アラインの旅立ち
「それじゃあ行ってきます、父さん、母さん」
白っぽい墓石の前に跪いたアラインが亡き両親に出立の言葉を告げると、遠巻きにその背を見守っていた群衆がわあっと歓声を上げた。決して狭くはない洞窟の中に密集する人、人、人。今日はどれくらい民や貴族たちが集まっているのだろう。代々の勇者の骨が納められたここ――通称「勇者の墓」では、今年十六歳になったアラインの旅立ちを見送る壮行会が催されていた。主催は「勇者の国」の現国王、シャインバール二十三世である。いかにも王様といった白髭をたくわえる初老の男の隣には、聡明可憐で知られる王女イヴォンヌの姿もあった。ふたりの瞳は紅いマントを翻す英雄の卵を映し出している。
まだ幼さは残るものの凛とした面を上げ、アラインは立ち上がった。踵を返し、黒髪をなびかせ群衆に微笑む。勇者と呼ばれる存在に対し驚くほど熱狂的な国民は、それだけで拍手喝采だ。
アライン・フィンスターの先祖は勇者である。その先祖も、その先祖も、その先祖も。詳細に残された家系図には幾人もの偉人の名が連なっている。「勇者」の称号を持つ者――邪悪の根源たる「魔王」に打ち勝つことのできる人間は、百年に一度、必ず同じ家の男から生まれた。つまりアラインは勇者のサラブレッドなのだ。王侯貴族も平民も、己に寄せる期待は大きかった。
「よいなアライン。辺境の都が魔物の軍勢に襲われ早一年だ。ついにおぬしにも旅立ちの日が訪れた。……敵は魔王ファルシュの名を掲げておる。百年前、勇者アンザーツが倒したはずの魔王が甦ったと言うのだ」
「はい」
厳かに頷いてアラインは青い瞳に鋭い眼光を灯した。魔王ファルシュ。先代勇者の冒険譚に登場する魔王城の主である。勇者の伝説はそれこそ一夜で語り尽くせぬほどあるが、一度倒された魔王が復活したなんて話は聞いた覚えがない。緊張を誤魔化すようにごくりと息を飲む。
「伝説に従い、勇者の武具を集め、魔王城を目指すのじゃ。そなたの凱旋を待っておるぞ!」
「お任せください。必ず僕が魔王を打ち滅ぼしてまいります!」
わああああ、と鼓膜が痛むほどの声援を受けながらアラインは出口に向かい暗い通路を歩み出した。通れるかなと不安だったが、一歩進むごとに見物客が足を引っ込め花道を作ってくれる。人波から脱出するまでこれでもかというほど揉みくちゃにされたけれど、強靭な外面という名の笑顔を貼りつけ耐え凌いだ。我慢だ、我慢。旅に出さえすればしばしこんなセレモニーとはおさらばなのだ。
アラインは「頑張ってくるよ!」「応援していてくれ!」と人々に手を振り、時折握手を交わした。前方の上流階級ゾーンを抜けると勇者饅頭やらレベルアップりんご飴やらこじつけすぎるお祭りフードを手にした人間が増えてくる。アンザーツ炙りイカのジューシーで香ばしい匂いに胃袋を刺激され、苛々しながらやっとの思いで外へ出た。まったく、勇者とイカに何の関連性があると言うのだ。
「お、やっと旅立ちの儀式終わったんすか?毎度お疲れさんです」
呑気に屋台を物色しながら待っていた筋肉質の従者がさも面白そうに笑うので、アラインは対民衆用の笑顔のまま「こいつ……」と眉を吊り上げた。
――遡ること約一ヶ月、アラインの従者であり指南役である戦士マハト・ショースはシャインバール二十三世に呼び出され王宮まで出向いていた。面会の場は謁見の間ではなく人払いされた王の私室。それも時間は真夜中だ。一体何事だろうと訝ったが、王は青ざめた顔でアラインについて尋ねるだけだった。
「マハト、そなたアラインをどう思う?あれはまだ若すぎる。旅に出すのは早計なのではなかろうか……」
なんだそんなことだったか、とマハトは胸を撫で下ろした。主人とふたりで王様の声が聞き取りにくいだの近頃勇者イベントが多すぎるだの不平を零していたのが露見したかと焦って損をした。
「若いのは若いですけど、アンザーツだって十代で都を発ったんでしょう?アライン様は剣筋も良いし、魔法も使えるし、そんなに不安に感じることはないと思いますがね」
マハトの返答に国王は「そう……そうか」と小さく声を漏らす。大陸中で一番大きな国の王なのに、シャインバール二十三世は時々妙に弱気になった。それさえなければまあまあ良い王様だと思うのだが。
「自分もついて行きますし、旅先で仲間を増やすつもりですし、どうぞご安心を。きっとアライン様と一緒に魔王の奴を倒して帰りますよ!」
「ああ、ああ、頼むぞ。くれぐれもな」
国王は錫杖を取り落とし、震える両手でマハトの右手を握り締めた。魔王という強大な敵に立ち向かうのだから怖いのはわかるが、過去敗北した勇者はいない。尋常でない量の汗を掻く君主を一瞥し、マハトは眉をひそめた。本当に怖がりすぎだ。それとも王をここまで怯えさせる別の要因があるのだろうか。
「……何かあったんですか?」
マハトの問いに国王は息を止めた。カタカタ震える皺だらけの指を引っ込め、実はと語り出す。
「辺境の国を襲った魔物の大群は、これまでと違い統率された幾つかの軍隊じゃったと言う……。かの国は都と村をふたつ残して他はすべて滅ぼされたそうじゃ。未だかつて魔物らがそんな攻め込み方をしてきたことはない……」
「ほ、滅ぼされた?あの魔法大国がですか?」
マハトはギョッと目を剥いた。勇者の国、兵士の国、辺境の国、そして魔の国。これら四つが三日月大陸を分ける国である。魔の国に隣接する辺境の国は、他の追随を許さぬ優れた魔法技術を用いて何度も魔物たちを撃退してきたはずだった。
「都が落ちるのも時間の問題かもしれん、そう辺境の王が助けを求めてきておる。兵士の国は独自に勇者を募り、辺境の都へ派遣すると言っておったよ。……アラインは勇者アンザーツだけでなく、聖女ゲシュタルトや大賢者ヒルンヒルトの血をも引く人間じゃ。万が一にも負けることはないと信じておるが……」
もう少し強くなってから送り出してやりたかった。国王は力なく呟いた。
ばらばらに縄張りを主張してきた魔物同士が手を組み始めた――それがどれほどの脅威であるか、わからぬマハトではない。アラインの旅はけっして易しいものではないぞと王は伝えたかったのだ。
「くれぐれも頼む。勇者を守り、導いてやってくれ」
観光名所「勇者の墓」で知られる町は、今日はどこへ行っても人でごった返していた。勇者の旅立ち、言わば伝説の始まりをこの目にできる機会など一生に一度しかない。そう考えた旅人たちが各地から押し寄せているのだろう。大体の旅の支度は終わっているので後は腹ごしらえをするだけなのだが、アラインはなかなか空いた食堂を見つけられなかった。セレモニーはとっくに終わっているのに、道行く人々がアラインを呼び止めて時間を浪費させる。
にこにこ愛想を振り撒きつつアラインは胸中で嘆息した。偉大なる先代勇者アンザーツもこんな苦労をしたのだろうか。それともここまで勇者勇者させられているのは自分だけか。彼のような伝説中の伝説の後を継ぐのはやはり並大抵のことでないらしい。
普通この国で「勇者」というと、アンザーツのことを指す。彼は歴代勇者の中でも特に際立った存在だ。まず仲間が豪華である。マハトの曽祖父に当たるムスケルは国一番の戦士だし、僧侶ゲシュタルトは森に隠された神殿を守る聖女だった。そしてあらゆる魔法を使いこなし、無尽蔵の魔力を有していたという大賢者ヒルンヒルト。この三人の供を連れ、アンザーツは魔王ファルシュを打ち倒した。だが彼の真の功績は魔王を退けたことにあるのではない。死する魔王が最後の力を振り絞り発動させるという天変地異の呪い、彼はそれをも封じたのだ。
百年に一度、魔王の消滅とともに大陸は巨大地震に見舞われ、その度にどの国も甚大な被害を出してきた。アンザーツこそ史上最高の勇者だと讃えられるのも頷ける。アライン自身、重圧の中に置かれてなお彼に憧れていた。
そう、憧れているのだ。アンザーツのような勇者になりたい。魔物たちを圧倒するだけなく、世界を更なる平和にいざなう、そんな本物の英雄に。永遠に語り継がれる伝説に。
早く旅に出たくてずっとウズウズしていた。見せ物でしかない祭典や壮行会などさっさと終わってしまえと。
「アライン様、席取れたっすよ!」
呼び声に気付いて振り向くと、表通りから外れた店の入り口でマハトが手招きしているのが見えた。背が高く体格も良い戦士は人並みの中でもよく目立つ。食事が取れそうだという定食屋は、夕方からは酒場も営んでいるようだった。
なかなかわかっているじゃないかとアラインはひっそり頬を緩ませる。アンザーツの旅も都の酒場から始まったのだ。戦士ムスケルと意気投合して、彼を連れ合いにして。
どきどきと跳ねる心臓を抑えながらアラインは店の扉を開けた。
十六年間待ち続けた冒険の旅が、今幕を開けたのだ。