第87話~秘奥義の存在~
雨は上がっていた。
昨日の雨が嘘のようにからっとした秋晴れである。
カンナはいつもより早起きをした。
昨日の厩舎の糞尿の始末の罰を終えてへとへとになっていた光希は、泥のように眠っていたが、遅刻しないように軽く声を掛けてきた。返事はしていたがちゃんと起きるか心配である。
カンナはシャワーと着替えを済ませると部屋を後にし、御影の部屋に向かった。
御影の部屋には朝食を作っている御影とそれを手伝っている獅攸がいた。結局獅攸は御影の部屋に泊まったようだが、特に何事もなかったように昨日と同じ飄々とした様子でカンナに挨拶をした。
「おはよう! カンナ! 昨日は良く眠れたか?」
「おはようございます。って、すっかり馴染んでますね」
カンナは獅攸の社交性と図々しいくらいの適応力に呆れて苦笑した。
「カンナちゃんおはよう。獅攸さん凄くいい人ね。寝てていいって言ってるのに朝食の支度手伝ってくれるのよ?あ、良かったらカンナちゃんも食べていく?まだ授業には少し時間があるでしょ?もう出来るから」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて」
御影の心遣いにカンナは甘える事にして椅子に座った。こんな家庭が、小さい頃は普通にあった。父がいて母がいて、自分がいて。温かい料理があって、他愛のない話をして、褒められたり、叱られたり……そんな家庭が普通だと思っていた。
しかし、それももう二度と手に入らない過去の思い出。
目の前に御影と獅攸が作った料理が出された。何の変哲もない、食パンとスクランブルエッグ、そしてサラダ。
「簡単だけど、さ、召し上がれ」
「御影先生と俺の愛情を込めた朝食だぞ! 俺はレタスをちぎっただけだけどな。残さず食べろよ!」
その2人の言葉を聞いた瞬間、カンナの中の何かが溢れた。止めることの出来ない大粒の涙がボロボロと食卓に零れる。声にならない声。カンナは涙を手で拭った。しかし涙は止まらない。
「カンナちゃん……」
御影も獅攸もカンナの涙の理由が分かったようだった。
御影はカンナの頭を優しく撫でてやった。
「カンナ、篝気功掌の力を使う為には感情のコントロールが必要だ。それをお前は何年もやって来たんだよな。例え両親が殺されたとしても兄貴の言葉を忘れず憎しみを抑えた。お前の氣は苦悩を乗り越えてかなり精錬されたものになっている。だけどな、泣きたい時は泣いていい。良く頑張った」
獅攸はカンナの肩に手を置いた。
カンナは2人の優しさにさらに涙が溢れてしまった。
「御影先生……獅攸さん……私、とても辛かった……ずっと我慢してきた……お父さんの事もお母さんの事も、なるべく……思い出さないようにしてたんだけど…2人を見ていたら……またあの時の幸せだった頃を思い出してしまって……」
カンナの声は震えていた。
御影も獅攸もただ頷いている。
しばらくカンナは啜り泣いていた。
「ごめんなさい、取り乱してしまって」
カンナはようやく落ち着きを取り戻して深呼吸した。
獅攸はカンナの顔を見ていたが何かを思い付いたように口を開いた。
「よし、カンナ。お前に篝気功掌の”秘奥義”を教える。授業が終わったらまたここに来い。御影先生、それが終わったら俺はここを去ります」
突然の話にカンナも御影もぽかんとしていた。
その表情を見て獅攸は笑い、御影と獅攸が作った朝食を食べ始めた。
授業を終え、放課後。光希は無事に授業に現れたので安心した。そして今日も厩舎に向かったのですぐに別れた。
カンナは光希と別れると御影の部屋を訪れた。
するとすぐに獅攸が出て来た。
どうやら御影は医務室に仕事に出ているようで部屋にはいないようだった。
「来たな。カンナ。お疲れ!それじゃあ早速、篝気功掌の秘奥義・無常掌を伝授しよう」
獅攸は無表情だった。
カンナは篝気功掌の奥義のほかに秘奥義というものがある事自体知らなかった。父もその存在を口にした事はなかった。
「それは、どういう技なんですか?」
「そうだな。簡単に言うと、相手の氣を操る技だ」
「え!? 相手の氣を!? 相手の氣ですよね!? そんな事出来るんですか?」
カンナは篝気功掌で学んだ事の大前提に『相手の支配する氣は操れない』というものがある事を知っている。故にその常識を覆す技があるという事を上手く飲み込めなかった。
「まあ、篝気功掌をしっかりと学んできた人間ならこの矛盾に気付くよな。でも、出来るんだ。それが秘奥義。ところで、カンナ。お前、反芻涅槃掌は使えるのか?」
「あ…その、まだ氣が足りなくて……でもこの前の解寧との闘いでは使えました」
「あぁ、それは確か青龍山脈で闘ったからだろ?あそこでは二度と戦闘はするなよ。死ぬぞ」
カンナは真剣に篝気功掌の話をしてくれる獅攸を見てニコリと微笑んだ。
「な、なんで笑うんだよ!?」
カンナの微笑みに獅攸は顔をしかめた。
「篝気功掌の話が出来る人なんて、この学園にはいないから……ちょっと嬉しくなっちゃって」
「ふっ、そうかよ。それは良かったな」
獅攸もカンナの微笑みを見て顔が緩んだ。
そしてまた獅攸は秘奥義の説明を続けた。
「原理は単純だ。反芻涅槃掌が出来ればこの技もコツを掴めば体得出来る。ま、反芻涅槃掌を体得するのに、通常30年の修行が必要なんだがな」
カンナは溜息を付いた。事実カンナは奥義である反芻涅槃掌を青龍山脈以外の場所で使う事が出来ない。30年の修行が必要というのは父から聞いていた事なので驚きはしないが、要約すると、秘奥義である無常掌の体得には奥義・反芻涅槃掌の体得が先という事だ。
「どうした? 何故溜息を付く?」
「だって、無常掌の体得には反芻涅槃掌の体得が不可欠という事ですよね? つまり、まずは反芻涅槃掌を」
「いや、そうは言ってないだろ?」
カンナは獅攸の言葉に耳を疑った。
「俺は反芻涅槃掌が使えれば無常掌もすぐに出来ると言ったんだ。反芻涅槃掌の体得が必須な訳じゃない」
「そうなんですか?」
「ああ。ただ、無常掌体得には相当な精神力のコントロールが必要だ。カンナ、お前はそれがある程度出来ている」
カンナは目を丸くした。
「皮肉にも両親の死がそうさせたようだがな。そしてこの学園での生活もいつの間にか無常掌体得の為の力を磨いてくれていたんだろう」
本当に皮肉である。だがそれらの経験がいつの間にか自分を成長させてくれていたという事は、天が自分にもっと強くなれる可能性をくれたという事なのだろうか。
「獅攸さん、それでその無常掌の修行はどうすればいいんですか?」
「まずはさらに精神力を鍛えろ。お前、まりかちゃんとかいう女の子と仲悪いだろ?あの子には怒りが爆発して殴り掛かろうとしたな?それじゃあ駄目だ。憎しみに支配されかけている」
カンナは俯いた。
「次に”氣門”を正確に付き、そして一気に自分の氣を流す。その時流す氣は相手の氣よりも多くなくてはならない。氣門は分かるよな?」
カンナは頷いた。
話を聞く限り、自分が相手の氣門に送る氣の量に関しては膨大な量が必要という訳ではなさそうだ。相手よりも多ければいいらしい。
「俺が、やって見せようか?」
獅攸が静かに言った。
カンナには氣を相手に支配される感覚というのが分からない。しかし、大体予想は出来た。物凄い苦痛。それだけは覚悟しなければならない。
「お願いします」
獅攸はカンナの覚悟を決めた目を見てゆっくりと息を吐き、そしてカンナに近寄った。
掌を鼓動穴のある心臓、つまり左の胸の辺りに翳された。
「さ、触らなくても大丈夫ですか?」
「は? 変な事言うなよ!? 俺は達人だぞ! 直接触れなくても氣を相手の氣門に放つ事は出来る! それに、姪のおっぱいなんか興味ないね!」
カンナは少しほっとしていた。
「心の準備はいいか?やるぞ?吐きたくなったら吐いちまえ」
カンナはまた頷いた。
────篝気功掌・秘奥義・無常掌────
すっと、胸に何かが入ってくる感覚。その感覚は一瞬で中に入ったら消えてしまった。
特に何かが変わったわけではない。ただ、何かが入った感覚があっただけだった。
「どうだ?」
獅攸が聞いた。
「いえ、特に何とも」
失敗したのか?と思ったが、この男が失敗するとも思えない。相当な熟練者だ。
「それじゃあ、最初は優しくやるぞ」
「え?」
カンナは獅攸の言葉に首をかしげた。
その時、とても心地よい気分に襲われた。というより、くすぐったいような感覚だ。
獅攸はカンナの胸に翳していた手をいつの間にか引いており腕を組んでいた。
「これは……」
「今お前の氣を操作している。くすぐったいだろ?よし、カンナ。”地龍泉”をやってみろ」
地龍泉という技は篝二式の氣のみを純粋に使う技だ。
獅攸の言葉にカンナは両手を地面に付いた。氣を流し込む。。。
カンナはすぐに異変に気付いた。氣が体内で意図的に止められている。出したくても出せない。とても不快な感覚。
「うぅ……うぇ……」
カンナはあまりの不快感に呻き声を上げ座り込んだ。
獅攸がカンナと同じ目線に屈んだ。
「どうだ?」
「なんか……気持ち悪いです。自分の氣が身体の中にあるのに、それを自分の意思とは別のものに支配されている……とても立ち上がる事も出来ない……そんな感じです」
「そうだろうな。ちなみに、今お前の中の氣は俺の氣に支配され俺の思うままに出来るわけだが、さあ、これでお前の中にさらに俺の氣を流し込み続けるとどうなる?」
カンナはぎょっとして獅攸の顔を見た。
「死んじゃう……そんな事したら身体が耐え切れなくて絶対死んじゃう!」
「そうだ。つまり、この無常掌という技は相手を完全に支配する事が出来、そして体内から簡単に殺す事の出来る恐ろしい技だ。だから秘奥義であり、通常身内以外には教えない」
獅攸は言いながらカンナの左胸にまた手を翳した。
カンナは一気に不快感が取り除かれるのを感じた。そしてカンナはすぐに立ち上がる事が出来た。
獅攸はにこりと微笑んだ。
「俺はもう、お前にしかこの技を教えない。お前の成長次第ではこの技は教えないつもりだった。だがお前の心は俺の予想よりしっかりしていた。だから、俺はお前にこの技を教えた」
「はい」
カンナは頷いた。
「技の原理は分かりました。でもせっかくですが私はこの技を使いたくありません」
カンナの言葉に獅攸は驚かなかった。ただニヤリと笑った。
カンナは何故獅攸がそのような反応をしたのか理解出来なかった。
「そう言うと思ったよ。実は兄貴も俺もこの技を実際に使った事はない。この技を体得した段階でこの技を使う事はなくなるんだからな」
獅攸はカンナの目を見続けている。
どういう意味なのだろう。解りそうで解らない。
獅攸はそれ以上無常掌の話をしなかった。あとは自分で考えろという事なのだろう。
「篝気功掌をこの世界で使えるのは俺とお前のただ2人。兄貴の願いは篝気功掌を広める事。じゃあな、カンナ。俺はまた我羅道邪の事を調べる。学園の陰謀なんかに負けるな!元気でな!会えて良かったよ」
「え!? ちょっと!? 行っちゃうんですか!?」
獅攸は背を向けたままひらひらと手を振りながら歩いて行ってしまった。
「獅攸さん! ありがとうございます! 私、あなたに会えて本当に嬉しかったです! また会えますよね!?」
カンナの声に獅攸は親指を立てて応えた。そしてそのまま木々に隠れて見えなくなってしまった。
カンナは左胸に手を当てた。
不思議と気持ちが穏やかだった。
また会いたい。一緒に暮らす?それもありだったのかもしれない。そんな事を少しだけ考えていた。
「解らないわね。あの男の言っている事。あーあ、退屈だ」
カンナの後ろの林の中の木の太い枝の上で銀髪の女は欠伸をしながらカンナと獅攸の様子を見ていた。これ程までに接近してもカンナ達に氣を感知されなかった理由。それは1本の注射器にあった。
伽灼は割天風からの命令をまりかに言い渡された後、序列19位の四百苅奈南の部屋に行っていた。そこでかつて多綺響音がカンナとの仕合で使った”氣を消す薬”を貰っていたのだ。奈南は何故自分がこの薬を持っているのが分かったのか不思議そうだったが特に拒む事もなくすんなりと分けてくれた。伽灼はその薬のお陰でカンナ達の監視もばれずに済んでいるというわけだ。
「カンナの奴、嬉しそうだな……」
伽灼はカンナの嬉しそうな表情を見て呟いた。もちろん、秘奥義の事、獅攸が学園から出て行った事も全て見ていた。
しかし伽灼はそのまま腕を組み目を閉じると寝息を立てて眠ってしまった。




