イデアールの刺客
とてとてと可愛らしい足音がしたかと思うと、「それ」はぴょこんとイデアールの膝に飛びついた。顔を見ずとも誰かはわかる。魔王城を棲み処とする小鬼の娘ユーニだった。
辺境の国を攻め始めて以来、イデアールは居城を留守にすることが増えた。流石に名のある魔導師たちを数多く揃えているだけあって、まだあの国も都を滅ぼすには至っていない。古代遺跡群のある荒地を手中にした時点で目的の大半は達しているが、さっさと陥落させてしまいたかった。
魔物たちを軍勢として統率する力があるのは魔王の血を引くイデアールだけだ。人間たちと戦おうと決めたときから覚悟はしていたが、やはり忙しい。実力はあっても監視と指導が必要な幼い集団は珍しくなく、悩みの種は尽きなかった。同じ敵に向かう者同士、手を取り合えば地上から人という種を一掃することも不可能ではないと言うのに。
「イデアールさま、つかれてるの?」
舌足らずな発音でユーニが問う。玉座を摸した椅子に腰かけたイデアールの足元で少女は心配そうにこちらを見上げた。薄紅色の大きな瞳が揺れている。その震えを和らげるよう、できるだけ優しく彼女の短い髪を撫でた。
「あのね、ボクね、イデアールさまにお話したいことがあったの。でもイデアールさま、つかれてるならやめておこうかなあ」
「話? なんだ?」
ユーニはふるふる首を振って小さな掌で口を塞いだ。何も話そうとしないので「こら」と声を低くして叱る。魔王城で起きた異変ならどんな些細なことでも知っておきたい。
「ふえーん、おこらないで! あのね、えっとね」
額の角に手をやりながらうんうん悩んで言葉を選ぶ幼い少女を見ていると、張り詰めた気持ちも自然に緩んでくる。
ユーニは弱い魔物だ。本来この魔王城に棲みつけるような高位の存在ではないのだが、何故かイデアールが生まれたときからここにいる。おそらく父ファルシュが呼んだか連れてきたかのどちらかなのだが、ユーニはその頃のことをあまり覚えていないらしい。それに、出会った頃の彼女はこうして話すこともままならなかった。
戯れに口をきくための魔力を与えてやってから、ユーニはイデアールによく懐いている。配下に指示を出すときは流石に姿を隠させるが、それ以外の時間なら膝に乗ろうが足に掴まろうが好きにさせていた。付き合いの長さゆえか、まったく警戒しないでいいのが良かった。この城にはいつ自分の寝首を掻きに来てもおかしくない半人半魔がふたりもいる。
暇なとき、彼女はいつも城内をウロウロしている。それでイデアールの元へ予期せぬ情報を持ち込んでくることもしばしばだった。平然と魔王の間に居続けることができるのも彼女だけだった。父ファルシュは実の息子である己でさえ攻撃してくることもあるのに。
「あのね、ハルムロースのにおいがしない気がするの」
「ハルムロースの?」
「お城にはいるみたいなんだけど、けむりのでる草をすってたり、カードであそんでたり、ヘンなんだよ」
「……それは確かに妙だな」
ふむ、とイデアールは思考を巡らす。煙の出る草というのは人間の嗜好品だろう。カード遊びに興じるよりは黴臭い書庫に籠りきりの方がハルムロースらしい気もする。何の実益も伴わない享楽を好むのは、どちらかと言えば彼の連れている小間使いのイメージだ。
「いつからかわかるか?」
「んっと……ちゃんとわかんない。でも、このごろずーっと!」
表情には出さずに驚く。ごくたまにあの男が人間の街へ買いつけに行っているのは知っていたが、今まではすべて日帰りだったはずだ。
この城では長いこと三つ巴状態が続いてきた。魔王の亡霊が消えるまでは付け入る隙など見せぬものと思っていたが。
「あ! おつきさまがまんまるい日はいたよ! ……前の前のだけど」
ユーニの口ぶりから考えるにハルムロースは一ヶ月以上ここへ戻っていないのでなかろうか。それだけの時間魔王城を離れるに値する理由があるなら、それが何であれ知っておきたい。更に言えば、余裕ぶってブラブラしているライバルをひとり消してしまう絶好の機会である。魔王城で一戦交えればそれこそ直後をゲシュタルトに狙われかねないが、遠くに出かけてくれているなら好都合だ。
「クヴァドラート、いるか」
イデアールは腹心の部下に呼びかけた。何もない暗闇が一瞬鈍く光り、全身を甲冑で固めた魔剣士が姿を見せる。
「ここに」
恭しく跪く魔剣士を一瞥すると、イデアールは淡々とした口調で「ハルムロースを殺せ」と命じた。
「始末する前に奴が何を狙って動いていたかも探っておくんだ」
「御意」
数秒後にはクヴァドラートはフロアから姿を消していた。
特殊な力を持つ男だ。彼ならハルムロースを見つけ出すことも、追い詰め屠ることもできるだろう。
「イデアールさま、ボク役に立った?」
「ああ、いいことを教えてもらった。礼を言う」
「……!!」
大喜びで部屋を跳ね回るユーニを眺め、イデアールは片眉を下げた。微笑ましいとは多分こういうことを言うのだろう。
「わあい、わあい、またくるね!」
とてとてと足音が遠ざかって行く。少女が見えなくなる前に、イデアールは護身用の防御魔法を唱えておいた。
(人間は皆滅ぼす。父や同胞のためにも)
勇者を退け、魔物のための国を作るのだ。
そうすればいつかユーニもこの城の外へ連れ出してやれるかもしれない。
――今誰か出て行った。目を閉じたままゲシュタルトは遠い気配を探り当てる。
あれは魔剣士クヴァドラートか。であればついにイデアールも動いたということだ。
薄暗い部屋の奥、毛並みの良い魔獣をソファ代わりにまどろんでいたゲシュタルトは気だるげに身を起こした。
(ハルムロースを殺すつもりなのね)
あの男が魔王城を留守にしているのは己も気がついていた。イデアールとは大して絡んでいなかったようだが、あれでハルムロースはゲシュタルトにはしょっちゅう顔を見せに来ていたのである。戯れの付き合いでもピタリと音沙汰なくなれば不審にも思おう。ハルムロースは外で何かを見出したのだ。
(……勇者に関わる何かかしら)
ゲシュタルトは血の色の瞳をきつく吊り上げた。過去を振り返ることは苦痛でしかない。だと言うのに未だ思い出はこの心を捕らえて離さない。
アンザーツと旅したあの頃と同じような日々を、今は別の誰かが過ごしているのだ。それは無性に腹立たしい、許し難い行為に思えた。己が感じていた幸せを、こんなことになる前に与えられていた幸福を、その誰かに奪われている気さえする。
愛していた。自分は確かに勇者と呼ばれた男を心から慕っていた。それが今ではどうだ。すべてに裏切られ、憎しみだけを糧に魔族として生き長らえている。とんだ笑い話だ。
(いいわ、ハルムロースが何を見つけたか、私も見てやろうじゃない)
ゲシュタルトはくすりと口角を上げた。かつて極上の美貌と謳われたそのままの顔で。
幸せに老いて、幸せに死にたかった。だがそれは勇者のためにかなわなかったのだ。ならば己が勇者に復讐したとして、誰が責められるものだろう。
否、誰にも。たとえここにかつての仲間がいたとしても、責めることなどできはしない。




