王太子がメロすぎて国が滅ぶので、風呂キャンさせていました
「オルテンシア・ベルノー公爵令嬢。今夜限りで、君との婚約を破棄する」
卒業記念舞踏会の中央で、王太子エメリックは高らかに宣言した。
今夜の舞踏会は王立学院の威信を示すため、諸外国の宮廷へ水晶鏡で中継されている。
その晴れ舞台で、エメリックの隣に寄り添っていたのは、婚約者ではなく聖女フィアナだった。
「君は婚約者という立場を利用し、私の生活を不当に制限した。なかでも到底看過できないのは――」
エメリックは一度、言葉を切った。
「三日間、私に入浴を許さなかったことだ」
広間がざわめいた。
三日。
令嬢たちは眉をひそめ、夫人たちは扇の陰で囁き合う。
フィアナは胸元で両手を組んだ。
「殿下はずっと耐えていらしたのです。浴場へ向かおうとするたび、オルテンシア様の侍女たちに止められて……お身体を拭くための布しか与えられなかったそうです」
「なんと非道な」
「入浴まで管理するとは」
「嫉妬深いにも程がある」
冷たい視線を浴びながら、オルテンシアは黙って王太子を見つめた。
何かがおかしい。
今夜のエメリックは、普段よりも顔色がよかった。
頬がわずかに火照り、寸分の乱れもないはずの金髪が、額へ数筋落ちている。首元のクラバットも緩い。
そこから覗く肌には、うっすらと水気が残っていた。
オルテンシアのこめかみを、冷たい汗が伝った。
「殿下」
「今さら謝罪しても遅い」
「本日、湯浴みをなさいましたの?」
エメリックは勝ち誇ったように笑った。
「ああ。フィアナが浴場を用意してくれた」
広間の奥で、国王が杯を落とした。
「誰が王族浴場の封鎖を解いた!」
フィアナの肩が跳ねる。
「わ、わたくしです。殿下があまりにもお気の毒で……」
「何をした!」
国王の怒声が響いた。
だが、エメリックは父王の狼狽を、婚約破棄を邪魔されたくないためだと受け取ったらしい。
「父上も、オルテンシアに言いくるめられていたのですね」
そう言って、外套の留め具へ手をかける。
オルテンシアは反射的に叫んだ。
「お待ちください!」
遅かった。
外套が肩から滑り落ちる。
湯上がりの身体から、石鹸と香油の匂いが立ち上った。きちんと着込んでいるはずなのに、襟元から覗く喉だけが妙に無防備だった。
エメリックは濡れた前髪を指でかき上げ、青い瞳を細める。
「もう、君の命令には従わない」
広間の令嬢が三人倒れた。
近衛騎士の一人が剣を捨て、その場に膝をつく。
「殿下……お慕いしております」
老宰相は震える手で予算書を取り出した。
「来年度予算を……すべて殿下の衣装費へ……」
「おやめください、宰相閣下!」
今度は国王が王座から降り、王冠を外した。
「エメリック。今日からお前が王だ」
「陛下まで何をおっしゃっていますの!」
会場は、もはや断罪どころではなかった。
男も女も、老いも若きも、王太子を見つめて息を呑んでいる。
フィアナだけは、自分が選ばれたのだと信じていたらしい。
聖女の加護を持つ自分だけは、どんな魅了にも惑わされないと信じていたのだ。
誇らしげにエメリックの腕へ触れようとする。
その直前、エメリックが跪いた騎士へ微笑みかけた。
「立て。君は私を守る騎士だろう」
騎士が泣いた。
フィアナの笑顔が固まる。
「そんな……」
「どうした、フィアナ」
エメリックが心配そうに顔を覗き込む。
濡れた金髪。
火照った頬。
優しく細められた青い瞳。
フィアナの膝が崩れた。
「メロすぎて……滅……」
その瞬間、王宮全体が激しく揺れた。
窓の外を覆っていた青白い防衛結界が、音もなく消えていく。
宮廷魔術師長が、恍惚とした顔で杖を掲げていた。
「殿下を閉じ込める結界など、存在してはならない」
オルテンシアは両手で顔を覆った。
「だから今夜だけは、風呂をキャンセルしてくださいと申し上げましたのに……」
「風呂を、きゃんせる?」
「湯浴みの中止です!」
オルテンシアは声を張り上げた。
「王家の男子は、入浴直後に魅了の加護が暴走します。清潔になればなるほど美貌と色気が増し、周囲の理性を破壊するのです!」
広間の壁には、歴代国王の肖像画が並んでいる。
そのうち半数は、なぜか薄汚れた格好で描かれていた。
魅了から立ち直りかけた国王が、王冠を抱えたまま叫ぶ。
「ゆえに舞踏会、議会、外交行事の前日は、王族浴場を封鎖する決まりだ!」
「なぜ私には知らされていない!」
「本人に知らせれば、必ず試したがるからだ!」
国王の言葉に、エメリックが黙った。
少なくとも、試さないとは言えなかったらしい。
浴場の鍵を預かり、重要行事の前には入浴日をずらす。
身体は温布で清め、髪は香粉で整える。
それは嫉妬でも虐待でもない。
国家防衛だった。
そこへ、伝令が転がり込んできた。
「申し上げます! 北方帝国軍が、王都へ向けて進軍を開始!」
「侵略か!」
「いいえ! 水晶鏡で殿下をご覧になった皇帝、皇太子、将軍、騎士団長が、それぞれ婚姻を要求しております!」
続いて二人目の伝令が飛び込む。
「西方王国軍も国境へ集結! 国王自ら花嫁衣装で先頭に立っております!」
三人目も来た。
「東の聖国が聖戦の準備を開始しました!」
「目的は!」
「殿下を一国が独占するのは人道に反すると!」
国が滅びる。
比喩ではない。
オルテンシアは鼻元をハンカチで押さえ、エメリックへ歩み寄った。
「殿下。厨房へ参ります」
「なぜだ」
「灰と煤と魚油を被っていただきます」
会場中から悲鳴が上がった。
「殿下を汚すだと!」
「なんという冒涜!」
オルテンシアは振り返り、令嬢たちを一睨みした。
「では、あなた方が三か国の軍勢を止めてくださいますの?」
誰も答えなかった。
オルテンシアはエメリックの頭へ外套を被せ、そのまま腕を引いた。
「待て、オルテンシア。婚約者にする仕打ちか」
「たった今、婚約破棄なさいましたでしょう」
エメリックが黙った。
厨房へ入ると、オルテンシアは竈の煤を集め、魚油の壺へ放り込んだ。
「本当に、これを?」
「魅了は次に汚れるまで消えません」
「ほかに方法はないのか」
「中庭の泥水でも結構ですわ」
エメリックは魚油を見た。
窓の外の泥水を見た。
再び魚油を見た。
「泥水で頼む」
頭から三杯被せると、ようやく王太子の周囲を覆っていた妙な輝きが消えた。
騎士たちは剣を拾い、宰相は予算書を破り捨て、国王は王冠を被り直した。
しかし、すでに防衛結界は落ち、三か国が軍を動かし、譲位宣言は各国へ生中継されている。
一夜で王国は滅亡寸前である。
泥まみれのエメリックが、オルテンシアを見た。
「君は平気だったのか」
「何がでしょう」
「私の魅了だ」
オルテンシアは答えず、鼻元のハンカチを外した。
白い布は、鮮やかな鼻血で染まっている。
「耐性があるわけではありませんのよ」
「では、なぜ」
「王太子妃になる者が、一緒に滅んでどうするのです」
エメリックはしばらく黙った。
それから、泥の滴る頭を下げる。
「婚約破棄を撤回したい」
「聖女様は?」
「過去三百年分の入浴災害記録を読ませる」
「三か国は?」
「私が説得する」
「湯上がりで?」
「二度としない」
オルテンシアは小さく息を吐いた。
「入浴そのものは禁止いたしません。月に一度、地下浴場で。防音、遮光、結界を三重に施します」
「立会人は?」
「わたくし一人です」
「君も魅了されるだろう」
「とうにされておりますわ」
オルテンシアは泥だらけの王太子の頬へ口づけた。
「それでも国を滅ぼさずに済ませるのが、王太子妃の仕事です」
翌朝、婚約破棄は正式に撤回された。
聖女フィアナは王立文書庫で、歴代王族の入浴災害記録を書き写すことになった。
エメリックは三か国へ事情を説明し、軍勢を撤退させた。譲位宣言についても、魅了下における意思表示として無効が確認された。
王太子の次回入浴日は、国家最高機密に指定された。
なお、三か国の軍勢が撤退したのちに行われた最初の入浴について、地下浴場から二人分の声が聞こえたという報告は、オルテンシアの命令により、すべて焼却された。
今回は、「メロい」「〇〇で滅」「風呂キャン」という、最近よく見る言葉を三つ並べて考えてみました。
なんでこうなった?
自分でもよく分かりません。
疲れてるのでしょうかね?
たぶん、「王太子が風呂に入ると国が滅ぶ」というところで、何かが決定的に間違ったのだと思います。
気づけば、入浴管理が国家防衛になり、三か国が軍を動かし、王太子の入浴日が国家最高機密になっていました。
かなりゆるいお話です。肩の力を抜いて楽しんでいただけたなら嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




