彼女が漫画を嫌いなわけ
じょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょき……。
「――おい! いきなり何するんだ陽子!」
「何って、切り紙よ賢一君……しらないの?」
宮沢賢一が読んでいた漫画雑誌『週刊少年サンダー』は水谷陽子によって奪われ、全てのページが一瞬で美しい幾何学模様に切り刻まれた。
「切り紙くらい知ってるよ! お前、子供のころから折り紙使ってこれ見よがしに俺にやって見せてたからな! 俺が訊きたいのはなぜ人が楽しく読んでる漫画雑誌を、その左手に持ったハサミでこんな無惨に切り刻んでくれたかってことだ!」
陽子に投げ渡された雑誌を彼女にぱらぱらと捲り見せ、怒りをあらわにする賢一。こめかみから汗が流れる。まだ五月だというのに太陽は真夏の日差しのように強く、その高さは空の頂点を極め、そして過ぎ去っていた。そう、ここは昼時の高校。お昼ともなれば昼食の後、本日発売された週刊誌を読むくらい許されてもいいはずだ。ところが――。
「おい、また宮沢のヤツ、コミック・シザーズ――水谷陽子に目をつけられてるぜ」
「馬鹿ねー、毎度毎度。何回切り刻まれたら懲りるのかしら?」
「超進学校である青藍高等学校の生徒であるボクらに、漫画なんて読んでる暇なんかないのにな。おっと時間が勿体ない、東大が遠のいてしまう」
そんな青藍一色の制服に身を包む彼ら彼女らの中、水谷陽子は左手に持っていたハサミをセーラー服のプリーツスカートを止めているベルトの右腰に差してある鞘に納めて、首を横に振った。黄色いリボンで纏められた長いポニーテールが宙を舞う。
その後自分より少しばかり背の高い男子生徒、宮沢賢一をねめつけて、
「私はね、この世の漫画という漫画が大っ嫌いなの。この世に存在する漫画は全て無に帰すればいいと思ってるわ」
「だから手始めに俺の漫画を無に帰させようってか? お生憎様、全てのページに綺麗に幾何学模様が刻まれてますなー、これで天使か悪魔でも呼び出せたら魔法陣として実用的この上ないぜ!」
「あら、さっきは無惨にきりきざまれた、って言ってたのに、今度は褒めてくれるの? ありがとう」
「別に褒めてねぇよ! 皮肉って言葉しらねぇのかこのデカ女!」
「――デカ女ですって! 私は身長169cmよ! 全然デカ女じゃないわよ!」
「十分デカ女じゃねぇかよ! それに169cmだって!? 馬鹿言うなよ、それって中学までの身長だろ!? 俺の見たところ高校に入学してから更に2cmは伸びてるね、だから今のお前の身長は171cmはかたいってわけ――」
バチンッ!! という音が1-Aの教室に響いた。無論、水谷陽子が宮沢賢一の右頬を平手打ちした音だ。
クラス一同が勉強の手を止め、教室中央の二人に注目する。
「なっ、殴りやがったなお前!」
「殴って悪い!? 当然でしょ! 人が気にしてることクラスの皆の前で言うからよ!」
「八ッ、そんなこと気にしてたのかよ! お顔が整ってて、胸も慎ましくて、スラッとして背が高くてらっしゃるから、てっきりモデルでも目指しているのかと思ったよ、俺は!」
シャキーンッ! と左手でハサミが抜刀され、開かれた刃先が賢一のリーゼントをとらえる。
「それ以上の戯言は許さないわよ。あなた自慢の赤髪は丸坊主をお望みかしら?」
シン……、っと静まり返った教室でその台詞は冴えて響いた。陽子が声を張り上げたわけでもないのに……。賢一は頭髪に対する明確な殺意が込められているのを感じて、両手を挙げて降参の意思を示した。
「アッハッハッハッハッハ! それでまた姉貴とやりあったのかよ賢一、相変わらず懲りねーな」
放課後、宮沢賢一は学校の近くのコンビニの前で水谷陽子のひとつ下の妹、紫苑と出会った。二人並んでパークベンチに腰を下ろしている。
「笑いごとじゃないぜ紫苑、危うく自慢の髪型ハサミでばっさり刈られるところだったんだぜ。ビンタも鋭いの一発もらったしよ……」
「そりゃー姉貴が気にしてる身長ネタを話題にしちゃ、平手打ちのひとつもとんでくるわな。それよりもその赤毛のリーゼントよく無事だったなぁ」
Tシャツに紫色の革ジャンを着込み、ジーパンにスニーカー姿の少女。そんなウルフカットの彼女の右手にはブラックコーヒーがよく似合っていた。
「まったくだ。あそこで降参しなかったら赤ボウズ確定だったな。それを考えるとゾッとしないね」
棒アイスのゴリゴリ君をかじりながら賢一が遠い目をする。
「アッハッハッハッハッハ! そうなったらついでに出家しちまえ。多分世界でひとりだけだろうぜ、赤毛の坊さんてのも」
「あー、この髪型は俺の命だからなー。もしそーなったらこの先もう生きていけねー」
そう言いながら残りのゴリゴリ君に食らいつく賢一。あまりにも多く頬張りすぎたのか、こめかみがキーンとして思わずこめかみを抑える。そこへ、コンビニで雑誌を読んでいた三人の若い男たちが紫苑の元にやってきて、
「姉御、話まだ終わらないんスか? オレら早く次の狩り場に行きたいんスけど」
賢一にウスッ、と軽く挨拶をした後、三人組のリーダーらしき男が紫苑に尋ねた。
「あと少しで終わるからシンヤたちはそこらへんで待ってな! それとシロウトには決して手を出すんじゃないよ! コウジもカズヤもわかってるね!」
「はいはい、わかってるっスよシオンの姉御」
「俺ら義賊だモンなー」
「シロウトから銭せしめるのは姉御とタイマンで負けていらい卒業しましたぁ。ごほごほ」
最初に答えたのは金髪にグラサン姿のシンヤと呼ばれた男。そして次に坊主頭にやたら大柄で太っちょのコウジ。左手で後ろ頭をかいているのは七三分けの髪型で体格も普通の人、カズヤだ。彼らは一様に紫色の革ジャンやスタジャン、パーカーを着てボトムスはジーパン、履いている靴はスニーカーという出で立ちだった。
「ウッシ、テメーら姉御と賢一サンが話し終わるまでコンビニの駐車場でスクワットすっぞ!」
「えーっ、スクワットはすぐ足腰が疲れるから苦手ナンだなー、他の運動やろうよシンちゃん!」
「わたしは意外と得意ですよスクワット。これのお陰で喘息も治りました。い~ちぃぃぃ、に~ぃぃぃ、さぁ~んんん、――ごほっ、ごほごほごほ! ごほごほ!」
「「治ってねーじゃねーかっっ!!」」
スクワットを始めて咳き込みだしたカズヤにツッコミを入れるシンヤとコウジ、その表情はとても楽しげだ、これで紫苑も含めて四人中学にまともに通ってくれたら万々歳なのだが――、
「おいテメェら、駐車場の真ん中でやったら他の客のメーワクになるだろうが! 端っこでやれ、端っこで!」
「ウッス、わかったぜ姉御」
「了解ナンだなー」
「そうですね、ここだと邪魔になりますもんね。ごほ、ごほごほ」
元気いっぱいに、またはよろよろと彼らは駐車場の隅へ駆け出し、各々スクワットを始めだした。
「なんか罰ゲームみたいだな……」
それを見ていた賢一が鼻でため息をつき、呟く。
「まぁ、何事も足腰が基本だからな。腕っぷしが強いだけじゃあ喧嘩は勝てねぇ。でもよオレなんかスクワットの他に近くの公園で懸垂とかもしてるんだぜ。見るかオレの筋肉」
紫色の革ジャンを脱いで右腕の力こぶを見せつける紫苑。女の子らしくも引き締まった上腕二頭筋がモコッと盛り上がる。日がな一日舎弟たちと外を出歩いているせいか、それとも公園で筋トレをしているせいか、少々日焼けをして小麦色の肌をしている。ミルク色の肌を保持している姉の陽子とは正反対だった。
そんな自慢げに上腕二頭筋を見せる紫苑に賢一は口を開く。
「なぁ紫苑。お前こんな事いつまで続ける気よ」
「あ、こんな事って何よ?」
「DQN相手に喧嘩ふっかけて金品巻き上げてるだろ。これ以上続けるとお前の身が危ねーんじゃねえの? 連中に恨み買うとおっかねーしよ」
「へっ、あんなヘナチン野郎どもに負けるほどヤワな鍛え方はしちゃいないさ。それに頼りになる舎弟もいるし、いざとなったらコレもあるしな」
紫苑は革ジャンを着込んだ後、革ベルトの右側につけられた革ケースから玉の部分が紫色のけん玉を取り出した。
「けん玉のシオンか……。そういえば、そーゆー渾名だったな、お前。昔は純粋にスポーツとして楽しんでたっけ……」
「小学校の頃の話さ。それが今じゃ格闘の武器に成り下がっちまった」
不意に紫苑はコンビニの前のベンチから立ち上がると、けん玉を始めた。その技は鮮やかなもので、紫玉が大皿、中皿、小皿と瞬く間に納まり、最後にけん先へと見事に突き刺さった。
「腕、落ちてねーんじゃねぇか?どーよ、もういっぺん世界選手権目指してみちゃあ?」
「どこ見てやがる、オレの腕はとっくに錆びついちまってるよ、世界に通用するわけがねぇ」
紫苑は玉をけん先に納めたまま、それを顔前まで持ってきて両手でけん(中皿のある長い部分)を握った。
一息吐いて目を瞑る。
「……終わっちまったんだよ、あの時に何もかもな」
そう呟いて見開いた紫苑の瞳には橙色の夕映えが哀しく染み渡っていた。
「……終わっちまった、か……」
学校から家に帰った賢一は、青藍色の制服から自宅着に着替えると、そのまま自室のベッドに仰向けに寝転んだ。
「――あの時に何もかも――」
夕映えに照らされながら、か細い喉から絞り出したあの紫苑の台詞。
「あの時に何もかも終わっちまったっつったら、あいつらの親父さんが死んだ日のことだよなぁ……」
陽子と紫苑の父親、水谷直雪は少年誌に連載を持つ漫画家だった。PNは『みず谷なおゆき』といい、得意分野はラブコメで、その気恥ずかしい内容の展開に賢一は小学生の頃ドキドキしながらページを捲ったものだった。
自宅の仕事場にも何度か訪ねていったこともあり、初めて本人に出会った感想としては、とても背が高くて(多分180cmを超えていた)白い雪の結晶が描かれた鈍色のバンダナを頭に巻いていて、白いワイシャツの胸元には銀細工の勾玉の首飾りがあり、ボトムスは黒いチノパンという、髭面のオジサンだった。
なんか実物を見てしまうと……、
「この人が本当にあのちょっとエッチでむねキュンなラブコメまんがを描いている人なのか?」
と、子供心に理想と現実のギャップに驚いたものだ。
「どう、すごいでしょ? この人が私のお父さんよ、けん君」
「今度、父さんが以前に連さいしていた『人類ヌコ科』っていうまんががアニメ化するんだぞ、すごいだろ、けんいち!」
「あー、ずるい、しおん。それ私がけん君に教えようと思ったのにー!」
「姉ちゃんは何でもよくばりすぎなんだよ! いいだろオレが言ったって!」
「こらこら紫苑、お前は女の子なんだから自分のことをオレだなんて言っちゃいけないよ。陽子もお姉ちゃんなんだから、我慢するとこは我慢して紫苑に譲ってあげなさい。見なさい二人とも賢一君がびっくりしてるじゃないか……悪かったね賢一君驚かせてしまって、僕は仕事があってあまり相手できないけど陽子や紫苑と遊んでもらえると嬉しい。何なら少し仕事場を覗いていくかい? 締め切りが近いけどほんのちょっとだけなら大丈夫だよ」
そう微笑んで直雪は賢一少年を仕事部屋に招き入れたのだった。
「……優しかったよなぁ、陽子と紫苑の親父さん……」
ポロシャツの下の腹をかきながら賢一はひとり呟く。
当時自宅の近所に有名漫画家が引越してきた、と聞いたときは驚いた。その漫画家には自分と同級生の娘ともうひとり、ひとつ年下の娘がいると聞いて二度驚いた。そしてその娘のひとりに初めて出会ったときは体の芯を雷で打たれた。その娘との間に共通の話題を作ろうと、その頃読んでいた漫画雑誌『ゴロゴロコミック』をやめて、件の漫画家が連載しているという漫画雑誌『週刊少年サンダー増刊号』に乗り換えた。
「今思い返してみると、あの時は陽子との間に話題を作るために無理してサンダー全部読んでたっけ。まぁ、親父さんの漫画以外ほとんどつまんなかったけどな、子供の頃の俺としては」
振り返ってみると現在の賢一なら、当時の漫画の内容を理解できるし、面白かったと思える作品もいくつかある。でも――。
「あの時の俺は陽子との間に絆を作りたくて必死だったからなぁ」
くっくっくっと思わず笑いがこみ上げ、手の甲を自分の額に持ってくる。
「そう、あの頃の俺はあいつの気を引きたくて一生懸命だった。黄色いリボンをつけたポニーテールのひまわりみたいな元気な笑顔が好きだった――なのに……」
人生とは儚いものだ、ひとり……たったひとりいなくなってしまっただけで全ての努力は水泡に帰し、各自の歯車はあっという間に狂い出してしまう。
「――ったく、何で死んじまったんだよ……オジサン」
額に当てた手の甲を、そのまま閉じた両瞼に押し付ける。
数年ぶりに目頭が熱くなるのを賢一は感じた。




