第二話:ログネーム「アルス」
【ログネームアルス。感度報告せよ】
密売組織に感知されないよう、他のユーザーが使用するチャット回線を「乗っ取って」送られてくる音声メッセージは、多少ノイズが混じっている。俺を転送したコンピューターは十年も稼働していなかった上にハードの一部が破壊されているのだから、このぐらいの障害はあって当然だった。
「こちらアルス。通信感度良好」
必要最低限の答えを返して、視界の端に展開されたメニュー画面を最小化した。現実世界との接続は基本的に切らない。いちいちログインして回線を開く方が発見されるリスクは上がる。
【転送体、身体各所の動作確認。超加速プログラムのアップロードをスタートします】
軽いめまいを感じた直後、視界の右下にステータスバーが出現する。さらにその下に、ダウンロードの進行状況を伝える数値が表示され、じりじりと上昇していく。「100%」に達した時点で、それを口に出して報告する。
「OK。正常にダウンロードした」
【了解。続いて転送体を戦闘モードへ換装――】
「なあ、ツァン」
すぐさま追加プログラムのアップロードが始まるのだが、これはもう何度もシミュレーションし、問題なく作動することが確認されているのだ。いちいち潜入バトルアクションゲームの冒頭シーンのような芝居をする必要はない。
【ログネームアルス。不必要な通信は慎むように】
「はあ」
どっちがだよ。
俺が内心で何を考えているか、それすら筒抜けだろうに。
あくまで「スパイごっこ」を続けようとする女にもわかるように肩を竦めてやった。
【なによもぅ……雰囲気が出ないじゃない?】
「あのなあ。回線の使用が増えれば増えるほどバレる危険が増すんだ。1ビットでも減らそうと思うなら、意味のない音声のやり取りは――おっと」
電脳世界の安全領域を越えて何者かが侵入してきたことを示すアラートが響く。
【連中がログインしたわ。それと“招待コード”を入力してローグタウンを彷徨っている新人が二人いる――どちらも二十代と思しき男女。アバターが初期のままだし、職業も何も選択していない――“お客”かしら】
警報を受けたツァンの声にも緊張が混じる。
「詳しいプロフィールはわからないのか。言語が通じないと、暴れられて邪魔になるかもしれないぜ」
【招待コードを入力した時点で個人情報はマスクされる仕様に改造されているの】
まあ、間違って攻撃しなければ大丈夫よ。
などと無責任な言葉を残して、ツァンは沈黙した。
目標は三軒先の倒壊しかかった廃ビル――存在しないはずの無法者の町の一角に現れた。
視界の左上に半透明に表示されたマップに赤い点が三つと青い点が二つ瞬くのを確認した。
俺の目的は、彼らの電脳世界における無力化と捕縛。そして「電脳麻薬」の回収だ。
電脳麻薬とは、統一電脳世界に現れた新たな麻薬の総称だ。最初の中毒患者が発見された一年前から現在までで、三十三種類も発見されている。その全てがストロベリージャム、メロンクリームソーダ、ハニーマスタード、チョコレートキッスだのという甘ったるい名前で取引されていた。
サブリミナル効果が科学的に否定されて久しいが、仮想現実中毒症――VRTが問題になっていた時代から密かに開発されていたらしい電脳麻薬の効果は絶大だ。
電脳世界にログインした人間は、五感の全てを仮想の世界に再現されている。それらは脳波を含めた生体サインを感知し、電脳世界での行動を脳へ直接フィードバックすることによってほぼタイムラグゼロの感覚を再現することに成功していた。
電脳麻薬は、覚せい剤を摂取した時の脳の活動を再現してしまう。鼻から粉を吸ったり、炙って揮発した成分を少量吸入するのとはわけが違う。内服も静脈注射も、電脳麻薬の即効性と効果の大きさには敵わない。
摂取――実際に体内に入るわけではないが、便宜的にそう表現する――したと同時に脳に働きかけ、大量の快感物質を放出させるそれは、瞬く間に統一電脳世界に広がりかつて社会問題となったVRTの患者総数をたったの半年で上回ったのだ。
各国の麻薬取締機構も電脳麻薬には手が出せない。そもそも電脳麻薬には実体がないのだから、彼らが証拠を掴むことはできない。
人類が歴史の中で初めて遭遇した事態に、UCSは早急な解決を求められた。だがことはそう簡単ではなかった。
実在する覚せい剤と違い、電脳麻薬はただのプログラムだ。化学的な組成を変えて薬物を精製するのと、プログラムを書き換えるのとではどちらが簡便か。UCSがどれだけファイウォールを更新しても、すぐに新しい電脳麻薬が生み出された。
こうしてUCSは統一電脳世界の一時閉鎖を余儀なくされた。といっても世界の垣根を取り払い情報のやり取りのほとんどをそこで行ってきた社会でそれが許されたのはたったの二十四時間だった。
それでもさすがは世界最高峰のVR技術者集団だった。どうにか麻薬プログラムの組成を分析し、これまでに確認されているプログラムとそれに類似したものすべてを検出する機構の構築に成功した彼らは、電脳麻薬を売りさばく売人どもをとある仮想の町へと誘い出し、一網打尽にした。一度居場所を突き止められれば、UCSの監視網から逃れることなどできはしない。各国の現実世界では電脳世界にログインしたまま逃げ出すこともできずにベッドに横たわる犯罪者たちの身柄が拘束されたのだった。
UCSは電脳麻薬の撲滅を宣言し、電脳世界の再稼働と誕生一周年を記念するイベントの前夜祭として、かねてより計画していたUCSメイドのゲームを稼働させた。
それがNOAⅢであり、現在俺が活動している電脳世界の名前でもある。
彼らがUCS本部でグラスを傾けていたとき、統一電脳世界そのものがNOAⅢのプログラムに飲み込まれるなどと、誰が想像しただろうか。
電脳世界に構築されたショッピングモールやレジャー施設、各企業の会議室、医師たちが患者の情報を共有する全世界の病院を繋ぐカンファレンスルーム――人類が思い描いた夢の世界はたしかにそこに在った。
前夜祭だとイギリス人がスコッチを飲み始めたとき、NOAⅢのテストを行っていたオランダ人――ザックが異常に気がついたそうだ。
だが彼らの抵抗もむなしく、わずか一夜にしてそれは別の意味でファンタジーな世界に変貌してしまった。何も知らずにログインした一般人たちが、異形の怪物に襲われるという珍事が起きても、UCS職員たちは電脳世界へのアクセス権を失っており、まったく救済できなかった。
現在の電脳世界は、NOAⅢのプログラムを“UCSに気づかれることなく”不正に改造した正体不明の組織「Black Santa」に支配されている。生意気にも犯行声明を出し、電脳世界にログインしている数億人を人質に取った連中の目的は今もって謎のままだが、現在のところ明らかになっていることがまったくないわけじゃない。
奴らは「招待コード」を入力してログインしてきた人間に新たなタイプの電脳麻薬を渡しているのだ。
それはBlack Santa――BSが電脳世界を乗っ取ってからわずか数時間で、アメリカ、ロシア、フランスの病院に急性麻薬中毒疑いの患者が立て続けに搬送されたことで発覚した。彼らの身体からは覚せい剤は検出されなかったが、脳の快楽中枢の異常な興奮、直前まで電脳世界にログインしていたことなどから電脳麻薬を摂取した可能性が高いと診断された。
その後も電脳麻薬を摂取した疑いのある患者が各地で相次いで発見され、UCSは電脳麻薬の復活を公表し、電脳世界にログインしないよう呼びかけた。
早急な事態の解決を求められ、しかし電脳世界に手出しできないUCS。そこに救いの手を差し伸べたのがツァンである。
「戦闘モードへの換装終了。――ツァン。目標を確保する」
【OK. 最短ルートを転送します】
彼女がキーボードのEnter keyを叩く音が聞こえたような気がした。
◇
「おらァッ!!」
廃ビルの一室――唯一まともな形状を保っていた鉄扉を蹴り飛ばして腰の得物を抜き放ち、ハトが88ミリ対戦車機関砲でもくらったような顔で硬直する三人の男達に宣言した。ツァンのサポートが無くても、転送体の探査装置は彼らの携帯する仮想兵器の存在を瞬時に把握し、赤いグリッドでそれを囲んで表示してくれる。
軽弾丸連続射出装置――要するにサブマシンガン型の仮想兵器を右手にぶら下げている男が手前に二人。奥で目隠しされた男女の前にしゃがんで顔だけこちらを向いている男は、刃渡り十五センチほどのナイフのみ。
彼らには本来ゲームにログインした人間の頭部に視線を固定すると表示されるはずのネームプレートがなかった。目隠しをされているのは、UCSの警告を無視して招待コードを入力した阿保どもだろう。奴らの名前を確認する前に、黒スーツの武装した白人三人を無力化しなくてはならない。
NOAⅢの電脳世界で気絶すると、一旦転送体はサーバー内にプールされて「CONTINUE」または「LOG OUT」を選択する。ログアウトされてしまうと追跡する道が断たれてしまうため、転送体が消滅するまでのわずか一秒弱の間に現実世界のどこかで夢を見ている馬鹿どもを特定しなくてはならない。
これが気絶でなくて死亡した場合、その肉体的な破壊を脳が認識して身体にフィードバックする直前――瞬間的に強制ログアウトさせられるセーフティー機構が働いていることは確認済みだった。
こいつらを自主的あるいは強制的にログアウトさせることなく、ほぼ同時にかつ一撃で気絶させることが必要だった。
そういうわけで、鉄扉を蹴り倒して室内に侵入した俺は、奴らがリアクションをとったり「誰だ、てめえは」的なことを言う暇を与えるつもりはなかったのだが。
「なんだ、こいつ?」
むかって右の男――黒い肌にスキンヘッド、サングラス。スーツの上からでも盛り上がった大胸筋が見て取れるほど屈強な身体。いかにもマフィアといった出で立ちの男が唇を歪めて言った。俺が突然現れて驚いた、というよりは「わっ! 変なのキター」という口調だった。
「おいおい、CAKB(Cyber AKIHABARA)から来たのか? にーちゃん」
向かって右――完全に馬鹿に口調で俺を見下すのは、スーツとワイシャツの胸元をだらしなくはだけた長身痩躯の男。赤っぽいざんばら髪をぼりぼりと左手で掻いている。鷲鼻が魔女を彷彿とさせ、ヘラヘラと笑っている口許に黒く変色した歯を数本覗かせていた。彼は「いるんだよなぁ~こういう奴って」と言って首を横に振ると、後ろを振り返った。
「ヘンリーさんよ! だから俺ぁ、ゲームの世界なんてやめようって言ったんですぜ?」
「上の命令だ。俺たちにあれこれ言う権利はない」
ヘンリーと呼ばれた男は白いものが一筋混じった黒髪をオールバックにしていた。サングラスをかけていて俯き加減なので表情はよくわからないが、静かな口調だった。ざんばらの話しぶりからするに、こいつが三人の中では一番の格上か。
「また上の命令だ」
「余計な口を叩くな、スマイリー。それよりも、そいつは“部外者で目撃者”だ」
「はいはい、と」
両肩を竦めて、スマイリーとやらがこちらに向き直った、と思ったら右手のマシンガンの銃口をこちらに向けた。どうやら自主的にログアウトして逃げる気はないらしい。
「動くなよ? コスプレ野郎」
「こ……?」
戦闘モードに換装済みの俺の転送体グラフィックを思い返してみる。
流れるような金髪、悪を許さぬ強い意志が宿った鋭い目。北欧神話に登場する戦士のごとく均整の取れた顔と八頭身の身体。身に着けたるは黄金色に輝くオリハルコンの鎧、同様の素材を再現した篭手とブーツ。飛び込んできた勢いで大きく広がった夕凪のマント。そして黒ずくめどもに突き付けたるは聖なる刃。かつてアーサー王が用いた剣の名を冠するNOA最強の両手剣だ。
「ブハッ!」
肌の黒い男が吹いた。
「おいスタンリー。笑っちゃダメだぜぇ」
ざんばらが窘めながらも「くっく。今どきそんなハイ・ファンタジーなアバターもめずらしいけどな」と言った。
「なあ、スマイリー。もしかしてあれじゃねーか? NOAの熱狂的支持者!」
「ってことは、アレか。こいつ、“勇者”か!」
「助けて勇者様ぁ~。あたし、ほんとは悪いお兄さんに騙されていただけなのぉ~ん」
「ギハハハハッ! やめろ! 気持ち悪ィ!」
大笑いしつつもしっかり銃口をこちらに向けている二人。
俺は持っていた聖剣を鞘に納めた。その様子が可笑しかったのか、スタンリーとスマイリーの笑い声は一層大きくなった。心なしか、奥に控えるヘンリーの肩も震えているように見えた。
「…………何が悪い」
「「……え?」」
「勇者で何が悪い!?」
超加速プログラム、始動。
ヘンリー、スマイリー、スタンリー。
リー三兄弟だな。
てめぇらの運命は今、死と決まった。