ベルクの旅立ち
頭をガツンとやられたような、味わったのはそんな衝撃だった。何かキラキラした風が店に舞い込んできたなと振り返ったら、窓辺に女神様が浮いていた。
おそろしく整った顔、黄金と見紛う長い髪、新雪のごとき柔肌。そんな容貌の女が惜しげもなく眩い光を放っていたら、誰もが天女と思うだろう。カウンター席の隣で自作の餡かけパスタを食べていた幼馴染も突然のことに腰を抜かしていた。
「勇者ベルク、あなたに旅立ちのときが訪れました」
言葉の意味は右から左へいともあっさり抜け落ちる。琴を鳴らしたより一段涼やかな声音に聞き惚れぼうっとしてしまったからだ。
ベルクはあまり妙齢の婦人と縁がない。高貴な血を引いているはずなのに、獣臭いだの成長に伴ってゴリラ化しているだの好き放題言われてバイキン扱いされている。半径二メートル以内にうら若い女性がいること自体稀だった。そういうわけで反応が遅れてしまった。
女神は律儀に返答を待っていたようだが、待てど暮らせど何も言わないこちらに焦れて困った顔を友人に向けた。人外の女と目が合うとノーティッツは正気に返ったらしい。「お前が話しかけられてるんだぞ!」とばかりに二の腕を小突いてくる。停止していたベルクの思考も鈍い痛みにようやく動き出した。
「あー、えっと」
「もう一度言います。勇者ベルク、あなたが魔王を倒すべく旅立つ日が巡ってきました。私は女神としてそれを告げに来たのです」
「……ゆっ?」
勇者?誰が?
頭の中でクエスチョンマークが踊る。意図を把握できず何度か女神のお告げを反芻したが、それでも上手く飲み込めなかった。何か勘違いしてるんじゃないのか、この女。
「そりゃまあ確かに城じゃ今『来たれ、次代の勇者よ!』とかなんとかやってっけど……まさか俺にもそれ参加しろってこと?」
ベルクはカウンターに片肘をつき、足を組み直して女神と向き合う。聖なるものと対峙するには崩れ切った姿勢だが、生憎と敬虔なる信仰心なぞ持ち合わせていない。というか冷静に考えてみれば、下町の酒場に降臨する女神なぞ怪しすぎることこの上なかった。まだ店を開けるほど遅い時間帯ではないが、来る場所を間違えている感は否めない。
「そもそも俺が勇者なワケねーだろ。この国の名前わかってんのか?」
「兵士の国ですね? ええ、勿論承知しております」
「勇者って勇者の国にいるんだろ?」
「……私が見出したのはあなたなのです。さあ、天啓に従い魔王を倒す旅に出るのです!」
今の間はなんだと突っ込もうとしてやめた。なんだかあまりにも胡散臭い。野性の勘がそう告げている。君子危うきに近寄らずと言うし、厄介事には首を突っ込まない方が身のためだ。
「よくわかんねーけど俺帰るわ。ノーティッツ、この姉ちゃんに水でも出してやって。頭冷やした方が良さそうだし」
「えっ!? あ、ああ、うん」
店主の一人息子である幼馴染はしどろもどろに返事を寄越し、自称女神を横目に眺めた。奴の垂れ気味のグリーンアイもじわじわ猜疑心を宿し始めている。
「あ、あの?勇者ベルク?」
じゃあなという別れの挨拶と共に店を出て、何事もなかったかのようベルクは裏道を歩き出した。何だったのだ、あの女。前触れもなく現れたかと思ったらふわふわした金粉を撒き散らし、人を勇者ベルクだなどと。あれか?正体は辺境の国から逃げてきた魔法使いとかか?隣国はあんなアブナイ姉ちゃんのウロウロしているヤバい国なのか?
小路を抜けて広場に出れば王城へ続く上り坂が始まる。幼少時から既に通い慣れた道だった。どうあっても城を抜け出すベルクに根負けした父が「行くなら堂々と行け」と正門の使用許可をくれた七つの頃から。
「おーい帰ったぞ。開けてくれー」
門番に声をかけると当直の青年兵が「今日はお早いお帰りっすね!」と気さくに笑いかけてくる。お互い慣れたものだった。
ベルクはこの城の主、トローン四世の実子である。庶民派と言うには少々庶民の色に染まりすぎているけれど、正真正銘の王子様だ。ただその生まれに似つかわしくなく、酒と油の匂いで充満した下町を好むというだけで。
王族が下々の者に馴染みすぎるのはどうなのかという意見に対しては、ベルクの優秀な兄姉たちが「末っ子なんだし好きにさせたら?」と口を揃えた。町の人間も「そう言えばあいつ王族だったっけ」と尋ねられるまで忘れている始末である。つまりベルクは、自由かつ気楽な環境で伸び伸びと暮らしてきたのだ。――今日この日までは。
「はー、なんか遊び損ねたな。久々に兵士長でもからかってくるか」
王城の一角にある自室へ戻るとベルクは壁がけの剣の中から良さそうなものを探した。変な女に絡まれたせいでノーティッツの手料理は食べそびれるし、ついていない。幼馴染の作るB級グルメが自分は結構好きなのに。こんなときは気の済むまで剣を振り回して、さっさとストレス解消しなければ。
「勇者ベルク!何故私のお告げに耳を貸さないのです!」
「うおおッ!?」
突如響き渡った怒声に驚き振り向けば、背後にはきらきら輝く浮遊物体に囲まれた例の女が立っていた。一体いつの間に入り込んだのだ。道中誰かがついてくる気配など一切感じなかったのに。
「おま、な、馬鹿か! 普通城の中まで入ってくるか?」
「あなたが女神の話を無視するからでしょう!? いいから早く旅に出るのです!!」
女神を名乗る女はそう言うや否や勝手に荷物をまとめ始めた。おいおいと眉を引き攣らせ、ベルクは彼女の腕を掴む。
「あのな? 俺、了承してねえよな? 勇者やるっていっぺんも言ってねえよな?」
「あなたが旅立つことはもう決定です。勇者として名乗りを上げ、魔王を倒す決意を表明なさい!」
「だから勇者の国にもう勇者がいるっつってんだろ! 仮にも兵士の国で王子やってる俺が勇者なんか名乗ろうもんなら国際問題になんだろうが!! 無理、無理です! むーりーです!!」
女神の耳を引っ掴んで声を大にして叫んでみるが、残念ながら理解はしてもらえなかったらしい。「ではこの国の王に勇者と名乗る許可を与えてもらえば良いのです」などと女は斜め上の助言をしてくる。
阿呆かこいつ。いくら脳まで筋肉でできている親父とて、流石にそんな愚行を許しはしまい。
「……わーったよ。そんなに言うなら聞いてきてやるよ。けどそれで駄目だって言われたらそっちももう諦めろよ? あとウチの親父、神様とかそういうの大っ嫌いだからついて来んな。この部屋で待て。いいな?」
指差し確認の後、ベルクは女神を置き去りに謁見の間へ赴いた。藪から棒に「あのさあ、俺が勇者として旅に出るのってアリだと思う?」と尋ねると、父トローンは「大アリじゃ! どうした、ついにお前もやる気になったのか?」と諸手を上げて喜んだ。こちらも十分斜め上だった。
兵士の国が勇者の一般公募を始めたのは一ヶ月ほど前のことだ。辺境の国が魔物に襲われ壊滅寸前だというのに、勇者の国が勇者の子孫を出し惜しみするので父は痺れを切らしたのだ。
勇者に対する神様のご加護とやらで弱い魔物しか出現せず、何の労もなく毎年豊作――そんな恵まれた隣国への対抗意識もあるだろう。自国出身の新しい勇者に魔王を討伐させ、三国のリーダー的立場を取ろうと狙っているのではないか。そう分析したのは皿洗い中のノーティッツだった。王はもとより兵士の国には「勇者の国コンプレックス」を持つ国民が多い。隣の大国とは仲良くできないとよく言うが、本当にその通りだ。負けん気の強い民衆は神様などに頼らず生きていることを誇りにしている。いつか勇者の国なんぞ追い抜いてやるぜと心の内では息まいているのである。
「つまりごく潰し王子のお前が勇者として旅立ちたいなんて話は渡りに船だったんだ、ベルク」
幼馴染は手際良くグラスを磨きつつ、カウンターに伏せたベルクに言い聞かせた。ついでに隣の座席にポンと置かれた大きな荷物をチラ見して、わざとらしい溜め息を吐く。
「で、資格試験はどうしたんだ? どうせ受かったんだろ?」
「受かったに決まってんだろチクショウ! 試験官うちの兵士長だぞ! 俺が七歳のときボコボコにして泣かせた兵士長だぞ! んなもん受かるに決まってんだろ!!」
どうして自分は本格的に勇者認定を受けているのだろう。免許など貰ってどうするのだ。別に旅に出るのが嫌なわけではないけれど、訳のわからぬ女のせいで孤独に追い出されるのはあまりに辛い。
実はベルクはノーティッツを誘うつもりだった。偶然とはいえ同時に女神に遭遇したのだし、何より彼は魔法が使える。頭も切れるし飯も美味い。連れて行くにはまたとない良物件なのだ。
あちらの脳内でも同行の可能性はちらついているに違いない。その証拠に先程からノーティッツは一度もベルクと目を合わせない。一心不乱に食器類を磨き続けてタイミングを計らせまいとしている。
しかしこちらも「一緒に来てくれないか」などとは頼み難かった。後から「ベルクに泣きつかれて仕方なくね」と吹聴されるかもしれないし、「やだー、ノーティッツ君やさしー」などと幼馴染ばかりちやほやされるのは目に見えている。「一緒に来い」と命令するのも「それが人に物を頼む態度か?」と説教される恐れがあった。ならばここはやはり当然のように一緒に来るものとして会話を進めるのが得策か。
――などと考えていたら、ノーティッツがぽそりと「一緒に行ってやろうか?」と言い出した。これは想定していないパターンだ。てっきり向こうにその気はないと思っていたのに。
「え?いいのか?」
「……あー、お前ってたまに常識外れで滅茶苦茶なとこあるからさ。王族の名前に傷がつかないか心配だからついてってやろうかなって。うん。お前もその方がいいだろう?」
微妙にカチンとくる言い回しに喜びかけていた思考が止まる。あれ?今こいつ俺のこと馬鹿にしたか?というかしたな?不敬罪で訴えちまうぞ?
「いや、別に俺だって一般常識くらい備わってるけど?」
「いやいや、だってお前って育ち方がまず普通じゃないっていうか」
「いやいやいや、ちゃんとひとりで旅の支度もできたわけだし、お前に屈折した心配されるほどじゃないけどな?」
「いやいやいやいや、実はあの後ぼくのところにもう一度女神さまが来て、心配だからついてってあげてほしいってゴリ押しされてね」
「いやいやいやいやいや」
「いやでも、ほんと、マジで、ほら、ちょっとお前も厨房の裏見てみろよ……」
促され通用口から酒場の奥を覗いてみると、明らかに昨日まではなかった光沢が生まれていた。きらきらふわふわの残骸であった。
いつも明るいノーティッツが珍しく泣きそうな顔をしている。曰く、「肉も魚もやられた……」だそうだ。あのおつむの軽そうな女神に毎日説得に来られた場合、どれほどの損害が出るかは計り知れない。
ベルクは幼馴染の肩を叩いてこう言った。
「――旅はすべてを忘れさせてくれるって言うぜ」