セルフィーユ姫の憂鬱
コバルト短編小説新人賞で、選外だった作品です
セルフィーユという香草がある。鮮やかな緑色の草で、サラダやケーキの上に添えられている事が多い。つまりは彩り。要は、ただのおまけ。そしてセルフィーユとは、私の呼び名でもある。
「――花を、もらってみたいわ」
「セラフィーヌ様、花……でございますか?」
侍女のココが驚いたような顔で私を見る。無理もない。黙りこくっていたと思えば、いきなりそんな事を言い出したのだ。何を言うのかと心配にもなるだろう。私は
「気にしないで」
と、元気に見えるような笑顔をつくった。
この城の中庭は、私のお気に入りの場所だ。王族しか入れないここで、ただ花を眺める。それが私の何よりの慰めだった。私はぼんやりと昼間の事を思い出す。父王の冷たい眼差し。突き放すような物言い。それを思い返すと、私はまた憂鬱になった。
(お父様のお役に立ちたかっただけなのに)
財務大臣による会計報告は、いつもピリピリとした空気が漂う。生真面目な大臣と、浪費家のお父様とは、いつも口論が絶えない。お父様は、お母様が亡くなってから無駄遣いがとみに増えた。ギスギスした雰囲気を何とか出来ないかと、考えた末に私が編み出した戦法は、会計報告の時に臨席して、おどけた振る舞いで空気を和ませるといったものだ。
「真に姫は、お茶目でいらっしゃる」
今まで眉間に皺を寄せていた財務大臣が、ふいに表情をゆるめた。しめた、と私はさらに無邪気に明るく振る舞ってみせる。
「私はお父様のお側に居て、皆様を楽しませる事が出来たなら、何より嬉しいのですわ」
その時、ぴしりと鞭のようにお父様の言葉が私に飛んできた。
「お前は余計な事をせずともよい。下がれ」
私はなんとか取り繕おうとしたけれど、それは徒労に終わる。
「……失礼しますわ、お父様」
「ああ」
執務室を出たときも、お父様は物憂げに椅子に座ってこちらにちらりと視線をよこしたきりだった。後ろに侍女のココを従え、私は無言でこの中庭へとやってきた。こんな時は、私はあの噂を思い出さずにはいられない。
「セルフィーユ姫は王の胤ではないというぞ」
私のお母様で、第二妃だったリュシエンヌは、大貴族オーヴェルニュ伯爵の後妻だった。伯爵の葬儀でお母様を見初めたお父様は、喪が明けるのを待たずに無理矢理お母様を第二妃にしてしまった、そんな過去がある。だから予定より早く生まれて来た私に、貴族達は噂しあったという。ほら、喪が明けるのを待たない所為で、王は昔の夫の子供を我が子として育てなくてはならなくなったよ――と。
「……花は、いいわよね。咲いているだけで皆から愛されるんですもの」
無邪気に揺れる花を眺めていると、なぜだか悲しくなり、そんな言葉が口をついて出てしまう。私は、父だけではなく、兄とも折り合いが悪い。
折りしも季節は春。満開の薔薇の向こうには、チューリップが色とりどりの花弁を揺らしている。そしてこの時期は別名、恋呼び月とも言う。想いを打ち明ける者が急増するせいだ。それは、我が国の故事に由来する。
姫に恋した一介の騎士が、あきらめきれずに毎日姫に一輪の薔薇を贈り続けた。薔薇の持つ言葉に自分の気持ちを託したのだ。一途に花をくれる贈り主についに姫は興味を抱くようになり、出会った二人は紆余曲折の後、結ばれて大団円を迎えるという、この国の人間なら誰でも知っている話だ。バルコニーで騎士と姫が永遠の愛を誓い合っている挿絵を、昔読んだ絵本で見た覚えがある。その話から、この国には花を意中の相手に送り、花の持つ意味に託して自分の気持ちを相手に伝えるという風習がある。私が初めてその話を知ったのは、ほんの幼い頃。数年前に他界したお母様も、まだその頃は存命だった。
「ねえお母様、私も大きくなったら、こんなふうにお花をもらってみたいわ」
そんな風に、胸をときめかせながらお母様に話しかけたのを覚えている。
「ええ、きっとセラフィーヌにもお花をくれる人があらわれますよ」
お母様はいわゆる美人ではなかったけれど、優しくて可愛らしくて、私はそんなお母様が大好きだった。月日は過ぎ、私は花を捧げられてもおかしくない年齢になったが、お母様の言葉はまだ本当になってはいない。
「私に、花をくれる方なんているのかしら」
私はうつむいて、ぽつりとつぶやいた。こんな父にも兄にも愛されないような自分を、好きになってくれる人なんているだろうか。
「花をもらえるって、とても幸せな事よね」
それは今の自分には、奇跡のような出来事に感じる。花を通して、美しい言葉を誰かにもらう。誰かが自分を好きだと思ってくれている。それはなんて、幸せな事なんだろう。
「ふうん、セラが、花ねえ」
いきなり、真後ろから聞き慣れた声が降ってきた。私は凍り付き、恐る恐る後ろを振り向いた。
「……ルイ」
私をセラという愛称で呼び捨てる人間は限られている。中でも、肉親以外の男でそう呼ぶのは、彼しかいない。オーヴェルニュ伯爵の先妻の息子であり、現オーヴェルニュ伯であるルイ・ド・オーヴェルニュ。
ルイは仕立て下ろしたばかりとみられる精緻な刺繍をふんだんにあしらったジャケットを着て、意味ありげな笑顔で私を見下ろしていた。濃い金の髪と深い青の目、そしてすらりと高い身長は、この国で尊ばれる美質そのままだ。顔立ちだってあきれるほどに整っている。金茶の髪と榛色の目で、背も高くない私は、ほんの少し、それが羨ましい。
「貴方、この庭は王族しか入れないのよ」
「オーヴェルニュ家は、過去何人も王族と婚姻関係を結んでいるし、王族とは親戚みたいなものだろう。気にするな」
言いながら、ルイはことわりもせずに、私の脇に腰を下ろす。しかし、いつも距離が近いのはなんとかならないだろうか。ルイのベストのクリスタルボタンが陽光を反射して目を刺してくる。
「……相変わらず派手な服ね」
「そうか? 優雅な美しさが尊ばれる昨今、洒落者でならしたオーヴェルニュ家の男なら、これくらいは普通だ。似合うだろう?」
オーヴェルニュ伯爵家は代々、衣装道楽で有名である。私はため息をついた。
「無駄遣いもいい加減にしなさいな」
「お前はお姫様のくせにけち臭いな。気にするな。衣装代くらい、端金だ」
「そうね。貴方の家は、鉱山があるものね」
オーヴェルニュ伯爵家は、領内に銀山を有する国内屈指の富裕の家柄だ。財力は王家をもしのぐ。他の国は、鉱山を国が一元管理しているところもあるようだが、何年か前にその提案が出たところ、鉱山を有する大貴族達の猛反発を受けて結局立ち消えになってしまった。はあ、と私は再度ため息をつく。ルイは肩をすくめた。
「お前は巷の噂と、ほんとかけ離れてるよな」
「どんな噂かしら?」
聞いてみたが、大体検討はついていた。
「出来のいい兄王子と、彩りのセルフィーユ姫。お茶目で無邪気な姫に、いつも城の人間はあきれたり笑わされたりしてるってさ」
「――そう」
思った通りだ。でもそれでかまわない。お兄様が優秀なのはその通りだし、私は場を和ませるくらいしかできない。あと出来る事といえば――。
「あとお前がいつまでもそんな風だと、結婚にも差し支えるって言われてるぞ。もう少し落ち着かないといい縁談が来ないってさ」
「それは困るわ。羽振りの良い相手と結婚できないと、国の為に援助が見込めないもの」
たいした取り柄のない私が国――もっと言えば王家のために役立てるような事といえば、金持ちと結婚をして夫に援助を希うことくらいだ。そんな事を考えていると、ふと、ルイがあきれたような顔で私を見ているのが目に映った。
「お前は、もう少し結婚に夢を見てもいいんじゃないのか?」
「しょうがないのよ。お金がないんだもの。私より、貴方は自分の結婚の心配をしたら?」
私は十六歳で、ルイは二十二歳。お互い結婚適齢期真っ只中。おまけにルイは大貴族の当主だ。人の事よりまずは自分の心配をすればいいのだ。そんな私の内心もしらぬげに、ルイは話し続けている。
「縁談だって舞い込んでるんじゃないか? お前は姫なわけだし、他国の貴公子達から求婚が降るように来てもおかしくないだろう」
「知らないわ。お父様からは何も聞いてはいないし。どうせお父様は私の結婚なんて興味ないのよ。ねえ、私の噂、知ってるでしょう。私はお父様の娘ではなくて――」
「滅多な事はいうな」
怒ったように言うと、ルイは目をそらした。
「そんなわけない。それは俺がよくわかっている。お前はうちの家系の特徴がない。大体そうだったらお前と俺は兄妹になるだろう」
「……こんな着道楽な兄はごめんだわ」
「俺もこんな現実的すぎる妹はごめんだ。大体、お前には立派な兄君がいるだろう」
その言葉に誘われたように、庭園に一つの影が現われた。先に気づいた私はスカートをつまみ、膝を折った。次いでルイも礼をとる。
「こんな所で二人で何をしているんだ」
木陰から現われて不機嫌そうに私たちに目を向けるのは、王太子アンリ。第一妃の息子で私の兄である。父譲りの白金の髪と薄い青の目は高貴さと冷徹さを醸し出し、仏頂面がそれをいや増す。一言で言えば、繊細な美形。比べて私にはお父様やお兄様の備える美貌や気高い雰囲気がかけらもない事は明白で、それも私が噂を信じる一因になっている。
「お前も、もう十六。いかにオーヴェルニュ伯爵と幼なじみとはいえど、そのように親しげにしては妙な噂が立つと思わないのか」
もう兄妹だという噂があるのに。そう思いながら私は一応
「申し訳ありません」
と俯いてしおらしげに謝ってみせる。
お兄様は私の内心などお見通しのように
「もういい。反省していない謝罪など意味はない。それより、また大臣に道化た振る舞いをしたそうだな。もういい加減にするがいい」
と、冷ややかに言い捨て、ルイを一瞥すると行ってしまった。ルイはふう、と強ばった体をゆるめるように息を吐く。
「お前の兄君は相変わらずだな。しかし、いつもいつも俺とセラがいると、図ったように現われるのはどういうわけだ?」
「……お兄様は、本当にお父様とそっくり」
俯いたまま、私はつぶやいた。お父様もお兄様も私の事なんか興味ないように、いつも冷ややかに一言、二言しか言わないで。
「私が何を思ってそうしたのか、知りもしないくせに」
ふいに目尻にたまってきた涙をルイに見せまいと、私は顔をそらした。私がお父様やお兄様とうまくいっていない事を、ルイは知っている。つまらない同情をされたくはない。
(私はいわゆる可愛くない性格なんでしょうね。こんな顔、見られたくない。早く立ち去ってくれればいいのに)
お父様達が私を愛さないのも無理はない。皆が思うお茶目で無邪気なセルフィーユ姫なんて、本当はいやしないのだ。本当にそんな姫だったら、どんなによかっただろう。
しかし、私の思いとは裏腹にルイは黙って側に立っている。立ち去る気配はない。
「……伊達者のオーヴェルニュ伯爵はお忙しいんじゃないのかしら? いい加減、相手を決めないと、結婚できないわよ」
過去、ルイに恋の噂は幾つかあったようだが、どれも結婚には至っていない。ただでさえ宮廷一の伊達男で通っているルイに、熱い秋波を送る女性は多いと聞く。こんな所で私相手に雑談をしている暇など、彼にはないはずなのだ。ルイは何か言おうとしたようだったが、ココが先に口を開いた。
「ルイ様にはちゃんと思い人がいらっしゃいますわ」
「ルイに、好きな人がいるの? どんな人?」
それは初耳だ。しかも、ココがそれを知っているとは。ルイは嫌な顔をしてココを睨め付けたあと、私から顔を背けた。ココはすました顔で立っている。
「何よ、二人して。私にも教えなさいよ」
「いずれわかることですわ」
「……そうだな。いずれ――」
普段はっきりと物をいうルイにしては、いやに歯切れが悪い。考えあぐねるような顔をした後、ルイは話を誤魔化すように大声を上げた。
「俺の事はさておき、セラはまずは自分の事を考えろ」
「大きなお世話よ。条件のよい縁談がきたらどこへでも嫁ぐわ。放っておいて」
昔は人並みに恋に憧れた時もあったけれど、大きくなり色々な事を知るにつれて夢など抱けなくなってしまった。願うのはこの国に――ひいては王家に利する所へ嫁ぎたいということだけ。しかし私の答えは、ルイには不満だったようだ。面白くなさそうな、そして妙に真剣な顔で、こんな事を言ってきた。
「お前にも、近いうちに花が届く。その時がきたら義務感や使命感なんかじゃなく、ただその相手を好きか嫌いかだけで考えてみろ」
「……何を言っているの?」
ルイを見上げると、なぜか彼は微笑んでいた。何がおかしいのか。馬鹿にされたような気がして、私はむっとしながら踵をかえす。
「いつまでもこんなところで油を売ってはいられないわ。部屋に戻ります」
「ああ。俺も行かなければいけない所がある。じゃあ、またな」
背中にルイの声が飛んできたが、
「うわっ」
どうやら庭木に躓いたらしく、振り向けばルイは痛そうにしゃがみこんでいた。彼は、急ぐと大抵何かにぶつかっている。よくよく不注意な性格なのだろう。
「あれを俗にドジッ子といいいますのよ。真にルイ様は素晴らしい美質をお持ちです」
なぜか満面の笑みでココが私に耳打ちをしてくれる。しかし全く意味がわからない。しかも、その後に小さな紙片にすごい勢いで何か書きつけているのはどういうことなのか。私の目線に気づくと、ココは紙片を懐にしまい込みながら、説明をしてくれる。
「姉達も私と同好の士でありまして、心の琴線に触れたことを報告し合っているのでございます。ネタの書付けは必須事項ですわ」
ココは二人の姉がおり、姉はお父様とアンリお兄様にそれぞれ仕えている。
「同好の士? ネタ?」
「王宮はなにせ心おどるような出来事がたくさんありますから! 語らないと興奮で体がはち切れてしまいそうになるんですもの」
「そ、そう……」
よくわからないけれど、姉妹仲が良いのはいいことだ。身分は侍女であるが、ココの実家はそれなりの貴族である。殆ど道楽と箔付けのために働いているようなものなのだろう。そう判断して、私は話を打ち切った。
そして、次の日から、私にある変化が訪れた――。
いつものように、会議の添え物として精一杯場を和ませ、疲れ切って部屋に戻ろうとしたとき、私はそれを見つけた。
「あら?」
自室の前の廊下に、何かが落ちている。緑の、小さなもの。
「何かしら?」
近くによってよく見ようとすれば、背後からいきなり声をかけられた。
「お前、こんな遠くからよく見えるな。王家は狩猟が得意と言われる理由がわかったぞ」
驚いて後ろを振り返れば、そこにいたのはルイであった。
「何よ、いきなり後ろから声をかけるのはやめてよ! びっくりしたじゃないの!」
「お前が歩いてくるのを見かけたから、驚かせてやろうと、そこの女神像の影にいてな」
「もう二度としないでちょうだい」
いい年をして、何をやっているのか。私は憤慨しながらも、落とし物を確認するため自室に向かう。はじめは手巾か何かだろうと思ったが、近くで見た私は、目を丸くした。
落ちていたのは、銀のリボンが結ばれた一束の草だったのだ。しかも――。
「これ、セルフィーユじゃないの」
ぽかんとすると同時に、私はむらむらと怒りにかられる。所詮、私は添え物の草でしかないという意味か。鷲づかんだセルフィーユを私は握りつぶそうとしたが、横から素早く伸びた二つの手に阻止される。手の先の二人――ルイとココは焦ったような顔で思い切り首を振った。
「待て、落ち着け」
「それはおやめになった方がよろしいかと」
「花じゃなくて草なんて、ただの嫌がらせじゃないの。どうせ私は添え物よ」
いや、だから、と口ごもるルイを一瞥して、ココは隠しから一冊の小さな本を出した。
「近々必要になると思って、持ち歩いておりました。ささ、これを」
差し出された黒い革張りの表紙には、金字で『花の言葉辞典』と記されている。
「この国の乙女の必読書です。これからも必要になると思いますので、差上げますわ」
「この国の乙女の必読書――ねえ」
私はお世話になったことはなかったが、確かに我が国の恋する乙女には必携の書なのかもしれない。頁をめくると、繊細な描写で描かれた花や草の絵と共に、その花の持つ意味が記されている。
「花だけじゃなくて、草の言葉もあるのね」
私はセルフィーユを探してみた。
「誠実、真心、――慎重な恋?」
私は目を丸くした。ただのおまけでしかないと思っていたセルフィーユに、こんな意味があったとは。
「ほら、セルフィーユだって立派に意味があるんだぞ」
どうしたわけかルイは得意満面の顔で私を諭しだす。私はセルフィーユを拾いあげた。
「一応、飾っておくわ」
誰かが私に言葉をくれた。それだけは、確かな事だ。誠実、真心――慎重な恋。意味を反芻した私は、自分の心が浮き立っていることに気づいた。誰かが私を気にかけて、誠実に思ってくれている。そう考えるだけで、胸がどきどきしてふわふわと落ち着かない。
「よかったな」
なぜかルイも嬉しそうだ。私は面映ゆくなって俯いた。奇跡は、次の日も続いた。
扉の前に、昨日と同じように銀のリボンにくるまれたセルフィーユが置いてあった。違うのは、それに付け加えて一輪の花が増えていたこと。
「チューリップ……?」
「よかったなあ、花が増えてるぞ」
「――貴方、暇なの?」
振り向く気もおこらない。また女神像の影にでもいたのか、ルイの声が私の背後から響いてきた。
「意味を調べられてはいかがでしょう」
ココは満面の笑みを浮かべている。なぜそんなに嬉しそうなのか。手に握られた紙片とペンは、見なかったことにする。
「――真面目な愛、恋の告白……永遠の愛?」
「まあ素敵……!」
ココのペンが矢のような速さで紙片の上を走っている。私は花を拾い上げた。顔が赤いのが自分でもわかる。
「……どんな人がこれをくれたのかしら」
慎重な恋、誠実、真心、永遠の愛。綺麗な言葉の数々が、私の心の中でおどっている。
「そのうち相手が現われるんじゃないか。じゃあ、俺はこれから仕事があるから」
やけに確信的に言い残して、ルイの足音が遠ざかっていく。
「あの人、いったい何しに来たのよ……」
(野次馬のためだけに来たのなら、相当に暇人よね)
そう思いながらチューリップを眺め、その意味を改めて考えると、急に恥ずかしくなって、私は開いた扉に、足早に滑り込んだ。少し心を落ち着けよう。そう思ったとき、私はあるものを見つけた。
「――花?」
文机の上に、白いリボンでくるまれた一枝の青い花が置いてあった。
その花は、デュランタ。意味は――。
「あなたを見守る……?」
花が届き始めてから一週間、銀のリボンのセルフィーユとチューリップ、白のリボンのデュランタは毎日私の部屋に置かれている。今日も文机の上に置かれていたデュランタをつまみ上げ、ルイは難しい顔をする。
「姫の部屋に侵入するなんて、大事だろうが。どこのどいつの仕業だよ」
「そういう貴方はなぜ私の部屋に当然のように入ってきているのかしら」
いかに幼なじみだからといっても、気安すぎないだろうか。
「大丈夫ですわよ。何も心配ありませんわ。で、どの花が一番心に響きましたか?」
なぜだかココが一番の落ち着きをみせている。私は、予期せぬ質問に困惑した。
「どの花って、そんな事を言われても、相手もわからないのに……。でも、そうねえ――」
どういうわけか、ココだけではなくルイも真剣に私の答えを待っている。
私は花瓶のチューリップとデュランタに視線を泳がせ、胸元のセルフィーユに目を落とした。なぜだかこれは、花瓶に活ける気にならず、胸のリボンに刺していた。私の呼び名でもある香草。この人は、なぜこの草を選んだんだろう?
「……この人は、私に何を言おうとしているのかしら?」
「セルフィーユ、ですか。ご本人にお聞きになるのが、一番でしょうね。あと、デュランタの件は問題ございません」
ココはにっこりと微笑んだ。
「その花は、私が言付かってきたものでございます」
「――!! どんな奴だ!?」
好奇心ゆえか、ルイの声が鋭く尖る。
「素敵な方、としか申し上げられませんわ。身分も高く、外見も麗しく。そうそう、もうお一方、セラフィーヌ様にお花を贈りたいという方がいらっしゃるんですのよ」
「もう一人!?」
ルイの声が裏返る。
「その方も素敵な方で――特別な花を贈りたいから、少々用意が必要だということです。これではセルフィーユの君も、よっぽど頑張らなくては、霞んでしまうでしょうねえ」
頬に手を当て、小首をかしげながらココは由々しげにため息をついた。
「急用を思い出した! 失礼する!」
よっぽど重要な用事だったのか、ルイは勢いよく踵を返して部屋から立ち去った。しかし、またしても何かにぶつかったのだろう、部屋の外から鈍い悲鳴が聞こえてきた。
翌日、むせ返るような薔薇の匂いで私は目が覚めた。日はもう高く昇っている。寝惚け眼で辺りを見回し、私は一気に覚醒した。
「何、これは……?」
寝台は一面の薔薇で埋め尽くされていた。赤、白、ピンク……ありとあらゆる色の薔薇の花が私を取り巻くように置かれている。私はあっけにとられて、それを眺めることしか出来ない。
「お目覚めでございますか?」
盆を手に、寝室に入ってきたココに、私は胡乱な目を向けた。
「これは、ココの仕業? 特別な花ってこの事かしら?」
満面の笑みでココは盆にのせた二通の手紙と、デュランタの花を私に差し出した。
「これ――!?」
手紙の封蝋に押された印璽は、見知ったものだった。それは王と、王太子の印章。震える手で開いたそれには、こう書かれていた。
『我が娘へ。お前に薔薇の意を贈る』
『我が妹へ。お前にデュランタの花を』
「――お兄様と、お父様だったの?」
デュランタの花を握りしめ、私は一面に敷き詰められた薔薇の花を見回した。
デュランタの花の意味は、あなたを見守る。薔薇の持つ意味は――。
「薔薇が表す言葉は、この国の女なら誰でも知っていますわね。白い薔薇は無邪気。赤い薔薇は、あなたを愛する――」
言いながら、ココは棘を綺麗にむしられた赤の薔薇を私に差し出した。
「ピンクは美しい少女。そして全ての薔薇は、幸福という意味を。ありとあらゆる美しい言葉が、薔薇の花に込められているのです」
いつしか、私の頬に涙が伝っていた。お父様もお兄様も、私の事など、なんの関心も愛情も抱いていないと思っていたのに。
「どうして? お父様とお兄様がこんな――。本当なのかしら?」
「ほんの少しだけ、私たち姉妹がお節介をしてしまいました」
ぺろりとココは舌を出す。
「お節介?」
「セラフィーヌ様がお花をもらってみたいと言っていたと、それとなく姉達からアンリ様と王様に伝わるように画策致しまして」
「――! な、なんでそんな事……」
驚きのあまり、私の口はあわあわと妙な動きになる。ココはしれっと言い放った。
「だって、王様もアンリ様も、セラフィーヌ様がお好きなのに、それを正直に表現しようとなさいませんもの。知っていますか? 王様のお部屋には、セラフィーヌ様の肖像画が置かれていて、それを眺めつつお酒を飲まれるのが王様の最大の癒やしですのよ? それにアンリ様は、セラフィーヌ様が会議で何を言ったのか手の者に逐一報告させて、裏でフォローしてらっしゃいますし、ルイ様が城にいらしたときは、お二人を近づけないよう涙ぐましく頑張っていらっしゃいますのよ?」
私は声も出ない。あのお父様とお兄様が!?
「どれもこれも、優雅を尊ぶ昨今の風潮の所為ですわ。自分の気持ちを素直に表現せずに冷静ぶるのを、優雅と勘違いしてらっしゃるようで。それに王様もアンリ様も、元々感情表現がお上手ではいらっしゃらないから」
私は眩暈がしそうだった。ずっと悩んでいたことの原因が、そんなくだらない理由だったなんて!
「あきれたわ……」
「男の方は、お馬鹿な事に情熱を傾けるものですわ。そういう所が素敵に見えることもあるのですけれど。――ああ、やっといらっしゃいました」
ココは顔をあげた。窓の外の木が、不自然に軋む音がする。
(侵入者――!?)
私は顔を強ばらせた。ココはカーテンの隙間から外を覗き、私に笑顔を向ける。
「セルフィーユの君のご登場です」
「――!!」
私は寝台から慌てて降りると、カーテンの影から外の様子をうかがう。そこにいたのは――。
「――ルイ!?」
チューリップとセルフィーユの大きな花束を抱え、木の上からバルコニーに飛び移ろうとしていたのはルイだった。繊細な花の刺繍が施されたベストと上着を身につけ、相変わらず優雅で麗しい様子であったが、今日は大きく普段と違う所があった。彼は、両目に楕円のガラスをつけていた。耳にかけられた銀の細い棒がその周囲を囲んで支えている。
(あれは、何なのかしら)
そう思いながら見つめていたら、耳元でココが心を読んだように説明をしてくれた。
「あれは眼鏡といって、視力を矯正する道具ですわ。実はルイ様は、目がとても悪いそうですの。オーヴェルニュ家は代々ひどい近視の家系だそうで。本当はルイ様も普段から眼鏡をかける必要があるそうですけれど、まあ、優雅さを優先なさっているのでしょうね」
「じゃあ普段、物にぶつかってるのも、そのせい?」
私の頭に以前のルイの言葉が蘇る。うちの家系の特徴がお前にないというのはきっとこの事なのだろう。そうでしょうね、と頷きココは優美に一礼して部屋を下がろうとする。
「お邪魔になる前に失礼しますわ。本当に男の方は、お馬鹿な事に意地をはるものですわね。そこが愛おしくも感じるのですけれど」
ルイはバルコニーに移った後、服の埃をはたき、眼鏡を隠しにしまい込んだ。いつも通りの伊達姿で、彼はすまして歩き出す。
「――本当にそうね」
私は微笑み、ルイの訪れを静かに待った。