉しそうに破顔した。零れ落ちるような、溢れかえるような、そういう光に満ちた顔だった。

 何の曇りもないその笑顔が、あんまり無防備で、素直で。

 エルザの心臓が大きく跳ねた。


 エルザはずっと、ルーフェンのことを素敵な人だと思っていた。だからこそ、この人の妻になれたらどんなに素敵だろう、と思っていた。彼にとって申し分ない、立派な妻にならなければ、と。

 それは恋心ではなく、婚約者としてのある意味では覚悟とも言えた。


 けれどその胸の高鳴り、向けられた笑顔への歓びに、エルザは初めて覚悟だけではない、ただの感情を自覚した。


 エルザは将来自分の夫となるその人へ、憧れと、尊敬と――――恋を、抱いてしまったのだ。

 それが、エルザが十六、ルーフェンが十七のときのことだ。





読んでいただき、ありがとうございます!

期間内にゴールできるかいまいち自信はありませんが、企画に参加させていただきます。


過去に投稿したお話と同一世界観ですので、もし気付いてくださる方がいらっしゃったら嬉しいです。

ただ、過去作を読まずとも、このお話を読むのにまったく問題はありません。


それでは、最後までお付き合いいただけるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ