王子が婚約破棄した日の事務室
「はあ!? まじすか!?」
特筆することのない宮殿の一角にある事務室。窓の外では夕闇が迫り、始まった夜会のための明かりが宮殿を華やかに彩り始めている。
そんな中、紙埃が舞う狭いこの部屋に響くのは内務管理局のジームの声だった。
無理もない。王子が勝手に今日の夜会で婚約破棄を高らかに宣言し、よく分からない若い娘との婚約も高らかに宣言したという話を聞いたのだから。
ジームの悲痛な叫びに上長のジョナサンは眉尻を下げた。
「うん、まじよ、まじ。さっき大臣が発狂しながら僕に言ってきたから。あんなに目と眉を動かしながら話してる姿、初めて見たよ」
ここでいう大臣とはジームやジョナサンの内務管理局をまとめる直属の長。普段は何を考えているか分からないアルカイックなスマイルを浮かべてる食えない男と評判の人だ。
そんな男が何故発狂するのか。それは彼が苦労して結んだ婚姻を王子の勝手な都合で破談にしたからだった。
「あの人が……発狂!?」
「ほら、だってさ、王子の婚約って大臣がまとめた話じゃない? 嫌がる公爵をどうにか説得して、なんとか公爵令嬢との婚約を認めさせたのにさ。今後の金蔵のことを考えるとそりゃああなるよ。僕たちもやばいかもよ」
「そうだ、お金! 公爵家の貿易航路をこの婚姻で国主導にするって話でしたよね。え、どうするんですか」
「もちろんなしだよ、なし」
「え、やばくないですか? 僕らの給料出るんですか?」
ジームが不安そうな声を上げる。そうなるのも無理はなかった。王妃と王子の金遣いが荒く、そこまで潤っているわけでもなかった国庫はすっからかん。公爵家の持参金と貿易航路に期待していたのだ。
婚約が決まったときは職員全員喜んだものだ。何せ残業代は各部署ごとに予算という名の上限が決まっていて、事実上のサビ残が横行。若手に残業代が出せるようにと、先輩職員が残業時間を正式に申請しなかったりしている部署もあるとジームは聞いている。
経費削減という言葉によってどれほど環境が悪化したか。少し前は蜜蝋を使えていたのに、今では獣脂蝋燭だ。臭いが酷いったらありゃしない。
勤勉手当など出たのは遠い昔。現職員にはお伽噺として認識されていた。
ようやく残業代がまともに出る、蜜蝋に戻れる、勤勉手当が貰える、と喜んだのに。とんでもない話にジームは耐えられそうにもなかった。
「分からんね。新しい婚約者の身元は不確かで、援助は期待できないだろうしなぁ。君はまだ若いし早く逃げたほうがいいかも。僕はもうこの年だし、この国と一緒に沈もうかな」
「何言ってるんですか! 今が一番若いんっすよ! 一緒に辞めましょうよ」
「えー」
ジョナサンはジームの積極的な勧誘に乗り気ではないみたいで視線を遥か彼方へ移した。
そして視線が戻ってきたかと思ったらジームに無慈悲な指示を出した。
「そうそう、そういう訳だから早速君には公爵家に送る婚約解消の通告文を書いてほしいんだ」
「げっ、面倒。通告文ってことは公文書のルールに乗っ取らないとですよね? ……今すぐここ辞めていいですか?」
「僕に免じてたたき台作ってから辞めてよー」
「そう言われたら書くしかないじゃないですかー、もー」
ぶーぶー文句を言いながらもジームは公文書のルールをまとめた指南書を開く。この指南書はジームがこの事務室に配属されて間もない頃にジョナサンが私的に買ってくれた本だ。公文書の書き方以前に公文書とはなんぞ、というジームを見かねてジョナサンが用意してくれたのだ。
そんな面倒見の良いジョナサンがいたからジームはこの仕事が続いていた。
「僕は他の局に連携してくるよ。事前に言っておかないとまた別の面倒なことが起こりそうだからね」
ジョナサンの発言を聞き、ジームの頭に何人かの顔が過る。事前に話を入れておけばにこにこ対応してくれるのに、何故か初耳だと冷ややかな対応に急変するのだ。本質的ではないとジームは日頃から思っているが、気持ちは分からなくもない。でも、もう少し大人になって欲しいというのがジームの本音だった。事前共有出来ない突発案件があることを理解して欲しい。
ジョナサンが慌ただしく去り、ジームも渋々仕事に取り掛かることにする。こういうのは過去の公文書からまるごと引用するのが良い。そう判断したジームは稟議整理簿を開いて類似の案件がないかを確認する。が、ない。それもそうだ。こんな馬鹿らしい事件が頻出してたら大問題だ。
仕方がないのでジームは婚約が決まったときの通告文から引用することにした。少し手直しする必要があるが、決まったと書かれているところを解消にするだけだ。
ちまちまとした作業をしながらジームは今後のことを考える。辞めてどうしようか。働かないで生きていける身分ではないので、どこかで働く必要はある。知り合いに紹介してもらって働くのもいいし、職業斡旋所で相談するのもいいかもしれない。
新しい生活に思いを馳せていると、ふと視界に公文書の指南書が目に入る。本当はいつだって辞めてやる気持ちで働いていた。けど、それを実行しなかったのはひとえにジョナサンの存在が理由だった。
人の良いジョナサンと一緒に仕事をするのは楽しかった。作業しながらの雑談のはずが、手が止まるほど盛り上がったことも多々あった。甘いものが好きなジョナサンが持参してきた流行りの菓子を一緒に食べたりもした。その影響でジームも菓子に興味が湧いて、ジョナサンのために菓子を買ってきたことは数えきれない。
たくさんの思い出がジョナサンと共にある。が、そのせいで辞めることができなかったのも事実。
東にある国では絆を絆とも読むらしい。ほだしとは馬の足にかけて歩けないようにする網のことで、それによって馬は自由を奪われるのだ。
馬と自分の姿が重なる。
だからといって、ジョナサンと出会いたくなかったわけではない。苦楽を共にした時間はかけがえのないものだ。
ただお金を稼ぐ場所だけならこんな職場すぐに去ってやったのに。
仕事とはお金だけではないとしみじみとジームは思ってしまう。
自分のあまり上手じゃない字にうんざりしながらも書面が完成する。
どうせ今日は長期戦になるだろう。茶でも入れよう、そうジームが思った時だった。
「大変だよ! 大変だよ!」
ジョナサンが大慌てで入室してきた。
「ど、どうしたんっすか」
「公爵令嬢に隣国の王子がプロポーズしたんだよ!」
「えええええ!? まじっすか!」
「まじよ、まじ。なんか隣国の王子って小さい頃にこの国に亡命したことがあったみたいでね。その時に公爵令嬢とご縁があったみたいだよ。もうびっくり。公爵令嬢はプロポーズを受けたみたいで会場はもう混沌としているようだよ」
「そりゃそうなるっすよね……」
ジームの呆然としながら発した言葉にジョナサンは大きく頷いた。
「教えてくれた人も何が何だかって顔していたよ。でね、それでね、隣国の大使との会談調整しなきゃいけなくてね……」
「げっ、もしかして」
「うん、また文書を出さなきゃいけないんだ」
「僕! 辞めます!」
「頼むよー、頼むよー。やってよー」
「どうせ次は隣国へ行く使者に渡す文書の作成があって、向こうに駐在してる大使への文書も作るんですよね!?」
「流石ベテラン。よく分かってるねぇ。成長してくれて、おじさん嬉しいよ」
「全くもって嫌な成長ですよ!」
「まあまあ、そう言わず。相手国は経済大国だから金銭的な援助期待できるかもしれないって話も聞いたよ」
「えー、うちの王子はよく分からない女を連れてきて公爵令嬢を傷つけたばかりですよ? こんなどうしようもない王子がいる国への援助って流石に無理じゃないですか?」
「どうにかするって関係各所が息巻いてるみたいよ」
「はへー」
皆、お金のことになると必死だなぁとジームは感心した。
自分も何だかやる気が出てきた気がする。やはりお金の力は偉大だ。
仕事はお金だけではないが、やはりお金は大事な要素だ。
そう考えているうちに、ジョナサンが茶の準備を始めた。もちろん、ジームの分も入れてくれるのがジョナサンだ。
ジョナサンが入れる茶は熟練のスキルが活かされているからかとても美味しい。飲むのが楽しみだ。
今日はジョナサンとどのお菓子を食べようか。机の上にある小さめの籠に入っている焼菓子たちを眺めながら考える。
――――そんな中、突然大きな音を立てながら扉が開いた。
「大変だ!」
荒らげた声は大臣のものだった。話の通りアルカイックスマイルは崩壊し、目はひん剥かれていた。いつもの美しい七三分けも明後日の方向を向いてとっ散らかっている。
「陛下が王子の廃位と、王子とよくわからん娘の国外追放を命じられた! そして次の王位継承者は陛下の弟君に決まった!」
「えええ!?」
ジームの素っ頓狂な声が部屋に響く。
「そしてそれを聞いた王子が暴れて大広間のシャンデリアを破壊した! 怪我人はいない!」
「えええええ!?」
ついにはジョナサンまで声を上げた。
だがすぐに咳払いをひとつして、大臣へ向き直る。
「大臣、それは本当のことでしょうか」
「ああ、本当だ……。もう私には分からない。分からないが、王子を廃位にしたら隣国からの支援が期待できるらしくってな。よくわからん娘はぎゃあぎゃあ騒いで煩かったが、その娘もまとめて流刑にすることで雑に処理することになった。ああ、もう訳が分からない。だが、やることはたくさんあるぞ。ああ、ああ……。もうどうにでもなれ……」
混乱している大臣は「大臣たちで臨時の会議を開く」と言ってその場をふらふらしながら去っていった。
「…………」
「…………」
沈黙が二人を襲う。ゆっくり顔を見合わせると、先にジームが口を開いた。
「これって僕らの仕事やばいですよね?」
「うん、やばいね。廃位に関する対応、流刑に関する対応、よく分からないお嬢さんへの対応、そしてシャンデリアの処理。ただでさえ、公爵令嬢の突然の婚約でいっぱいだったけど、うん、とんでもない量になっちゃったね」
「…………」
ジームは返す言葉を失った。
「でもまあ、仕方ないよ。……よし、じゃあやろうか」
「……やっぱ辞めていいですか、自分」
「えー、せっかくだからまだ一緒に仕事しようよ。ほら、僕のとっておきのお菓子あげるからさ」
「えー」
「まぁまぁそう言わず」
そういってジョナサンはジームの手のひらに綺麗な刺繍がされた袋を乗っけた。開けてみると糖衣がけの木の実が詰まっている。
間違いない。これは今城下で話題になっている看板を出していない店の商品だ。辿り着いた人だけが注文できるが、その注文もひと月後になるという幻の逸品。
「こ、これは……!」
「僕のとっておき。ほら、一緒に食べようよ。やる気でるよ、たぶん」
「……今回だけですからね」
「うんうん、ありがとうね」
ジョナサンが優しく微笑む。
ジームは長く息を吐くと書類に手をかける。
まだまだ仕事は辞められそうにないなと思うが、その思いは存外悪くないものだった。




