突然の星の失踪2
星が目を覚ますと外はもう日が沈みかけて茜色に輝いていた。その光りを受け、優が椅子に座ってテーブルで本を読んでいた。
重い体を起こした星に気が付いた優は笑顔で言った。
「あら、起きたの? 目覚めはどう? よく眠れた?」
「ええ、あなたのおかげでぐっすりと……」
ベッドから起き上がった星は優の隣に座って彼女に尋ねた。
「何を読んでるんですか?」
「ああこれ? 別に普通よ? 『鎖と裁き』って本。内容は完璧な殺人――つまりは完全犯罪ね。そのやり方が好きで読んでるの! でも、この作者より私は上手くやれる自信があるけどね♪」
「……そうですか」
本の表紙を星に見せてにっこりと笑う優。しかし、さっき彼女の隠し持っていたナイフを見た星には笑えない。
優は読んでいた本をパタンと閉じると星に向かって言った。
「さて、それじゃ行きましょうか。始まりの場所でもあり終焉の地でもあるユグドラシルへ……」
「…………コクン」
目を見てそう告げる優に星も無言で頷く。
身支度を整えて車に乗り込むと、東京の新宿駅前から電車に乗る。
普段は人で溢れかえっているホームがスーツ姿の男性数名と星と優しかいない。
行き先の案内板に政府専用車両と書かれたそれは外観は緑色で扉は厚く、自衛隊の戦車のような感じに思えた。
電車が走り出すと地下を40分くらいで、途中何度も大きく曲がりながら進んである駅で止まる。
そこは駅と言うには小さく、目の前に小さな鉄の扉があるだけ、正しくはシェルターへの入り口と言った方がいいかもしれない。
「さあ、行きましょう!」
「はい」
緊張感を持った声色でそう言った優に星は頷く。
張り詰めた空気の中、優が鉄の扉を開けて中へと入っていく。
中は長い通路が明るく照らされており、両側が分厚い鉄板で覆われていて、あちこちに監視カメラが設置されている。星達がしばらく奥に進むと以前に会った中年の男性が立っていた。
「やあ、予定通りだね」
「はい富岡様。夜空星をお連れしました」
彼を見るなり優は地面に片膝を突いて言った。
「ご苦労だったね。星くん、こちらに来たまえ……」
「はい」
富岡の後ろを着いて歩き出す星。
狭い廊下を歩いて行くと少し広い空間のある場所で止まった。
分厚い鉄の鉄格子がはめられた刑務所の牢屋の様な扉が目の前にあった。
「ここが今日から君の部屋だ。生活に必要な物は揃っている。好きに使ってくれたまえ……隣には安達くんを入れておく。何か用事があれば彼女に言ってくれ、私が用事がある時も同様に連絡する。食事はドア横の小窓から日に3度支給される。冷蔵庫の中にはお菓子やジュースなど入っているので勝手に食べてもらって構わない」
「はい」
扉を開けて中を説明すると星は小さく頷いた。
「それでは健闘を祈るよ……」
「はい」
富岡は扉を閉じると鍵を締めた。
コンクリート打ちっぱなしの室内には簡素な鉄の机と棚とは言えないような鉄の板が数枚重なっただけの物置と一人暮らし用の冷蔵庫
シャワールームにトイレがある狭い小部屋。部屋の端にはパイプベッドが置かれている。
扉にはドアノブがなく中からは出られない造りになっていた。天井近くには微かに外が見える小窓があり月の光りが降り注いでいる。
そして隣の部屋に通じるドアノブが付いた扉はさっき富岡が言っていた優の部屋へと続くドアだろう。もう一度星は部屋の中を見渡して近くの壁をそっと触った。
「……つめたい」
コンクリートの壁は冷たく、生活に最低限の簡素過ぎる部屋が、なおその温度を冷たくしているように感じた。
星は机の上に背負っていたリュックサックを下ろして中身を出していく。
数日分の着替えと笑顔の母親と姉、父親が写った自分のいない写真。九條が残していったラッピングされた大きな包み紙に入ったプレゼント。それがリュックに入っていた全部だ……。
着替えを棚の上に起き、机に写真立てを置いて椅子に腰掛けて大きく息を吐き出す。
疲れていたこともあるが、それ以上に慣れない環境に心が休まらないのが大きいかもしれない。
静かな部屋でこうしていると不安と孤独感に押し潰されそうになる。昔は母親が仕事から帰って来る深夜帯まで一人で居る時間の方が圧倒的に多かった為、人より孤独に慣れている自信はあった。しかし、エミルと生活するようになって、孤独とは無縁になったことで変わったらしい。
「……私はだめだなぁ。まだお姉様に甘えてる……こんなんじゃ、みんなを助けられない」
そう口にした星がふと机の端を見ると九條の残していったラッピングされた包み紙が目に入った。
それを手に取ると星はラッピングのリボンに指を掛けた。だが、いざ開けようとすると、なかなか思い切りが付かない。
「……九條さん」
星が今までこれを開けられずにいたのは、何もタイミングがなかったからだけではない。
ただただ怖かったからだ――九條とは良好な関係を保てていると思っていた。しかし、彼女は突然星の前からこれだけ残して姿を消したのだ。
それは自分が九條の気に触る何かをしたからかもしれないと星は思っていた。中身は柔らかくぬいぐるみか何がなのは分かっていたが、それを開けるのは九條がもう二度と会えなくなるような気がして嫌だった。
「九條さん。私……私に力を貸して下さい……」
震えた指先でラッピングのリボンをゆっくりと解くと、シュルシュルとリボンが机の上に落ちた。
恐る恐る包み紙から中身を取り出すと、可愛いテディーベアーが姿を現した。首には星の誕生日の8月28日のプレートがキラキラと輝いている。
「これって私の誕生日……九條さん。私の誕生日を覚えててくれたんだ。私なんかの……誕生日を……」
星は潤んだ瞳でテディーベアーを見つめ、それをぎゅっと胸に抱きしめた。
「私……九條さんに迷惑ばかりかけたのに……なんの役にも立たないだめな子なのに……あなたに何もしてあげられなかったのに……こんな物、受け取れるしかくなんかないのに……」
テディーベアーを優しく抱きしめながら星の瞳からは自然と涙が溢れ落ちる。
星にとって誕生日はただお小遣いが貰えるだけの普通の日。貰ったお金で帰りの遅い母親に少し良い食事を用意して自分も同じ物を食べる日、自分へのプレゼントの本を買って自分で自分におめでとうを言う日なのだ。
小さな頃はお母さんが早くケーキを買って帰って来て、一緒にご飯を食べた後にケーキとプレゼントを貰っていた。特別な日だったはずなのに、いつからかそれが普通になっていた。
まだ6月で誕生日には早かったが、九條から貰ったテディーベアーはそんな小さな事など吹き飛ばしてしまうほどに星の心を打った。
「ありがとうございます……私、この子を大事にします。今は泣いちゃう弱い子ですけど……きっと、きっと強くなります。みんなを助けられるように強く……見てて下さい。九條さん」
星はテディーベアーを胸から離すと、優しく机の上に置いた。
そして、机の上に解いたラッピング用に巻かれていたピンク色のリボンを取ると長い黒髪をまとめてぎゅっと強く後ろで縛った。
目を閉じて九條の顔を思い出すと、次にゲーム内で会った星の姉の顔が脳裏を過ぎる。
「九條さん。私頑張ります! もう泣いたりしません! お姉ちゃん。私に勇気を――力を貸して……」
ゲーム内であった姉のようにポニーテールに髪を結ぶと、星は小窓から見える月を決意に満ちた表情で見つめた。
「必ず寝ているみんなを助けるんだ! もう私に戻る所はないんだ。必ずお父さんの無実を証明してみせる! それが全部終わったら…………きっと、今度こそ私を褒めてくれるよね。お母さん……」
月から視線を逸らし、微笑んでいる母親の写真を優しく見つめて星は呟いた。
薄暗い部屋の中で小窓から降り注ぐ月明かりだけが、星の慈愛に満ちた横顔を見守るように照らしていた……。




