Act3 ガラス越しの残響
航聖が指先で最後のログを保存すると、地下室の空気を震わせていた巨大な換気扇と、サーバーの唸りがぷっつりと途絶えた。急激に訪れた静寂。
龍輝は、まだ熱を帯びたままの自分の右足を、幽霊でも見るかのように見つめていた。だが、その張りつめたいとを断ち切ったのは、あまりにも場違いで、あまりにも平凡な学生らしい少女の声だった。
「……ふぅ__!あ__疲れたぁ。ねえ、龍輝、あたしお腹ペコペコなんだ。帰りにニンニクラーメン食べに行きたいっ!!」
さっきまで吹っ飛ばされていたことなんて、今の彼女にはもう「終わったこと」なのだ。
希はプロテクターを脱ぎ捨て、いつものように弾けるような笑顔で龍輝に近づく。彼女の瞳には彼とやり合ったことも、この訓練の意図も考えることなく、ただ「ラーメンが食べたい」という純粋な欲望だけがそこにはあった。
「……お前……大丈夫なのか?さっき、あんなに……」
「いいから早く行こうよ。駅前の「にんにくラーメン薩摩屋」さん。学生は大盛り無料なんだよ?」
そういって、希はひょいと舌を出して笑う。
龍輝は、呆気に取られるも、毒気をぬかれたようにふっと微笑を浮かべる。それは、かつて加納家の中にいた少年が決して出すことのない表情であった。
「……わかったから、押すなって。行くから」
ぶっきらぼうに応じる龍輝の表情がわずかに和らぐ。彼にとって希の存在は暗闇の中で振り回される命綱のようなものだ。その無邪気な明るさがなければ、彼は自分の犯してきた「過去」の重みに、とうの昔に押し潰されていたかもしれない。
その二人を無視したように、航聖は自分のタブレットを感情の読めない瞳で見ていた。
「航聖は……行かないか……やっぱり……ね」
「今日中に変更してしておきたいプログラムがあるんだ。……悪いな」
キーボードを叩く指先は、機械のように正確で正しい。航聖という男の真意は、誰にも分からない。彼は薫の『共犯者』でありながら、同時にこのチーム全体を動物実験のように観察しているようにも見える。そのミステリアスな沈黙は、地下拠点の壁よりも堅固だった。
出口の扉に手をかけた薫は、そこで一度だけ背後を振り返った。
楽しげにラーメン談義をしあう龍輝と希の背中。そして無機質なデータと対話する航聖。
(……救われているのは、きっと私の方なのね)
薫は心の中で、誰にも聞こえないつぶやきを漏らした。
龍輝を「母親」という鎖で縛り、希を「自由」という名の舞台へ誘い込み、この場所に留まらせているのは自分だ。彼女は彼らを飼いならしているつもりでいながら、自分こそが姫神会という冷たい深海で、窒息死してしまうことを自覚していた。
彼らが笑っているから、自分も「人間」の振りができる。
彼らが拳を振るうから、自分も「明日」を計算できる。
扉を開け、地上へつながる階段を一歩上がることに、薫は地下の熱を振り払い、冷静な「令嬢」の仮面を被り直していく。
校門の前に佇む、漆黒の送迎車。それは、彼女を再び「姫神会」へと運ぶ護送車のようにも見えた。
「お嬢様、お疲れ様です。……本日の総帥との会食、お忙しいところ恐縮ですが、ご足労頂けますと幸いです」
運転手の抑揚のない声に薫は答えない。
車内に広がる死んだように清潔な革のにおい。
膝の上の握りしめたバッグには、航聖から共有されたばかりの「BREAK」の最新ログが入っている。
(笑っているがいい、お父様。……あなたが愛してやまないその『世界』を、私たちの宝物たちが、内側から破壊するその日まで)
車が料亭の門をくぐる。
静寂の中で、薫の瞳には、かつてリングの上で見た希の光と、路地裏で見た龍輝の飢えた牙が、静かな反逆の炎となって揺らめいていた。
薫は女神でも救世主でもありません(笑)




