太平洋戦争~英霊達は守りたい~
1942年6月。開戦から半年が過ぎたこの日、日本本土の各基地では異常事態が起きていた。
陸海軍の基地や軍港に、戦死したはずの兵士達が装備や搭乗兵器と共に帰還したのであった。
兵士達は皆一様に青白い肌色をしており、「只今、帰還いたしました」と声を発したのである。
ちょうど半年前に戦死した者達である事が判明し、各基地や軍港は戦慄の渦に包まれるのであった。
彼ら兵士達は実体があり、触る事もできた。体温はなく、もちろん脈もない。鏡に映らず写真にも写らず影もなかった。彼らは実体であるが本来の肉体でないことは確かであり、では一体何なのだという話になったのだが、英霊であろうということでで片付けられたのである。
確かにそうであろうし、彼らも「再びお国のため、家族を守るために戦いたい」と申し出ているため、英霊が実体を伴って日本を護るために黄泉より帰ってきたのであろうと無理矢理結論付けられた。
陸海軍はこの報告に混乱し、海軍にいたってはミッドウェーでの敗戦直後という事もあり混乱に拍車が掛かった。
その間にも英霊達は日本に帰還し続けた。英霊達は水も食料も必要とせず、睡眠も必要ないため、ただ基地で命令が下るまで待機を続けていた。
大本営は2ヶ月に及ぶ議論の末、英霊達の望み通り彼らを再び戦地へ送る事を決定した。
折りしもソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる戦いが起きており、英霊達はソロモン諸島へと送られる事になった。
英霊達は生前所持していた軍服と兵装を持っており、搭乗員や操縦者なら乗っていた墜落した航空機、艦艇の乗員達なら沈没した艦艇と共に現れていた。もちろん航空機や艦艇が失われていなければ、英霊のみが現れていた。
これら英霊達の航空機や艦艇などは、英霊達に近い存在だと考えられたが、弾薬や燃料、整備などは必要だった。
英霊達はソロモン方面へ送り出され、戦闘に参加していった。
英霊達は水も食料も必要としないが、通常の兵士と同様に致命傷となる負傷を受ければ行動不能となり、やがて消滅した。英霊と共に現れていた装備や兵器も、英霊の消滅と共に消えていった。
ソロモン諸島での戦いでは、英霊達の乗る潜水艦の異常な強さが判明した。
英霊達は呼吸をしていない。それゆえ酸素を考慮する事無く作戦を遂行でき、戦果を挙げていったのである。このことが判り、大本営は遣独潜水艦作戦に英霊の潜水艦も用いる事にしたのだった。
ガダルカナル島においても、水と食料を必要としない英霊達が活動しており、連合国軍に対し粘り強く抵抗することができた。
さらに英霊達は睡眠も必要としないため、非常に有用な戦力となっていたのである。
1942年12月。ミッドウェー海戦で喪失した艦艇や航空機が英霊達と共に帰還した。
英霊正規空母4隻の帰還に海軍が不謹慎ではあるが喜んだのだった。
英霊正規空母4隻には人員と艦載機を補充した上で、ソロモン・ニューギニア方面へと送られる事になった。
英霊正規空母4隻の復帰に伴い、英霊軽空母含む二線級の小型空母は米潜水艦の活動が活発化し始めてている通商路の防衛に回されることが決まった。
英霊正規空母4隻の復帰によってソロモン諸島の戦いは日本軍が優勢になり、連合国軍に多大な損害を強いていた。しかし、ガダルカナル島は日本から遠過ぎた事で燃料供給や物資補給が追いつかず、アメリカの物量を前に次第に日本軍が押されていったのである。
1943年2月にはガダルカナル島から撤退し、日本軍は後退せざるを得なくなったのであった。撤退に際し英霊達が殿を勤めた事で、多くの兵士達が無事に撤退することに成功したのだった。
英霊達は2度目の死を迎えると、半年経っても帰還しないことが判明した。英霊達もそれは承知しており、受け入れているようであった。
英霊の艦艇で沈没した艦も既にあり、その場合脱出に成功した英霊達は英霊艦艇と共に消える事はなかった。
日本は守勢に回りつつも連合国軍に損害を与え続けていた。英霊達のおかげで消耗が抑えられ、有利に防衛戦を行えていた。
特に英霊正規空母の活躍によるところが大きく、ニューギニア・ソロモン方面を支えていたのだった。
1943年9月頃から、米新型艦上戦闘機F6Fが登場すると、日本の空母の艦載機では性能に劣り、熟練搭乗員である英霊達も次第に数を減らしていった。
英霊正規空母は英霊搭乗員が減った事で、生者の搭乗員と艦載機が補充されていき、艦載機の大半が生者で占められるようになったのであった。
1944年に入る頃になると、米P-38戦闘機の運用方法が変化し侮り難い強敵となり、日本軍は陸海共に制空権確保が難しくなっていった。
また、英霊達のおかげで米海軍に相当な損害を与えていたものの、マーシャル諸島が失陥するなど絶対国防圏を突破される事になり、マリアナ諸島への侵攻が危ぶまれるようになっていた。
南方資源地帯から日本までの通商路は、二線級小型空母を主軸とした海上護衛総司令部が設置された事で、米潜水艦による被害を許容範囲に抑えることができ、日本国内の生産性は落ちる事無く維持されていた。
通商路の安定により大東亜共栄圏は完成しつつあるも、欧州東部戦線ではドイツが劣勢であり、現段階での連合国との講和は望むべくもなく、日本はマリアナでの決戦に向けて準備を行っていった。
マリアナでの決戦に向けて温存されていたはずの航空戦力は、各地の防衛に送られてしまい磨り減っていった。
それでも1944年6月には、空母艦載機と陸上機合わせて1000機を超える航空機を準備でき、マリアナ沖で決戦に臨むことができた。
日本軍航空機は数でやや上回っていたが、米機動部隊は艦上戦闘機F6Fの性能や電探性能、高角砲の性能が上回っていた事により数の優位は覆され、米空母にそれなりの損害は与える事ができたものの日本側の空母も損傷し、可動可能な艦載機が激減した事で撤退を余儀なくされたのであった。
海戦後にマリアナ諸島への上陸作戦が開始されたが、それまでに邦人の退避は完了しており、激しい地上戦が行われた。しかし、日本軍の戦術は水際作戦であるため、僅か1ヶ月しか防衛できなかったのである。
日本陸軍はマリアナ諸島での戦訓を基に、水際での防衛ではなく縦深防御への転換が検討され、フィリピン方面や硫黄島、沖縄での縦深防御に基づく陣地構築が開始されていった。
硫黄島では、有毒な火山ガスの影響で地下陣地構築が困難を極めると思われたが、英霊達には火山ガスやある程度の高温も影響を及ぼさないため、多くの英霊が硫黄島に送られ、急速に地下陣地構築が進む事になった。
1944年9月から始まったペリリュー島の戦いで、縦深防御の有用性が証明された。
これにより今後戦場となると予想される、フィリピン、硫黄島、沖縄の陣地構築がさらに進んでいった。
10月には各地に米機動部隊による空襲が行われた。日本軍航空機による反撃は米機動部隊に損害を与える事はできず、逆にその攻撃により日本軍の航空戦力が低下した。
米機動部隊の艦載機にも損害は出ているはずであるが、桁違いの物量により補われ続けているようであった。
レイテ沖海戦が行われ、日本海軍戦艦部隊は目標としていた上陸船団に攻撃を加える事に成功した。
空母の修理と艦載機の充足が不十分な日本機動部隊が囮となり、さらには特別攻撃隊が編成され、航空機による体当たり攻撃が敢行されたのである。それにより英霊戦艦2隻を含む戦艦12隻の艦隊の突入は成功し、多大な損害を被りながらも上陸船団に痛撃を与えることができた。
この戦艦部隊の突入では英霊戦艦含む6隻が沈没し、損傷した戦艦大和・武蔵・伊勢・日向・金剛・榛名は撤退に成功した。被害担当艦となった大和と武蔵の損害は特に酷く、修理には相当な期間が必要と予想された。
米上陸船団は大損害を被ったものの、米機動部隊の援護の下上陸作戦は継続され、フィリピンでの戦いは続いていった。
日本機動部隊は再編成中であり、米機動部隊に対抗できる戦力が現状ないため特攻作戦が継続されていき、英霊搭乗員を含む多くの若者が志願させられ散っていった。
送り出す司令官も、「後から私も行く」と言って特攻隊員達と約束を交わして送り出しており、末期的な状況となっていた。
日本本土へは、マリアナ諸島から飛来したと思われるB-29爆撃機の空襲が始まり、本土での防空戦闘が本格化した。
B-29には護衛の戦闘機が随伴していないため、高高度防空のため量産されていた三式戦闘機飛燕や局地戦闘機雷電が主に活躍を見せる事になった。しかし、B-29にたいして飛燕や雷電の武装は火力不足であり、30mm機銃を搭載した機体の開発が急がれた。
アメリカの物量は留まる所を知らず、1945年2月には硫黄島への上陸作戦も開始した。
しかし、硫黄島は英霊達の働きと陣地構築のための潤沢な物資により、日本軍史上類を見ない地下要塞が完成しており、半年はもたせられると師団長に豪語せしめる出来となっていた。
連合国軍は太平洋において、フィリピン、硫黄島と激戦地を抱えながら、3月には沖縄に対する上陸作戦も敢行した。
日本軍は米機動部隊に対する特攻作戦を激化させていき、再建された日本機動部隊による反撃の機会を伺っていた。
1945年4月。特攻作戦により、米機動部隊の複数の空母に離着艦不能の損害を与えることに成功した。
そしてついに、日本機動部隊による本格的な反撃が行われた。
日本機動部隊の正規空母には、新型機である艦上戦闘機烈風、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲が搭載されており、搭乗員には英霊含む熟練搭乗員が掻き集められていた。
結果、日米双方の空母が多数損傷し、沖縄は一時的に日本の制空権下に入ったのである。
レイテ沖海戦から半年が経ち、沈没した英霊戦艦4隻が帰還した。戦艦長門、陸奥、扶桑、山城である。また、英霊巡洋艦・駆逐艦も帰還していた。そして損傷した6隻の戦艦の内、修理の完了した戦艦伊勢・日向・金剛・榛名も戦線復帰が可能だった。
沖縄の制空権が一時的に日本のものとなったこの機に、英霊戦艦4隻と戦艦4隻の合計8隻の戦艦を中心とする艦隊による特攻作戦が行われたのである。
戦艦8隻と護衛艦隊は、米戦艦部隊との艦隊決戦を行い、戦艦長門が沖縄本島に座礁することに成功した。
戦艦長門は砲撃が続けられる限り米上陸部隊を砲撃し続け、大損害を与えることに成功した。長門はその後、米戦艦部隊の集中砲撃を受け重要防御区画を打ち抜かれ、弾薬庫が爆発を起こし艦が大炎上し主砲は沈黙。そして忽然と消滅したのだった。
一方、その頃ドイツでは、ソ連の攻勢によりドイツ全土が占領され、ドイツは無条件降伏したのであった。
米英を中心とした連合国軍は太平洋での対日戦の影響で、フランスとイタリアを解放するのが精一杯であった。
ドイツが降伏し、日ソ中立条約は既に不延長となっているため、通商路は断たれてはいないものの日本は追い詰められていた。
B-29による空襲は激化していたが、迎撃機の数も揃っており、B-29の撃墜数も増えていた。少数の偵察を行うB-29などは悉く撃墜していた。
1945年5月。硫黄島の飛行場がアメリカ軍に完全に確保され、B-29爆撃機の空襲にP-51戦闘機が護衛として随伴するようになった。高高度では同じく液冷戦闘機である三式戦闘機飛燕との空戦が起こったものの、P-51の方が性能が上であり日本の防空戦闘は劣勢となった。
6月。ジェット戦闘機が完成し、橘花や震電の量産が開始されていった。その他、高速を発揮できるレシプロ戦闘機も開発されていたが、ジェット戦闘機が優先されることになった。
7月。ソ連が日本に対し日ソ中立条約の有効期間を破り宣戦布告し、日本はいよいよ追い込まれた。
レイテ沖海戦で酷く損傷していた戦艦大和・武蔵が戦線復帰し、ソ連太平洋艦隊に対抗するため護衛艦艇と共に出撃した。
ここにきて米英より日本に対し降伏勧告が行われた。もろもろの条件は飲まねばならないものの、天皇制の維持と対ソ連戦闘の継続が容認されるという内容だった。
欧州ではソ連がドイツ全土を押さえており、アジアにおいてもソ連が満州や朝鮮半島、南樺太や千島列島を押さえてしまうと、共産主義勢力の一人勝ちとなってしまう。
そこでアメリカは妥協し、日本にソ連との交戦を継続させ、満州、朝鮮半島、南樺太に米英の連合国軍が進駐するまでの時間稼ぎを求めたのであった。
御前会議が開かれ、米英の条件付降伏を受け入れることが決定する。
大本営は陸海軍に米英中連合国軍に対する戦闘停止命令を出し、満州、朝鮮半島、南樺太、千島列島、日本本土への転進を命じた。
特攻作戦も当然中止されたが、海軍の特攻作戦を主導した将官はソ連太平洋艦隊へ向け特攻を敢行した。
特攻作戦において、半ば強制的に志願させ、自分も後から行くと特攻隊員と約束しておきながら、海軍の将官のように特攻を行わなかった者達の下に、英霊となった特攻隊員達が迎えに来た。
「閣下、お迎えに上がりました。共に逝きましょう」
英霊達に囲まれた司令官は青い顔をし、諭すように告げた。
「戦闘停止命令が出たのだ。軍令を破るわけにはいかないのだよ」
「問題ありません。相手はソ連艦隊です。海軍の将官は逝かれましたよ?」
司令官は白くなった顔で冷や汗をかきつつ続けた。
「散っていった特攻隊員の家族に頭を下げる者が必要なのだ。非難を受けることもあるだろう。私にはその責任がある」
「責任は時の為政者が負うものです。閣下である必要はありません。さあ閣下、約束を守ってください」
英霊となった特攻隊員達が司令官を取り囲み、司令官は配下の部下達に振り返り「この者達を止めてくれ!」と頼むも、「閣下、ご存分に本懐を遂げてください!」「英霊達との約束を守ってあげてください!」「露助共に大和魂を見せてやってください!」と、司令官を激励し送り出すばかりであった。
司令官は特攻機に乗せられ、武者震いなのかガタガタと震えながら、硬い表情で沈黙したのだった。特攻機は北へと向かい、燃料や爆弾の補給を受け、最後の特攻作戦に向かうのだった。
ソ連太平洋艦隊は、日本軍の最後の特攻攻撃により少なくない損害を出した。これによってソ連の千島列島への侵攻は頓挫し、海上での戦いは樺太周辺や日本海に限定された。
日本の大和型戦艦2隻を中心とする艦隊により、残されたソ連太平洋艦隊の水上艦艇は壊滅し、残る潜水艦も徹底した潜水艦狩りが行われた事で、日本海やオホーツク海の制海権は日本のものとなった。
可動可能な日本機動部隊も南樺太防衛戦を支援し、米軍到着まで守り抜いたのである。
日本陸軍の英霊含む大戦力が続々と満州、朝鮮半島に集結・投入された。T-34中戦車には敵わないものの量産されていた全ての三式中戦車やルソン島で撃破された英霊戦車が送られ、ドイツよりもたらされて量産された携帯式対戦車擲弾発射器が大量に投入された。
航空戦力も英霊航空機含め全て投入され、ジェット戦闘機の力もあり、戦線を国境線まで押し返すことに成功した。その状態で米軍に引き継ぐ事が出来、満州、朝鮮半島、南樺太を引き渡せたのであった。
ソ連の侵攻と歩調を合わせるように中国共産党軍も攻めてきたが、ソ連軍ほどの脅威ではないため撃退に成功していた。このため中国共産党と対峙していた地域は、終戦後に国民党軍が来るまで日本軍が維持することになったのである。
中国南部は国民党軍との停戦が履行されていたため、滞りなく転進することができていた。
1945年9月。ソ連とも停戦し正式に戦争が終結した。
それと同時に英霊達と英霊艦艇などの兵器は静かに消滅していったのである。
戦後日本は、満州、朝鮮半島、南樺太を守り抜きアメリカに引き渡せたことで、降伏の条件が大分緩和されることになった。
軍隊の解体とアメリカの言う民主的な政治体制への移行は行われたが、遣独潜水艦によってドイツから得ていたロケットやジェットエンジンの技術などの最新技術情報をアメリカに引き渡した事もあり、千島列島や台湾は日本の領土として認められた。もちろん台湾や千島列島を中心に各地に米軍基地が設置され、あたかもアメリカに占領されているかのように見えたのだった。
日本はアメリカの属国のような状況ではあったが、主権は日本にあり、れっきとした独立国家であった。
アメリカは戦時中の日本の戦力調査を行った。
写真などの記録映像には一切残っていなかったが、沖縄で座礁した長門型戦艦を破壊したのは確実であり、多くの目撃者もいたし、座礁した状態で行われた艦砲射撃による米軍の損害も確実に存在していた。しかし、戦艦長門の残骸が消えていたのである。
戦時中の戦場伝承で、「青白い顔をした日本兵は死ぬと消える」というものがあり、歴戦のアメリカ兵の間では有名な話だった。
また、日本が運用した空母の数もおかしく、撃沈したと考えられていた空母が健在であったり、そういう空母に限って写真には写らなかったりしたのである。
アメリカがこれら不可解な艦艇や兵士の情報を日本に求めると、決まって「彼らは英霊である」と答えられたのだった。
戦後ほどなくして国共内戦が起き、敗れた国民党政府は米軍が駐留する満州方面へと撤退。国民党軍を追撃する共産党軍に対し、アメリカは原子爆弾を投下し、国共内戦は停戦となった。満州へ逃れた国民政府は、アメリカの傀儡政権となった。
朝鮮半島も独立したものの、アメリカの傀儡となっていた。
その後ソ連も核実験を成功させ、世界は東西冷戦体制となっていった。
樺太では米ソが国境を接しており、それぞれが自由主義と共産主義の優位性を示すため、その土地に見合わない発展を遂げていた。
日本はアメリカの下、国共内戦の影響で再軍備が行われ西側陣営となり、円安の影響で急速に経済発展していった。
経済発展に伴い農村からは小作人が消え格差が小さくなっていき、民主主義国家にもかかわらず最も成功した社会主義国家などと揶揄されるような国となっていった。
華族制度はなくなったものの財閥は維持されており、重厚長大な産業を担っていた。
自動車や半導体産業が強くなり過ぎ、アメリカと経済摩擦が起きるも軟着陸させることに成功し、1980年代から90年代は緩やかに経済成長が続いていった。
所得税や法人税は高いままであり、これにより格差が小さく、企業は税金に取られるぐらいならと設備投資や労働者への給与を多く支給した。
一億総中流とも呼ばれたこの状態は、一部の富裕層を除き歓迎されており、累進課税の課税対象税額が次第に引き上げられてはいったが、高い税率は続いていった。
90年代以降の所得税は、平均年収の10倍の年収が50%の課税対象税額となっていた。なので庶民には全く関係のない話といえたのだった。
ちなみに累進課税の最高税率75%の課税対象税額は、平均年収の25倍の年収となっていた。
その後もIT革命と呼ばれる時期も緩やかな経済成長は続いた。
2010年頃から始まった富裕層による税金の安い国への移住問題は、結局のところ多少日本の税金を下げたところで移住は止められないとして、日本の高い税率は変化しなかった。
2025年は戦後80年という事もあり、今では証拠がないため戦場伝承となった英霊達の戦いを、「英霊達の太平洋戦争」として映画化された。
現代の科学では証明できない事が当時起きており、そのおかげで圧倒的物量を誇ったアメリカと最後まで戦えていたと伝えている。
日本は2026年現在も、格差の少ない社会主義的な世界第二位の経済大国として、緩やかに経済成長を続けているのであった。
お読みいただきありがとうございました。




