エーデルとクラウディアの旅立ち
人間の世界は三つの国に分かれていて、最も栄えているのが勇者の国、次に栄えているのが兵士の国、最後のひとつがエーデルの住む辺境の国だそうだ。辺境という名が示す通り、魔界と隣り合うこの国は土も水も何もかも貧しい。カラス麦で細々と命を繋ぎ、人を食らう魔物を恐れ、他者を阻害し、他国を妬み、神様の存在を疑いながらやっと一日を生き延びる。それが寂しい辺境の民――。幼い頃、母が子守歌代わりにぼやいていた。
勇者の国では一生懸命耕さなくても毎年豊かな実りが約束されていて、井戸も溜池も清らかな水でいっぱいらしい。 兵士の国では商工業が発達し、街は活気に溢れているという。
辺境の国が誇れるものは何だろう。考えてみたが思い浮かぶものはない。魔力の強い人間が多いと聞くが、魔法で腹は膨れないので嬉しくなかった。
生まれて十五年も経つと、痩せ枯れた祖国の無様さがひしひし感じられるようになる。この国は酷くつまらない。ぼろをまとった浮浪者にけちな盗人、あくどい商売人。そんな薄汚い人間しか通りを歩いていない気さえする。母が病に伏せってさえいなければ、とうの昔に飛び出していたことだろう。
旅装束のクラウディアに出会ったのは、毎日に嫌気が差してしょうがなかった頃のことだった。
「もし、どこかお怪我をされていませんか?」
灰色のフードの下から覗く大きな青い瞳。肩で切り揃えられたプラチナブロンドの髪が眩しく、エーデルは知らず瞬きしていた。
薪運びに失敗して堅い材木を足に落としてしまったのはつい先程の話だ。多少右足を引き摺ってはいたが、いきなり他人に、それもこんな綺麗な少女に話しかけられ、エーデルは無視すべきか返答すべきか戸惑った。知らぬ人間に声をかけてくるのは悪人、知った人間のふりで声をかけてくるのは極悪人。母の教えを忘れたわけではなかったが、不意に飛び込んできた美しいものにすっかり虚を突かれてしまったのだ。
「差し支えなければ、足を」
気がつけば言われるがまま、エーデルは旅人の前に右足を差し出していた。すると不思議なことが起こった。旅人がまじないを施した途端、光の粒がエーデルの足元に集まってきて痛みを消してしまったのだ。
「えっ……!」
「癒しの魔法です」
旅人は愛らしい顔でにっこり笑った。瞬間、エーデルはしまったと後悔する。辺境の国にも魔法使いはたくさんいる。そしてその大半が、術の効果に対価を求めてくる人間だった。
安易に足など差し出してしまうから。これは自分の失態だ。
「どうですか? 楽になりましたか?」
「……」
エーデルは思い切って顔を顰めた。こんなことで高値をふっかけられては堪らない。とにかくまだ痛むふりをしてこの場を切り抜けなければだ。
「いえ、あんまり効いてないみたい。あいたた」
これ以上関わり合いになりたくない。全身で拒絶の意を示し、坂の上の我が家を目指して歩き始める。ところが予想外なことに、次の獲物を探しに行くだろうと思った旅人はそのままエーデルにくっついて来た。
ギョッとするエーデルを尻目に旅人は「あれ? おかしいですね。それじゃあせめて荷物運びを手伝います」などとのたまう。そして軽々手元の薪を奪ってしまうとゆったりした歩調で隣に並び歩き出した。
「……あ、あの、困るんだけど」
「でもお怪我をなさってるんでしょう? わたしなら構いませんので」
ひとことで言えば、それは天使のような笑顔だった。
どきんと一瞬胸が跳ねた。相手は自分と同じ女だったのに。
クラウディアと名乗った彼女は、とても清らかな、聖なると言っても過言ではない雰囲気を漂わせていた。彼女の内から見えない光が溢れ出していて、エーデルは酷く上擦った気持ちにさせられた。どきどきして、どきどきして、やっと家に着き薪を返してもらったときも「ありがとう」と言いそびれてしまったくらい。
その後人伝にクラウディアが丘の教会に身を落ち着けたこと、彼女が諸国を巡りながら僧侶として修業を積んでいることを知った。
教会に行くと時々クラウディアが箒で外を掃いていた。最初は偶然を装って、次にわざと用事をこしらえて、そうして会いに行くたびに、エーデルとクラウディアは打ち解けて親しい友達になった。
毎日楽しくて仕方なかった。クラウディアの優しい声を聞くだけで幸せになれた。宝石のような瞳と目が合うと、他には何もいらないと思えた。
クラウディアは勇者の国から来たのだと言う。あの国の人間は皆こんなにも美しいのだろうか。それが神様から祝福を受けているということなのだろうか。
荒んだ街で、彼女はすぐに人々の癒しそのものとなった。どんな傷でもクラウディアが診ればすぐに治った。彼女は時に凶悪な魔物をも追い払ってくれた。病を召した母でさえクラウディアが見舞った夜は安らかな寝息を立てていた。
エーデルにとって彼女は本当にかけがえのない存在だった。ずっとこの街にいてほしかった。いつまでも、いつまでも、ずっと。
「――故郷に戻る日が来たようです。今までありがとう、エーデル」
別れを切り出されたその日、エーデルは頑として首を縦に振らなかった。クラウディアと過ごすことができたのはほんの一年足らずの間だけだった。
受け入れられるはずがない。味気ない、色褪せたものしか知らなかった自分にこんな鮮やかな世界を教えておいて。
「きっとまた会えますよ。ほら、約束の印にわたしの大切なものを預けます」
去り際にクラウディアは、神鳥のレリーフが施された首飾りをくれた。きらめくクリスタルに驚いて彼女を見上げると、クラウディアは相変わらず汚れのない清らかな微笑を湛えていた。
エーデルの目には首飾りが一財産築けるくらい価値ある品に見えた。実際それは誤りではなかったと思う。けれど自分にクラウディアとの友情を売り捌けるわけはなかったし、これほど貴重そうな装飾品なら後で必ず取りに来てくれると信じられた。ようやく彼女の旅立ちを認めたエーデルをクラウディアは優しく撫でてくれた。
「もう一度必ず、エーデル……」
囁きを耳の奥で繰り返し、忘れないよう記憶に刻む。
最後にエーデルを抱き締めると、クラウディアはそっと離れて「さようなら」と言った。そのときやっと、エーデルは彼女が「彼女」でなかったことに気がついた。
見えなくなるまでクラウディアの背中を見送る。幾許かの胸の高鳴りを抑えられないまま。
(……男の子だったんだ……)
ずっと尼僧の衣を着ていたからわからなかった。どうしてそんな格好をして己の性別を伏せていたのか、それもわからなかったけれど。
光を失った街はまた元のうらぶれた空気に戻っていった。まるで最初から照らされてなどいなかったように。
クラウディアが去ってしばらくすると、闇は一層濃くなった。翼を広げたドラゴン、ずんぐりした怪鳥、獅子の頭を持った化物、巨大な蟻、蠢く蛇たちが何の前触れもなくエーデルの故郷を襲った。戦う力を持つ人間が応戦したが、魔物の数は膨大だった。強い結界のある都へ避難する以外生き延びる道は残されていなかった。
エーデルは寝たきりの母を背に担いだ。荷物はクラウディアから預かった首飾りひとつだった。
少しでも魔物の数を減らすため、街には火が放たれた。炎と煙の渦巻く中をエーデルは必死で逃げた。逃げて、逃げて、けれど結局逃げ切れなかった。
崩れ落ちた倉の中で肺を弱らせた母が詫びる。すまなかった、すまなかったと泣きながら。魔物に殺されるか高熱に殺されるか、どうせ死ぬならどちらも同じだ。首飾りだけはどうにか守りたかったけれど。
「エーデルよくお聞き。母さんが死んだらお前はきっと辛い思いをしながら生きていかなきゃならなくなる……」
「……?」
母はうわ言を話しているようだった。熱と痛みに浮かされて。
「母さんは魔導師で、ずっとお前に魔法をかけていたんだよ。あたしが死んだらそれが解けてしまう……。お前は少しずつ本当の姿に戻ってしまうんだ……」
ゼエゼエと苦しげな呼吸に意味のわからない告白が混じる。今わの際だと言うのに母が何を話しているのかまったく理解できなかった。誰が誰に魔法をかけたと?本当の姿?一体何の話なのだ?
愚痴を零す母の姿なら毎日のよう目にしてきた。けれどこんな風に涙ぐむところを見るのは初めてだ。悪い予感が胸をよぎってエーデルは心臓を凍らせた。震える手の中に首飾りを強く握り締める。
「お前はお逃げ、エーデル」
大丈夫、きっと逃げ切れると母は言う。ひとりでも、辛くても、生き延びなければならないと。
せめて隣にクラウディアがいてくれたら、母の遺言を理解しようとする勇気が得られたのだろうか。捨てて行けという言葉以上に明かされようとしている秘密が全身を震えさせる。
(嫌、聞きたくない……)
直感は激しく抵抗するのに声を追わずにはいられなかった。それを耳にすれば、もう二度と今までと同じ自分には戻れない。わかっていたのに。
「お前には魔物の血が流れてる――」
辺境の国は都を除くほとんどの街と村が魔物の手に落ちたと言う。
黒髪が紅く染まり、鳶色の目が金に塗り変わったエーデルは、日に日に浅黒く変色する肌に怯えつつ森を這いずり、人里に助けを乞うこともできぬまま南方を目指した。
国境の河を渡り、兵士の国を越えて、クラウディアに首飾りを返すのだ。
そうしてあと一度だけ美しいあの子を見たら、おぞましいとしか思えぬこの命を断とう。