幻惑の森
平原を吹き抜ける風が無駄に心地良い。アイテム街を発ち、のどかな田園風景を歩くこと一週間。アラインとマハトはあっさり次の目的地「祈りの街」に到着した。
またしてもここまで魔物らしい魔物に出会うことはなかった。こう苦労が少ないと魔王討伐の旅というより単に勇者アンザーツの足跡巡りをしているだけに思えてくる。
見上げた街は坂だらけで、白っぽい直線的な建物が目立った。祈りの街と言うだけあり、余所より教会が多いようだ。通りには至るところに大小のクロスが掲げられ、初代勇者を遣わしたトルム神を崇める民の多さに気圧された。
「試練の森っつーのはあれのことですかねえ」
マハトの指差す先には高台に建てられた神殿を囲む鬱蒼とした森があった。思っていたより小さいが、おそらくあれがそうなのだろう。通過しようとする者を惑わす幻視の森。一握りの修験者しか行き来できないため、いつしか人々に「試練の森」と呼ばれるようになった――。
「準備をしっかり整えて、明日神殿を訪ねよう」
「うっす。んじゃまず宿を探しましょうか」
アラインが必要な荷を買い足す間にマハトはこじんまりした宿を見つけてきた。広場近くの、宿屋らしい風情のある宿屋だった。静かな佇まいにアラインはホッと息をつく。アイテム街でも宿に泊まるには泊まったが、あんな観光客や商売人でごった返す町宿はもう二度とごめんである。家族連れの子供はうるさいし、カップルは周囲に憚らずイチャイチャするし、商人は所構わず物を売りつけようとしてくるし。
「そういえば神殿の大僧正って、ゲシュタルトのお姉さんらしいすよ」
「えっ!? あ、有り得るのか? 大僧正っておいくつなんだ?」
思わず尋ね返すとマハトも「さあ?」と首を傾げる。
「宿の人も自分の目で見たわけじゃねえみたいですけど。なにせ神殿から一歩も出てこないそうなんで」
「ま、まあご高齢なら、いいとこ寝たきりだろうしな」
驚きだ。アンザーツの伝説はもう百年も昔のことである。そんな時代の人間がまだ存命であるなんて。しかも勇者の妻となった僧侶ゲシュタルトの実姉だとは。
「けど、それならウチに何か伝わっててもおかしくなさそうなんだけど」
「それもそうっすねえ」
結局大僧正の情報については曖昧なままアラインたちは各自ベッドに潜り込んだ。
翌日は天気も良く、久々に寝台で眠ったこともあり、すこぶる快調であった。
背中の鞘に収めた剣の柄をぐっと握る。試練の森には魔獣や怪虫が出るらしい。いよいよだ、という気がした。
街の南端まで来ると民家の数もまばらになり、迷いの森から漂う霊気にぞわぞわ背筋が粟立った。当然だが森の周辺には誰もうろついてなどいない。地元の住民は幻惑の恐ろしさを重々承知しているようで、用がなければ近づかないようにしているらしい。おそらく神殿側の人間が降りて来たときしか交流することもないのだろう。
森に入るのに特別な許可は要らなかった。踏み込んだ人間を追い返すか招き入れるかは森が決めると言われていた。つまりはそれが許可なのだ。
マハトは自分が先を歩きましょうかと提案してきたが、従者には背中に回ってもらうことにする。後ろを気にして歩くより前方だけに集中していたい。
「!」
薄暗い森に入るとすぐ猪によく似た魔物と出くわした。体格は野獣のそれより二回りほど大きい。発達した牙と荒い息遣いに凶暴性が滲み出るようだ。王都近辺にいた丸っこいのほほんとした獣たちとはまるで違ってアラインは妙な感動を覚えた。これだよこれ。勇者が戦う相手というのはこうでなければ。
「幻ってことはないよな、あれ?」
「揃って同じ幻覚見てるんでなけりゃ、本物でしょうね」
一応マハトに同じものが見えているか尋ね、実在の生物であることを確かめる。雄叫びを上げ突進してくる魔物に剣を向け、横一線に凪ぎ払った。斬撃の感触が鈍い痺れとして手に残る。おお、とアラインは感涙に咽んだ。
「アライン様、まだ生きてますぜそいつ!」
しかし一撃ではとどめを刺せなかったようで、血を吹く魔獣の反撃を食らう。起き上がった敵は傷の痛みに構うことなくアラインのふくらはぎに噛みついた。堅い皮のブーツを貫き牙が肉を穿つ。
「ッつ……!!」
「てめえ!!」
瞬間、響き渡る怒声。ざしゅっという音とともに敵は崩折れた。どうやらマハトが斧で頭を割ったらしい。
僕がやっつけたかったのに、と漏らしかけた恨み言は喉奥に飲み込んだ。武術の師であるこの戦士とまだまだ力量差の大きいことは自覚している。もっと鍛えなければなと己に言い聞かせた。野外での戦闘にも慣れる必要がある。
「足見せてください」
「ん」
靴を脱いで調べた傷は大して深くもなかったが、念のためにと薬草を処置された。これくらい平気なのに。
「穴開いてら。アライン様、大丈夫すか?」
「お前……、お前との稽古の方が僕はよっぽどぼろぼろにされてきた気がするんだが?」
呆れて言うとマハトはあっさり「俺は殺意ないですもん」と返す。
「それよか外で見てたより神殿が遠い感じっす。気を引き締めていきましょう」
言われて丘を見上げると、成程神殿は確かに少し小さく見えた。これが幻視の成せる業か。
出発は朝一番だった。昼過ぎまで魔物を斬り倒しながらひたすら前進した。しかしいくら歩いても神殿がちっとも近づいてこないので、同じところで足止めされている可能性が高いなと分析し、アラインたちは休憩を取ることにした。
適当な丸木の上にどっかり腰を下ろしたマハトの様子を見るに、彼もだいぶ疲労が溜まってきたようだ。魔物の出現にはきりがなく、一撃必殺といかない敵もいる。怪我こそ薬草で癒してはいるが、体力の消耗は防ぎようがなかった。
こういう聖地を守ろうとする機能のある場所では帰ろうとする者にはすぐさま道が開かれると言う。格好はつかないが撤退も視野に入れておくべきかもしれない。マハトの疲労も濃かったが、アラインはその倍以上疲れていた。戦闘のコツは掴めてきたと言え、連戦に過ぎる。だが自分から帰ろうとは言いたくなかったし、アラインが帰ろうと言わなければマハトも帰ろうとしないのはわかっていた。――アンザーツは神殿に辿り着いたのだ。自分に同じことができないとは思いたくない。意地になっている自覚もあったけれど。
「そろそろ行きましょうか」
まだ十分休めていないだろうに早く神殿へという焦りを読まれたか、マハトがすくっと立ち上がる。そんなに急がなくていいよ。そう労おうとしたまさにその瞬間、視界が赤く染まった。戦士の背後から狼の咆哮が響く。
「マハト!!」
背中から血を噴き出して倒れた彼に魔獣は再度襲いかかった。頭で考えるより先に、剣を握って飛び出していた。
「この……ッ!!」
疲れも忘れ、思い切り剣を叩きつける。明らかに強敵とわかる俊敏な相手にも恐れは抱かなかった。
飛び退った狼は体勢を立て直しアラインに向かってくる。跳躍はかわせても剣の振りが追いつかない。闇雲な攻撃では空を切るばかりだった。
意を決し、アラインは魔獣の体当たりを受け止める。吹き飛ばされかけたし噛みつかれかけたが、構えていた剣を横っ腹に突き刺す方が早かった。キュウウンと弱々しい声を上げ魔物はすぐに動かなくなる。用心深くその頭を切り落とすと、アラインは戦士の元へ駆け戻った。袋から薬草を取り出す時間も惜しくて「いざってときに取っておいた方がいいっすよ」と使用制限されていた治癒魔法を唱える。
早く血が止まってほしい。尋常でない出血量だ。広い背中は一面朱に染まっている。
頭がくらくらした。「こいつ助かるのか?」と自問した瞬間、全身が恐怖に慄いた。
「マハト、おい、マハト」
「……ふぁい」
返事があった。それだけで安堵に力が抜ける。
「すんません、不覚でした」
開口一番謝罪を口にする戦士に怒りとは違う苛立ちを覚えて首を振った。違う、そうじゃないだろう。
「馬鹿か。僕が退き際を見誤ったんだ」
もういい、今日は帰って休もう。アラインはそう続けようとした。神殿に着くことより、アンザーツと張り合うことより、仲間の命の方が大切だ。だからもう――。
「大丈夫すか?」
ハッと目を開くとそこには艶々と健康そうなマハトがいて、アラインをじっと覗き込んでいた。
「そっちも幻惑解けたみたいっすね」
ニカリといつもの笑みが向けられる。噴き出していたはずの血はどこにも飛び散っていなかった。事態を飲み込むのには数秒を要した。認めたくないが、どうやら自分はまんまと幻術に引っ掛かっていたらしい。
「お前、怪我は? 傷は負わなかったのか?」
「俺はこの通りぴんぴんしてますけど?」
ほら、と力瘤まで作って見せるマハトにアラインは脱力しきって肩を落とした。安心した途端、照れ臭さが胸に湧き上がってくる。
「……心配して損した」
「アライン様、俺が大怪我する幻でも見たんすか?」
「絶対違う。断じて違う」
「へぇー」
鬱陶しいニヤけ面に拳を一発ぶち込んでやろうかと思ったが、「ほら」とマハトが嬉しそうに前方を示したので視線はそちらに奪われた。
「――……」
あんなに遠かった神殿はもう目と鼻の先だった。森が開けて、白く荘厳な柱が覗いて。
「流石ですね、ちゃあんと着きましたぜ」
それはアラインにとってとても嬉しい、そして誇らしい出来事だった。