ディアマントの旅立ち
金粉を周囲に撒きつつ上空に飛び立ち、ディアマントは魔王城を離脱した。最上階に位置する玉座の間から遠く遠く、誰も追いかけてこれないほどの距離を開ける。
空中に静止したディアマントを温い風が煽り、ウェーブを描く黄金の長髪がひらひらとたなびいた。天の父から授かった光る両翼は暗い魔界の空において悪目立ち以外の何物でもない。幸い今は魔物の半数以上が辺境攻めに加わっているとかで、襲いかかってくる敵はいなかったが。
「ディアマント様! ご、ご無事ですか!?」
と、パタパタ半透明の翼をはためかせ世話係のオーバストが飛んできた。その黒髪は風の抵抗に乱れ切っており、同じ色の双眸も動揺に震えている。魔王討伐の命を授かったディアマントがいきなり魔王城を目指したので気が気でなかったという顔だ。どうもこの従者に心配されると見くびられている気がしてしまう。一体彼はいつまで自分を子供扱いするつもりなのだろう。
「魔王に会ったぞ、オーバスト」
「え……っ、え、ええー!?」
「剣を交えればどんな相手かわかるかと思ったが――あれは本当に魔王なのか?」
闇に聳える古き巨城、その最も高い場所に鎮座した魔物の王。思い返してディアマントは眉根を寄せた。
確かに強い魔力を有していた。ディアマントがただの一太刀も浴びせられなかったほどに。しかし真冬の木のように枯れ切ったあの姿は。
「意味のわからんことばかり喋って、こちらの言葉も通じなかった。まるで亡霊のようだったが」
率直な感想にオーバストは「ええ」と頷く。
「ですのでそうご説明差し上げようと……、魔王ファルシュは己の死を防ぐため、魂と肉体を切り離しているのです。玉座にいる精神体を倒すには、まず魔王の肉体から滅ぼさなくては……」
「聞いていないぞ、オーバスト!」
「わ、私がお話しする前にディアマント様が行ってしまわれたんですよ?」
「貴様はやることなすこと遅いのだ! もっと早く言え!!」
「ひいい! わ、わかりました! 申し訳ありませんっ!!」
涙目のオーバストにディアマントはフンと鼻を鳴らした。それさえわかっていれば先に魔王の肉体とやらを探したものを。
「で、肉体と精神体ではどちらが強いのだ?」
「うーん、一概にこうとは言えませんが……普通は半々くらいに力を分けるのではないですか?」
「……」
ディアマントは唇を尖らせ思案した。魔王城に奇襲をかけたまでは良かったが、ついに魔王ファルシュを玉座から引き摺り下ろすことはかなわなかったのだ。魔法の障壁、吹雪と炎、ファルシュの術に遮られ剣の切っ先が掠ることもなく終わった。それどころか事もなげに払われた腕の一振りで壁まで吹き飛ばされ――いや、これ以上思い出すのはやめておこう。ともかく魂と肉体が揃えば魔王は更に力を増すということだ。
「……私はしばらく地上で魔物を狩る。もっと魔力を蓄えなければ父の望みを叶えるに足りん。オーバスト、貴様は魔王の肉体を探せ。見つけたら教えに来い。いいな?」
「えっ!」
まだ何事か喚いている世話係を置き去りにディアマントは羽を広げた。と言っても物質的な翼があるわけではなく、光の粒が寄り集まって揚力を生み出しているにすぎない。この地上は天界と勝手が違い、常に肉体をまとっていなければならないし、羽がなければ飛ぶこともできず面倒だ。
父からは魔王が消えるまで帰郷してはならぬと言いつけられている。しかもディアマントの他に数名の勇者を用意したなどと嬉しくないことも話していた。これまでの歴史では、唯一の魔王に唯一の勇者が挑む、それが定石であったのに。
(一体何をお考えなのか)
父はディアマントに魔王を滅ぼせと告げた以外、黙して語らなかった。オーバストによれば妹のウェヌスもお告げの女神として大陸へ遣わされているのだとか。
(……あれはどんな勇者についたのだろう)
信仰深い敬虔な若者であれば良いが、人間の中には度し難い狼藉者も混じっていると聞く。力がすべて、武勲を立てて金と女を得ることにのみ喜びを見出す下賤の輩。そんな男が万に一つも魔王を倒し、勇者として父に認められるようなことになったら。
おぞましい、それは回避すべき事態であった。
(いずれにせよ、魔王討伐は私が成し遂げる)
赤黒く燃える空を飛びながら大剣を振り、柄の感触を確かめ直す。
初めての大地、初めての父の頼み。
戦い、勝利し、己の強さを知らしめるにはいい機会だ。魔王も他の勇者候補もこの手で叩き潰してくれる。
地響きに似た振動にイデアールは顔を上げた。すぐ上階の魔王の間に誰かが侵入したらしい。何者だ、と警戒しつつ足を向ければ同じく様子を窺いに来た黒いドレスの女と鉢合わせた。
ゲシュタルト――ここ魔王城に棲みつく高位魔族のひとりである。この女は父ファルシュの後釜を狙っているのだ。決して隙を見せてはならない。
『勇者は……勇者はどこだ……』
闇の中にぽっかり浮かぶ背の高い玉座。クリスタルでできた肘掛や背凭れには幾つもの魔法石が埋められ、今なお王の身を守っていた。あそこに坐する資格を得た者は強大な力を手に入れられるとゲシュタルトは考えているようだ。誰の入れ知恵かは知らないが。
百年前、父ファルシュはイデアールにその肉体を譲り渡した。以来少しずつ正気を失い、今では狂った亡霊と成り果てている。先代勇者アンザーツが父を屠り、このような姿に変えてしまったのだ。敗北を喫した魔王は一度表舞台から退いた。そうして人間たちには滅びたものと思われた。
だが父はまだ生きている。精神だけになってもなお、魔族の頂点に君臨していた。
『勇者はどこだ……!』
イデアールはかつかつ足音を響かせ玉座に近づいた。誰かの立ち入った痕跡はあるが、気配の主はもういない。普通の人間も、普通の魔物も、この部屋には入ることすらできないはずだ。何か特別な力を持った者が父の元へやって来たのだ。今後は結界を強化する必要がありそうである。
「父上。ここで何があったのです?」
『勇者は……。どこだ、勇者は……』
「父上!」
「フフッ……聞いたところで何もわからないんじゃない? 魔王のくせにぼけちゃってるんですもの」
扉の外でゲシュタルトが長い緑の髪を払った。挑発的な物言いに火球のひとつもぶつけてやりたくなるが、ここで争うのは上策でない。魔王城にはもうひとり魔王の座を狙っている男がいる。深手でも負おうものならすぐさま飛んできて我々にとどめを刺すだろう。
「可哀想な魔王、勇者憎しで忘れられないんだわ!」
あはははは、と狂気じみた笑いを残しゲシュタルトは踵を返した。侵入者の情報が得られないとわかって興味を失ったようである。
あの女は元は人間の僧侶だった。それもアンザーツが連れていた仲間のひとりだったはずだ。何故ゲシュタルトが魔族として生き延びているのかイデアールには知る由もない。ただ父をこんな風に貶めた者のひとりとして、いつか始末してやると心に決めてある。
『勇者はどこだ……。勇者は……』
「父上」
侵入者が誰だったのかはわからずじまいだが、魔王を殺そうとする誰かなど勇者以外には考えられなかった。人間たちもいよいよ反撃を開始したということか。
「父上、勇者は必ず私が討ってみせます……!」
亡霊は応えない。ただ何度も、無意味なほどに何度も同じ問いを繰り返す。
『……勇者はどこだ……』
イデアールは既に魔王としてのファルシュを諦めていた。今の父に魔物全体をまとめるような統率力はない。
百年耐えた。百年かけて魔獣の長や魔虫の長を傘下に引き入れ、眷属らを組織化してきた。それもこれも人間たちに思い知らせてやるためだ。大地は貴様らのためだけにあるのではないと。
「そこで見守っていてください、父上。悲願は私が受け継ぎます……!」