表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

無能と呼ばれた少女は、今日も鉛筆を握る

作者:
掲載日:2025/12/14

いじめ描写があります(軽度)


小田桜おだ さくらは、ほんと何もできないよな」


 何度聞いたか分からないその言葉に、もう驚きはなかった。


 テストはいつも平均より少し下。

 運動神経もなく、リレーでは足を引っ張る。

 人前で話そうとすると、頭が真っ白になって言葉が出てこない。


 クラスの中心にいる子が笑いながら言う。


 「ねえ先生、小田さん当てるのやめた方がよくないですか? 時間の無駄っていうか」


 教室のあちこちから、くすくすと笑いが漏れる。

 先生は苦笑いだけして、別の子を指さした。


 ——ああ、まただ。


 桜は自分の名前が黒板に書かれていくのを、ぼんやりと見ていた。

 「本日の発言なし」の印として、ちいさな×印が並んでいく。


 (どうせ……私なんかが手を挙げても、変な空気になるだけだし)


 「無能」「役立たず」「空気」。

 そんな言葉が、日常の一部になっていた。



 学校だけじゃない。

 家でも、状況はあまり変わらなかった。


 「桜、また赤点ギリギリじゃない」


 食卓にテスト用紙が叩きつけられる。

 母の声は、いつもとがっている。


 「ごめんなさい……」


 「謝ればいいってものじゃないの。お姉ちゃんを見なさいよ。琴音はいつも学年トップ。部活も生徒会も大忙し。それなのにあんたは、何か一つでも胸張って言えるものある?」


 隣で静かに味噌汁を飲んでいた姉の琴音ことねが、気まずそうに顔を上げた。


 「あの、ママ。桜だって——」


 「琴音は口を出さないで。桜のためにならないでしょ」


 母の言葉に、琴音は口をつぐむ。

 父は新聞をめくる手を止めない。


 「……努力すれば、誰だってできるようになるのよ。努力が足りないのよ、桜は」


 何度も聞いた言葉。

 そのたびに胸の中で、小さな何かがしぼんでいく気がした。


 ——努力してないわけじゃない。

 でも、報われたことなんて一度もなかった。


 「すみません」としか言えなくて、桜は箸を置いた。


 部屋に戻ると、机の上にはぐちゃぐちゃになったノートが積まれている。

 「頑張ろう」と何度も決意して、それでも何も変わらなかった証拠だ。


 (……私、本当に何もできないのかな)


 枕に顔を押しつけて、声にならないため息を吐く。

 涙は出なかった。ただ、空っぽな感じだけが残った。



 転機は、二年生の春だった。


 放課後、提出し忘れたプリントを持って職員室に向かう途中。

 桜は美術室の前で足を止めた。


 ドン、ドン、と一定のリズムで何かを叩く音。

 木の粉の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。


 「……?」


 好奇心に引かれて、そっと扉を開ける。


 中には、ひとりの女子生徒がいた。

 肩までの黒髪をひとつに結び、真剣な眼差しで木を彫っている。


 同じクラスの美術部エース——如月光莉きさらぎ ひかり


 作品展で何度も名前を聞いたことがある。

 先生から「天才」とまで言われた子だ。


 光莉はこちらに気づいて、手を止めた。


 「……なに?」


 その目が、一瞬だけ「ああ」という色を帯びる。

 桜の存在を理解した、というより、「無能なクラスメイト」というラベルを確認した目だった。


 「ごめんなさい、通りかかっただけで……」


 「ああ、そう。部員募集じゃないなら、用はないよね」


 素っ気ない言葉。

 でも、桜の目は光莉の手元から離せなかった。


 木の塊が、少しずつ人の形になっていく。

 彫刻刀が滑るたびに、白い木屑が柔らかく飛び散る。


 (……きれい)


 気づけば、言葉が口をついて出ていた。


 「それ……すごいね」


 光莉は眉をピクリと動かす。


 「……興味あるの?」


 「わ、私なんかが言うと、変かもしれないけど……。なんか、見てると、胸のあたりが、あったかくなるというか……」


 うまく言葉にできない。

 でも、目の前の光景から、視線をそらせなかった。


 光莉はため息をついて、少しだけ肩の力を抜いた。


「好きに見てれば。邪魔しなければ、別にいい」


 「……うん」


 その日、桜はプリントを職員室に出し忘れた。



 それから数日、桜は放課後になると美術室の前をうろうろするようになった。


 中に入る勇気はない。

 でも、扉の隙間から聞こえる彫刻刀の音を聞いているだけで、心が少し落ち着くのだ。


 そんなある日。

 背後から声がして、桜は飛び上がった。


 「ねえ、ストーカー?」


 振り向くと、光莉があきれた顔で立っていた。


 「ひ、ひっ……!? ご、ごめんなさい!」


 「そんなに驚かなくても。毎日扉の前にいるから気になってたんだけど」


 光莉は腕を組み、じっと桜を見る。


 「入りたいなら入れば? 見てるだけって、逆に落ち着かないんだけど」


 「……入って、いいの?」


 「あなた、無害っぽいし」


 さらりと言われた「無害」の二文字に、桜の胸がちくりとした。


 (……有害よりマシ、かな)


 自分で自分を茶化すように心の中でつぶやきながら、桜はおそるおそる美術室の敷居をまたいだ。



 最初は、本当にただ見ているだけだった。


 光莉が黙々と木を削り、形を整えていく様子を、教室の隅の椅子に座ってじっと眺めるだけ。


 「退屈じゃないの?」


 ある日、光莉が首を傾げた。


 「ううん。なんか……落ち着く」


 「変わってるね」


 そう言いながらも、光莉の顔にはどこか楽しそうな色が浮かんでいた。


 数日後、光莉が不意に言った。


 「やってみる?」


 「え……?」


 目の前に、小さな木のブロックと彫刻刀が置かれる。


 「そんな目で見てるからさ。少しくらい触ってみたいでしょ」


 「で、でも、私、不器用だし……」


 「知ってる」


 即答されて、桜は肩をすくめた。


 「だけど、別に上手くやれなんて言ってない。……ただ、やってみたいって顔してるから」


 光莉はそう言って、桜の手に彫刻刀を握らせた。


 重くて、冷たい。

 でも、その冷たさが少しだけ心地いい。


 「ここを、こう……?」


 桜が恐る恐る刃を当てると、木が「ザリッ」と音を立てた。

 思ったよりも簡単に、木の表面が削れる。


 削れたところは、少しだけ白くて、なめらかで。

 指でなぞると、ささやかな感触が返ってきた。


 「……すごい」


 ただ木を削っただけなのに、胸の中で何かが弾けた気がした。


 光莉が横目でこちらを見る。


 「楽しい?」


 「……うん」


 答えたとき、桜の声はいつもより少しだけはっきりしていた。



 それから桜は、ほぼ毎日美術室に通うようになった。


 「小田、今日も美術室? あんた、そんな暇あったら勉強したら?」


 クラスメイトが笑い混じりに言う。

 廊下ですれ違うたび、「無能が芸術?」とひそひそ声が追いかけてくる。


 前なら、そのたびに足が止まっていた。

 けれど今は、ぎゅっと教科書を抱きしめて、ただ前だけを見て歩く。


 美術室の扉を開ければ、木の匂いがする。

 光莉がいて、彫刻刀の音がする。


 その空間だけは、桜にとって「無能」というラベルが少し薄くなる場所だった。


 「また来たの?」


 「……来ても、いい?」


 「毎回聞かなくていい。もう半分部員みたいなものでしょ」


 ぶっきらぼうな言い方だけど、拒絶の色はなかった。



 しかし、上手くいくことばかりではない。


 最初のうちは、木を削り過ぎて形が崩れたり、指を切って血がにじんだり。

 出来上がったものも、よく言えば“味がある”、悪く言えば“歪んだ何か”だった。


 「……やっぱり、私、センスないよね」


 ポキリと音を立てて、桜は途中まで削った木片を机に置いた。


 光莉はそれを手に取り、しばらく眺める。


 「うん、上手くはない」


 正直な言葉に桜の肩が落ちる。


 「だ、よね……」


 「だ・け・ど」


 光莉は、指先で桜の作品の一部を軽く叩いた。


 「ここ。ここだけ、やたら丁寧」


 そこには、小さな手の形が彫られていた。

 ぎこちないけれど、その指は何かを必死につかもうとしているように見えた。


 「たぶん、あなたが一番『こう見せたい』って思ってたの、この部分でしょ」


 「……うん」


 「じゃあ、センスゼロではない」


 光莉はそう言って、笑った。

 その笑顔に、桜の胸の中でまた何かがあたたかく灯った。



 夏の終わり、美術の先生からお知らせがあった。


 「市の高校生アートコンテスト、今年も出品する人募集するぞ。彫刻部門もあるから、やりたい人は名乗り出なさい」


 当然のように、教室中の視線が光莉に集まる。


 「如月は出すんだろ?」


 「まあ、一応ね」


 光莉は面倒くさそうに言いながらも、その目は少しだけ燃えていた。


 そのときだった。


 「先生……わ、私も、出してみたいです」


 教室の空気が一瞬で凍りつく。


 誰も手を挙げないと思われていた場所に、恐る恐る伸ばされた桜の右手。

 自分でも震えているのが分かったが、それでも引っ込めなかった。


 「お、おい、マジかよ」


 「無能がコンテストとか、ネタ?」


 ひそひそ声が一斉にざわめく。

 先生は目を丸くしたあと、ゆっくりとうなずいた。


 「……やってみたいなら、やってみなさい。ただし、本気でやるんだぞ」


 「はい」


 その返事はかすれていたけれど、桜の心の中では確かな音を立てて響いた。



 コンテストに向けて制作を始めることになった桜は、美術室で光莉と並んで作業する時間が増えた。


 テーマは「つながり」。


 「何を作るの?」


 光莉が尋ねると、桜はしばらく考え込んだあと、ぽつりと答えた。


 「……手、がいい」


 「手?」


 「うん。誰かの背中を、そっと押してる手。……押してるつもりだったのに、実は自分が支えられてた、みたいな」


 拙い説明を聞いて、光莉は少しだけ目を見開いた。


 「……いいじゃん」


 短い一言が、桜の背中を押した。


 それからの日々は、今までの人生で一番「忙しい」時間だった。


 学校では授業に追われ、家に帰れば母の小言とテストの束。

 それでも桜は、何とか時間をやりくりして美術室に通った。


 指先はいつも絆創膏だらけ。

 腕は筋肉痛で重くなる。

 失敗してはやり直し、形を変え、何度も何度も木と向き合った。


 「ほんと、よくやるよね」


 光莉が感心したようにつぶやいた。


 「……私、今まで、何やっても続かなかったから」


 桜は、削りながらぽつりと言う。


 「塾も、習い事も、中途半端で。周りに比べたら全部下手で、遅くて。……でも、木を触ってるときだけは、やめたくないって思う」


 光莉は黙って聞いていたが、しばらくして口を開いた。


 「ねえ、小田」


 「なに?」


 「あなたは不器用だけど、サボらない」


 不意の言葉に、桜は彫刻刀を持つ手を止めた。


 「無能じゃないよ。……少なくとも、努力しない人よりずっといい」


 その一言が、桜の胸の奥深くに静かに沈んでいった。



 だが、コンテストの提出締め切りが一週間後に迫ったある日。

 事件は起こった。


 放課後、いつものように美術室に向かうと、扉の前に人だかりができていた。


 「うわ、マジで最低」


 「やりすぎじゃない?」


 聞き慣れたクラスメイトたちの声。

 嫌な予感が、背筋を駆け上がる。


 「……なに、が……」


 桜が人をかき分けて中に入ると、目の前の光景に息が止まった。


 自分の作品が——倒れていた。


 丁寧に彫り進めていた「手」の像。

 その指が、無惨に折れている。

 台座には、雑に蹴ったような跡。


 床には木屑が散らばり、彫刻刀が転がっていた。


 足が震えた。

 視界がぐにゃりと歪む。


 「ご、ごめ……ん、なさい……私……私……」


 自分が何を謝っているのかも分からなかった。

 ただ、喉から勝手に言葉がこぼれた。


 そのとき、ガタン、と椅子が大きな音を立てた。


 「ふざけないで」


 教室の空気が凍る。

 光莉だった。


 いつも冷静な彼女の声が、はっきりと怒りを帯びていた。


 「誰がやったの?」


 誰も答えない。

 沈黙だけが重く落ちる。


 「言っとくけど、先生に報告したら防犯カメラ確認されるよ。この学校、廊下にもついてるから」


 クラスメイトたちの中で、何人かがびくりと肩を揺らした。


 やがて、そのうちのひとりが、乾いた笑いを浮かべる。


 「べ、別にさ……ちょっとつまずいただけで——」


 「つまずいただけで、ここまで壊れない」


 光莉の目が細くなる。


 「小田が毎日どれだけここで頑張ってたか、知ってたでしょ。それを笑って見てるだけならまだしも、壊すなんて——」


 そこで光莉は言葉を切り、ぐっと拳を握りしめた。


 「無能って笑ってたのは、努力しないあなたたちの方じゃない?」


 教室中が、シンと静まり返った。



 桜はその場に膝をつき、折れた指を両手で拾い集めていた。


 視界がぼやけて、何がなんだか分からない。

 せっかく少しずつ形になってきた作品。

 初めて、自分から「作りたい」と思ったもの。


 (やっぱり、私がやろうとすることは、全部ダメになるんだ)


 そんな考えが頭の中をよぎったとき、肩にそっと手が置かれた。


 「……直そう」


 光莉だった。


 「締め切り、まだ一週間ある。全部作り直すのは無理だけど、形を変えることならできる」


 「……でも」


 「でもじゃない。……ねえ小田、あなた、あきらめたい?」


 桜は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。


 「……やだ」


 かすれた声だった。

 胸が痛くて、喉も苦しくて、それでも。


 「やだ……。ここまで、やっと頑張って、きたから……」


 「じゃあ、続けよ」


 光莉は、折れた指の一つを拾い上げた。


 「壊されたことも、作品にしてやろう。……『折れてもまた繋がる』ってテーマにすれば、むしろ説得力増すし」


 ぽかんとしている桜に、光莉は笑いかけた。


 「あなたのテーマ、“繋がり”でしょ? だったら、壊れたって、また繋げばいい」


 その言葉に、桜の視界が少しずつはっきりしていった。



 それからの一週間は、嵐のようだった。


 放課後だけでは時間が足りず、朝早くから美術室に入り、昼休みも少しだけ作業する。

 光莉も自分の作品を進めながら、合間に桜の作品を手伝った。


 折れた指は、あえて継ぎ目が分かるように接着し、その上から丁寧に彫り直した。

 傷跡のような筋が、逆に作品に表情を与えていく。


 「ここ、もう少しだけ削って」


 「こ、こう……?」


 「うん、そう。それでいい。……ねえ小田」


 「なに?」


 「あなた、最初来たときより、手つき全然違うよ」


 言われて、自分でも驚いた。


 彫刻刀を握る指先に、少しだけ自信が宿っている。

 木の感触も、力の入れ具合も、前よりずっとよく分かる。


 「……そうかな」


 「そうだよ。私、天才だから、そういうの分かるんだよ」


 自信満々に言ってから、光莉はふっと表情を和らげた。


 「天才の私が言うんだから、間違いない」


 桜は、思わず笑った。



 そして提出日。


 ギリギリまで手を加えて、二人はなんとか作品を完成させた。


 桜の作品のタイトルは、「つなぐ手」。


 互いに向き合う二つの手。

 片方の指には、継ぎ目の跡が刻まれている。

 それでも、その手はしっかりと相手の手をつかんでいる。


 「……ありがとう、光莉ちゃん」


 搬入を終えた帰り道、桜がぽつりと言う。


 「私、一人だったら、とっくにあきらめてた」


 光莉は少しだけ首をかしげて言った。


「私だって、一人じゃここまで言えなかったよ」


 「え?」


 「壊した子たちに怒ったとき、いつもみたいに見て見ぬふりすれば楽だった。でも、あなたが毎日ここで一生懸命やってるの見てたから、言わずにいられなかった」


 夕焼けが二人の影を長く伸ばす。


 「……だからたぶん、私もあなたに背中押されてた」


 そう言って、光莉はわざとらしく肩をすくめた。


 「ほら、作品のコンセプト通りでしょ。“押してるつもりが、押されてた”ってやつ」


 桜は胸がいっぱいになって、うまく返事ができなかった。

 それでも、頬が自然と緩んでいくのを止められなかった。



 結果が出たのは、それから二週間後。


 月曜の朝、学校全体にコンテストの結果が張り出される。

 桜は緊張で手汗が止まらず、掲示板の前に立つ足が震えていた。


 「一緒に見に行こ」


 光莉が隣に立ってくれる。

 それだけで、少しだけ勇気が湧いた。


 ざわめく廊下。

 掲示板の前に人だかり。


 「如月、やっぱ入賞してる!」

 「すげー、さすが美術部の星!」


 あちこちから歓声が上がる。

 光莉の名前は、予想通り上位にあった。


 桜は、震える指で視線を下に移していく。

 入選、佳作、奨励賞——。


 (あるわけ、ないよね)


 そう思いかけたとき。


 「……あった」


 横から光莉の声がした。


 「え?」


 「ここ」


 光莉の指先が止まった場所に、自分の名前があった。


 ——彫刻部門 奨励賞

 ——小田桜「つなぐ手」


 「……え」


 頭が真っ白になった。


 見間違いかと思って、何度も瞬きをする。

 けれど、そこに書かれた文字は消えなかった。


 「お、おだ……? 嘘だろ」


 「マジで……?」


 近くにいたクラスメイトたちがざわめき始める。

 昨日まで「無能」と笑っていた顔が、今は驚きと戸惑いで歪んでいた。


 その中の一人が、気まずそうに言う。


 「……すごいじゃん、小田」


 ぎこちない言葉。でも、それは確かに「称賛」だった。


 桜は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


 (……褒められた)


 勉強でも、運動でもない。

 自分が「やりたい」と思ったことで、初めて。


 うまく返事ができなくて、ただぺこりと頭を下げる。


 「おめでとう」


 光莉が、真っ直ぐな目で言った。


 「ありがとう、光莉ちゃん」


 今度は、はっきりと声に出せた。



 その日の帰り、家に戻ると母がリビングで待っていた。


 「桜」


 呼び止められて、背筋が凍る。

 何かまた小言を言われるのだろうか、と身構えた。


 しかし、母の手には一枚の紙が握られていた。


 「先生から電話があってね。これ、学校からもらってきた」


 差し出されたプリントには、コンテスト入賞者の一覧が印刷されている。

 そこには、はっきりと自分の名前が載っていた。


 「……本当に、あんたなのね」


 母は、信じられないというように桜の顔を見た。


 「どうせすぐ辞めると思ってたわ。美術室に通ってるって聞いたときも、また中途半端なんだろうって。……でも、続けてたのね」


 桜は、小さくうなずいた。


 「うん」


 沈黙が落ちる。

 時計の秒針の音が、妙に大きく聞こえた。


 やがて、母はふうっと長い息を吐いた。


 「……ごめんね」


 思ってもみなかった言葉に、桜は目を見開いた。


 「ママ?」


 「琴音と比べてばっかりで、あんたのことをちゃんと見てなかった。努力してないって決めつけてた」


 母の声が、少し震えている。


 「無能なんかじゃなかったのね。……あんた、ちゃんと、自分の力で賞を取ってきた」


 桜の胸の奥で、何かがほどけた。


 「わ、私……まだまだ下手だし……。光莉ちゃんが助けてくれたからで……」


 「それでも、あんたがやったことでしょ」


 母は、桜の肩をぎゅっと抱き寄せた。


 「おめでとう、桜」


 耳元で聞こえたその言葉に、今度こそ涙があふれた。



 次の日、教室に入ると、クラスの空気が少しだけ違っていた。


 「昨日のニュース、見た? 学校のホームページに作品の写真載ってたよ」


 「“つなぐ手”ってやつでしょ。けっこう、なんていうか……ぐっときた」


 「折れてる指、あれわざとなんだってな。先生が説明してた」


 桜の机の周りには、自然と人だかりができていた。


 「小田、すごかったな」


 「あのさ、この前は……その、ごめん」


 ひとりが頭を下げると、連鎖するように何人かが続いた。


 桜は一瞬言葉に詰まったが、やがて小さく笑った。


 「……ありがとう」


 許した、と簡単に言えるほど器用ではない。

壊された作品のことも、無能と笑われた日々のことも、完全には消えない。


 それでも——。


 (見てくれたんだ)


 自分の努力の跡を。

 自分が「無能」ではないと証明した、あの作品を。


 それだけで胸がいっぱいだった。



 放課後、美術室。


 いつものように彫刻刀の音が響く中、光莉がふと口を開いた。


 「ねえ、小田」


 「なに?」


 「これからも、続けるんでしょ?」


 木を削る手を止めずに尋ねる。

 桜は、迷いなくうなずいた。


 「……うん。もっと、上手くなりたい」


 「そっか」


 光莉は、それを聞いて満足そうに笑った。


 「じゃあ、今度は“ライバル”としてよろしく」


 「え?」


 「来年のコンテスト。また同じ部門出す。……今度は、私も負けたくないから」


 軽口に聞こえるけれど、その目は真剣だった。


 桜も笑う。


 「うん。負けたくない。……光莉ちゃんに、恥ずかしくないくらいにはなりたい」


 「もう十分だよ。……あ、でももうちょっと技術は磨こうか」


 「そこは厳しいんだね」


 二人の笑い声が、美術室に響く。



 無能と呼ばれてきた少女は、今日も鉛筆と彫刻刀を握る。


 まだ上手くはない。

 けれど、指先には前より少し力が宿っている。


 「どうせ無能なんだから」とうつむいていた自分に、

 今ならこう言ってあげられる。


 ——大丈夫。あなたは、何も持っていないわけじゃない。


 ——ただ、まだ「見つけてないだけ」なんだよ。


 桜は、新しい木の塊を前にして、深く息を吸い込んだ。


 「よし。……今日も、やろう」


 努力する背中は、小さくて、不器用で。

 それでも、まっすぐだった。


 その背中を、もう誰も「無能」だとは言わない。


 たとえ言う人がいたとしても、

 桜はきっと、前を向いたまま笑うだろう。


 ——私は、私の手で、私の道を削っていく。


 木屑が、やわらかく宙を舞った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ