未練だとか執着のようなもの
波の音が聞こえる……。
ふと、そんな気がして、私は耳をすませた。
いつのまに眠ってしまったのか。まどろみに落ちてゆこうとする躰を泥濘から引きぬくようにして意識を呼びさますと、やはり、どこからかともなく寄せては返す波の音が聞こえてくるような気がする。
気のせいだろうか。
きつく目を閉じ、確かめるように五感を耳に集中させてみた。夢でも見たのか、それとも単なる空耳か、あるいは何かの物音なのか。波の音がここまで聞こえてくるはずは、きっとない。
なのに、どうしてだろう。
バスルームから聞こえるシャワーの音にまぎれて、微かな律動のように波音が自分の内側から湧き上がり、ひたひたと部屋中を侵していくように静かに広がっていくのを感じるのだ。たとえば、躰の中を流れる血液の音が自分に聞こえてくるように、耳の奥からざわざわと胸騒ぎのように波の音は響いてくる。
もしかして今、海辺にいる……?
一瞬、そんな幻想を抱きそうになり、私はゆっくり目を開けた。ぼんやりと視線を室内にさまよわせると、目にうつるのは真っ赤なソファーと、散らばった服。テーブルの上には男が飲んだビールの空き缶が転がり、脇にある照明は黄ばんだ光を放っていて、昼間なのに夜と錯覚してしまうほど薄暗い。窓のないホテルの部屋のせいだろう。男の洗い流した残滓の臭いがここまで漂ってきそうな気がして、思わず私は顔をしかめた。
偏頭痛……。左の額からこめかみにかけて。
この頃、眠れないせいか、よく頭痛がする。
痛む額を枕に押し付け寝返りをうつと、微かに抗うシーツの感触に裸の手足が冷たく粟立って、忘れていた喧騒がよみがえるのは疎ましい。
「理由? 世の中に男がいて、女がいる。それだけ」
そう答えたのは、自分だったか、男だったか。
「誰でもいいのよ、抱いてくれるなら」
たぶん私は、そんなことを言った。
本当だけれど、真実ではない。
誰でもよかったし、誰であっても、きっとよくはない。
目を閉じていても、背中に這わせた指先のざらつく感触だとか、息づかいだとか匂いだとか、惰性ではごまかしきれない彼との違いに、乖離していく躰と心を思い知るのだ。
「セックス、好きなの?」
「さあ。どうかしら」
セックスが好きなのか、ただただ淫蕩なだけなのか、あるいはぬいぐるみを抱いて眠りたがる子供のように何かにすがっていたいのか、それとも単に寂しさを埋めたいのか。理由など、どうでもいいと思うのに、それがひどく重要なことのような気がして、喉の奥からクツクツと可笑しさが込み上げてくる。
彼の代わりを求めているわけではないということ。
例えるなら、未練だとか、執着のようなものだ。
「君みたいな子が、どうしてこんなことをしているのかなぁって、思ってさぁ」
三時間前に初めて会った男だった。名前を聞いたかどうかも忘れてしまった。よく喋る男で、私が黙っていると脈絡もなく、乗っている車がどうだとか、腕にはめた時計がブランド品だとか、さも自慢げに話してくる。
「限定品なんだよ、これ」
すごいだろう。いいだろう。そんなことを言い出しそうな口元からは、不自然なほどに白い歯がのぞいて、整髪料の臭いが鼻先をかすめた。
つまらない男。
毛穴を開かせ、油断しきった男の背中には、目が眩むような焦燥が足りない。這わせた指先が浮く汗につるりと滑って、ざらつく感触が脳裏を過った。
「サメ肌って言うのかしら」
「えっ?」
「もっと、ざらざらしているほうが好きだわ」
「何が?」
「手触りが」
唇の感触。唾液の匂い。まるで違うはずのそれらは、私の中で濾過され、脳内のどこかに浸透し、やがて海馬の底から愛しい彼の感触をひきよせる。
だから私は、男のうなじに指を絡め、こう言うのだろう。
「ねえ、キス、してくれない?」
……と。
とりあえず隙間に埋める記憶のように、目に映る輪郭は意識の端からさらさらこぼれて、またたく間に形をなくす。男の顔も匂いも、薄闇に溶けてゆく影のようにあっけなく崩れて、面影すら忘れてしまうのだろう。
私はきつく、目を閉じる。
波の音を、もう一度聞くために……。
そう。彼のキスが、好きだった。
柔らかい舌先で唇を縁取る、優しいキスが。
「海の見える場所がいい」
そう言ったのは、私のほうだ。
五年前。彼と初めてホテルに行った日。梅雨入りしてから毎日のように続いていた雨がようやくあがった日で、久々にあらわれた太陽が出番を待ちわびていたように地面をあぶり、天気予報が「真夏日」だとか、「今年一番の気温」だとか、しつこいくらいに何度も繰り返していたのを憶えている。
その日は、私の二十五歳の誕生日だった。
『駅の地下駐車場で、十時に』
待ち合わせ場所を指定したのは彼で。
『誰かに見られないように気をつけて』
送られてきたメールには、念押しするようにそう書かれていた。
九つ年上の彼。私のことを「ちゃん」づけで呼んだ彼。
「祐子ちゃん、若くて可愛いからさ、そのうち俺、飽きられて捨てられるのかな」
付き合い始めた頃、口癖のように彼はそう言った。
「捨てたりしないわよ。大好きだから。そう言う浩二さんのほうこそ、私のこと嫌いになったりしないでね」
彼にただ触れているだけで、すべてを解りあえたような気分になるのが不思議だった。抱かれたい。そう思わせる男は、後にも先にも彼しかいない。惹かれあう運命だったと錯覚しそうなくらいに、逢うたびに抱きあって唇を重ねた。
『二人だけで誕生日のお祝いをしよう。会社、休めそうかい? 俺のほうは出張ってことにしたから大丈夫だよ』
あの日、私は待ち合わせ場所の駅へと電車で向かっていた。
誕生日のお祝いに、泊りがけでどこかに出かけよう。そう誘ったのは彼だ。
『どこにも出かけなくていいから、ホテルでずっと抱きあっていたい』
『一晩中?』
『うん、一晩中』
『プレゼント、何がいい?』
『何にもいらないわ。一緒にいられるだけでいい。それが一番のプレゼントよ』
『じゃあ、ケーキ、買って行くよ』
彼と一晩中一緒にいられる。それが、まるで夢のようだと思えた。二人だけでお祝いをして、何度もキスをして、何度も抱きあう。一晩中、波の音を聞きながら彼の腕に私の躰をうずめ、私の足に彼が足を絡める。彼の温もりを感じながら、彼の心臓の音を聞く。想像をしただけで、私の胸は苦しいほど高鳴った。
『楽しみにしてる』
会社には、親戚の法事だと嘘をついた。誰にも疑われませんように。誰にも見つかりませんように。そう願いながら乗った電車は、毎朝の混雑が嘘のように閑散として、まばらな乗客は視線をわざと逸らして互いの位置を確認する。知った顔は見あたらない。それが、神様から贈られた誕生日プレゼントのように私には思えた。電車の窓ガラスに映る私は、今にも快哉を叫びだすのではないかと思うような顔で私を見ている。買ったばかりの白いレースの下着。いつもつけている香水は匂いが残ると困るからつけなかった。薄めのメイク。お気に入りのハートのピアス。
大丈夫。
電車を降り、駆けるようにホームの向こうへ、小さな子供を抱いた女の人を追い越し、制服を着た高校生の男の子を追い越し、急いで改札を抜ける。蒸されて膨らんだ空気が肌を圧迫するように押しよせて、胸元から頬へ、あっという間に汗ばんでくる。家を出る前にシャワーを浴びてきたのに、これでは台無し。早く地下に、早く……。
熱気から逃げるように階段を下りると、駐車場で待っている彼の姿が見えて、
「逢いたかったよ」
両手を広げて迎えてくれる彼の腕の中に飛び込む。
「私も……」
抱きしめられる感触をかみしめながら彼の背中に腕をまわすと、芯から溶けて溢れ出てくるのではないかと思うくらいに躰が熱くなった。車のかげに隠れて交わしたキスの味。彼の右手が乳房を優しくなでて、このまま時間が止まればいいのにと、思った。
私が求めていたのは、彼の腕だったのだろうか。
彼と自分の趣味についてだとか、将来についてだとか、具体的な何かを話したことは、あまりなかったように思う。そんなものに興味はなかったし、彼の何かについてを知りたいとも思わなかった。未来などいらない。言葉など必要ない。何かを話すことすらもどかしい。抱きあってキスをして、互いの躰を舐めあうようにセックスをする。
それだけで、満足していたはずだ。
彼に奥さんがいるという事実ですら、気にはならなかったのだから。
彼の愛情を、どこかで疑えばよかったの? 何が、いけなかったの?
ただ、セックスがしたかっただけなの?
問いかけても、答えは出ない。虚しさだけが、澱のようにつもってゆくだけ。
あの日、クーラーが程良く効いた車内に躰を滑り込ませると、ルームミラー越しに笑う彼の顔が私を覗きこんで、車が滑るように走り出した。海沿いの街を抜け、国道を西へと走る。窓の向こうに流れていく景色は、裏切るようにくるくると風景を変えた。商店街へ続くアーケード、銀行、コンビニ、電気屋、民家。それらの景色を遠ざけるように緑の山が近づき、緩やかな上り坂を越え、学校のグラウンドの脇を通り抜けると短いトンネル。
「トンネルを抜けると、そこは海だった」
冗談のつもりで彼は言ったのだろう。後部座席からは彼の表情がよく見えない。確かめるようにルームミラーを覗きこむと、彼の瞳が私に笑いかけていた。
トンネルの出口からまっすぐに伸びた下り坂。その向こうには真っ青な海がどこまでも広がって、水平線はわずかにしなった弧を描き、ガラス片をちりばめたようにキラキラと輝く海面も、流れてゆく雲も、すべてが明るく、すべてが眩しかった。世界が白に溶かされてしまうかのように、照りつける日差しが景色を霞ませていた。
「好きだよ」
先に言ったのは、彼で。
「愛してるよ」
シフトレバーに乗せた彼の左手に、後ろから伸ばし私の右手を重ねた。海に沿って抜ける細い道は、時間が止まっているかのように誰も通らない。日の光をさえぎるように立ち並ぶ松林が、人目から私たちを遠ざけ、二人だけの世界にいざなってくれるように思えた。
彼は私を、愛していたのだろうか。
今となっては、よくわからない。
ただ、絶えることのない波の音は、ざわざわと胸騒ぎのように私の足元から這い上がり、躰中を覆いつくすように繰り返す。
そっと握り返してくれた彼の左手は、出口のない夢の入り口で、あの日重ねた手の温もりも、まどろみの記憶なのか。
波音は、それでも静かに響いていた……。