新しい母親9
普段ならエミルが髪を丁寧に乾かしてくれるのだが、今日はそのエミルが居ない。それが心が折れかけている今の星に追い討ちを掛けるように髪を乾かしながら、その表情は暗くまるでお通夜のようだった。
部屋に戻った星は机に座って本を読み始めた。これは星が精神的に追い込まれた時に良くやる行動だ。読んだことのある楽しい本を読むと不安や悲しみから解放される。
現実が非情な時ほど無意味に消費されるものに現実逃避してしまう。今までは1日の大半をエミルと一緒に過ごしていた。それが最近では当たり前過ぎて気にしていなかったが、たった1日だけエミルが居ないだけで星の中で不安な気持ちに押し潰されそうになってしまう。
時間を忘れて本を読んでいると扉をノックする音が聞こえて星が声を上げる。
「はーい」
「お嬢様。夕食をお持ちしました」
メイド長が食器を運んでやって部屋に入ってくる。
読んでいた本を閉じるとメイド長が星の机に食事を置いていく。
夕食は小さくカットされたステーキにたまごスープと皿に飾り付けられたサラダにライス。食後に食べる用のチーズケーキと銀色のボトルが置かれた。
食事を置き終わったメイド長に、星は少し聞きにくそうに尋ねる。
「……あの。さっきは食器を割ってしまって床まで汚してしまって……ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず。昼間にあんな事がありましたからね。奥様の方には私の方から星様の事を少し話しておきました」
「お母様は何か言ってましたか?」
不安そうにそう尋ねた星にメイド長は笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。奥様は厳しそうに見えますが、根はお優しい方です。ですから急にお屋敷を追い出されるというということはありません。まあ、もしも別の家に移られる事になったとしても、私が星お嬢様と一緒に行きますから」
「でも、それでは迷惑になってしまいます」
「いえ、全然ご迷惑なんて事はないですよ。私達メイドはお嬢様のお世話をするのが仕事ですから」
メイド長はそう言って笑うと「それでは失礼します」と部屋を出て行った。
メイド長が出て行って再び静けさを取り戻した部屋の中で星は机に置かれた食事に手を付けることなく、窓の方へと歩いて行くと外を見た。
部屋の窓から見える景色はいつもと変わらないはずなのに、星の心の中には不安と恐怖で一杯だった。
昼間の事がなくてもずっと前から分かっていた。自分はいつかこの家から出て行かなくてはならないと……。
「……私は本当に弱くて卑怯で――人でなしだ。今の私は自分の事しか考えてない……この家から追い出されたらどうしよう。そう考えただけで怖くて震えが止まらない」
小刻みに震える体を押さえつけるように腕をぎゅっと掴む。
「私は人を殺したんだ。ゲームだけどゲームじゃない世界で……私は犯罪者なんだ……」
ゲーム内で主犯の男を剣で突き刺した感触が今も鮮明に思い起こせる。まるで昨日のことのように……。
「……そんな私が人に必要とされるわけがない。きっと、お母様も私が犯罪者だって知ってる。テレビを見てればきっと――だから家族じゃないって言われたんだ……それはそうだよね。私でも嫌だもん……」
そう呟いた星は悲しそうな瞳で遠くを見つめていた。
「私がわがままを言うのは違うよね……もう全てまかせよう。たとえどうなっても……」
星は胸に手を当てるとゆっくりと瞼を閉じた。
翌朝。星は顔を洗いに部屋を出ると、階段の上から今まさに出掛けようとしているスーツ姿の母親を見つけて咄嗟に身を隠した。
「奥様カバンの用意が出来ました。行ってらっしゃいませ」
「ええ、ありがとう――うっ……」
メイド長が差し出したカバンを受け取った直後、母親は頭のこめかみの辺りを押さえて地面に膝を突く。
「奥様! 今、頭痛薬をお持ちします!」
「大丈夫よ。いつもの事だわ……それより私の留守中くれぐれも頼んだわよ」
「はい。おきおつけて」
心配そうに眉をひそめるメイド長に笑顔を見せると母親は家を出て行った。
それを見送ったメイド達がその場を離れるのを待って星は顔を洗いに浴室へと向かった。
顔を洗って部屋に戻ると、星は机に座って本を読もうと本を広げるが脳裏をさっき頭を押さえていた母親の姿が蘇り表情を曇らせる。
星は机の上に置かれていた行方不明の母親の写真が入った写真立てを手に取った。
「……お母さん。ごめんなさい」
小さな声でそう言った星は写真立ての裏から開けると、中に入っていた小さく折られた五千円札を取り出した。
星は五千円札を財布の中に入れるとピンク色のポシェットを首から下げて「よし」と決意に満ちた瞳で言うと、誰にも見つからないようにこっそりと部屋を出た。
一人で出掛けることがメイド達にばれると必ず止められるか執事の小林が付いてきてしまう。今回の用事は何としても星が一人でやり遂げたかった。
玄関まで来た星は扉をそっと開けて外を見ると今にも雨が降ってきそうなほど雲が厚く雲っていた。
「……雨降りそう。一応、傘を持って行こう」
玄関先に置いていた傘を手に取ると外に出た。庭は思いのほか広く、門の所に行くまでに40分くらいかかってしまった。
車で行くと意外に短く感じる距離でも子供の星の足だと結構掛かる。屋敷の玄関から門に行くまでに結構疲れたが、本当に大変なのは屋敷を出てからだ。
「はぁ、はぁ……よし!」
星は気合いを入れるように小さく頷くと、首から掛けたポシェットの胸の前の紐を握り締めて開いていた門を出た。
屋敷が見えなくなるまで歩くと、腕時計型の多機能デバイスで今日の行き先を確認する。
空中に浮かび上がった仮想モニターには地図が表示され、そこには神社に赤いマークと行くまでのルートが黄色で表示されていた。
仮想モニターの端には電車やバスなど公共交通機関の時刻や料金なども表示されておりAIによって最速と最安のルートまで提案してくれる便利な機能も付いている。
それに基づいて星は最短ルートで行ける電車を選択した。
久しぶりに歩く街は人通りが多く駅に近くなるに連れて賑やかになっていく、そんな様子が星には少し懐かしく感じる。
昔は一人で繁華街付近に出掛けるのは、決まって大きな書店がある大きな駅だった。母親が仕事で忙しく一緒に出掛けることなどなかった星は人通りが多く一人で居ても、不思議と寂しさは感じなかった。
だが、今回は自分の買い物で来たわけじゃない。新しい母親のために御守りを買おうと神社に向かうのだ。
駅に着いた星は腕時計型の多機能デバイスと駅名と料金、到着までの時間が書かれた電光掲示板を交互に見て間違いがないかを確認して自動券売機で切符を買うために操作する。
子供1人の場所をタッチして料金の一覧から行き先の駅の料金を押すと、突然自動券売機から声が聞こえてきた。
「お嬢ちゃんお母さんかお父さんは一緒じゃない?」
「わ、私1人です!」
「そうか……子供だけだと不審者や凶悪犯罪があった場合に危険だから私達が付き添う事になってるんだ。少しそこで待っててもらえるかい?」
「……はい」
そう。近年は電車のホームに飛び降りや落下防止の為のホームドアが必ず付いている。しかし、そのホームドアのせいで避難が遅れるのを悪用し列車の車内で事件を起こす者や遊んでた子供が挟まれたりする事故が発生したりで、小学生以下の子供が乗る場合には保護者か駅員が同伴することが義務付けるられていた。
星が自動券売機の前で待っていると、中年男性の駅員が小走りでやってきた。
「ごめんね急いでるところ。でも、これも決まりだから――えっと、君。どこかで見た気がするんだけど。テレビで、確か……」
「えっ? 気のせいです……」
「いや、確かに何処かで――――」
駅員は星の顔を眉をひそめながら訝しげに目を細めて見た。
星はその視線から逃げるように俯きながら顔を逸らす。
「あっ! 君はネットゲーム監禁事件の!!」
その直後、星は全速力でその場から走り去った。駅員の「待ちなさい!」という声も聞かずに人波を掻い潜って振り返ることなく全力で走り切って人気のない路地に逃げ込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……わ、忘れてた。私は犯罪者なんだ……」
星は悲しそうな瞳で足元を見つめた。
今まではエミルの家に養子になってから忘れていたが、学校でも屋敷の中でも意識されることはなかった。それはエミルが星を外の世界から隔離してくれて守ってくれていたのだ。




