無能と呼ばれた少女は、今日も鉛筆を握る
いじめ描写があります(軽度)
「小田桜は、ほんと何もできないよな」
何度聞いたか分からないその言葉に、もう驚きはなかった。
テストはいつも平均より少し下。
運動神経もなく、リレーでは足を引っ張る。
人前で話そうとすると、頭が真っ白になって言葉が出てこない。
クラスの中心にいる子が笑いながら言う。
「ねえ先生、小田さん当てるのやめた方がよくないですか? 時間の無駄っていうか」
教室のあちこちから、くすくすと笑いが漏れる。
先生は苦笑いだけして、別の子を指さした。
——ああ、まただ。
桜は自分の名前が黒板に書かれていくのを、ぼんやりと見ていた。
「本日の発言なし」の印として、ちいさな×印が並んでいく。
(どうせ……私なんかが手を挙げても、変な空気になるだけだし)
「無能」「役立たず」「空気」。
そんな言葉が、日常の一部になっていた。
◆
学校だけじゃない。
家でも、状況はあまり変わらなかった。
「桜、また赤点ギリギリじゃない」
食卓にテスト用紙が叩きつけられる。
母の声は、いつもとがっている。
「ごめんなさい……」
「謝ればいいってものじゃないの。お姉ちゃんを見なさいよ。琴音はいつも学年トップ。部活も生徒会も大忙し。それなのにあんたは、何か一つでも胸張って言えるものある?」
隣で静かに味噌汁を飲んでいた姉の琴音が、気まずそうに顔を上げた。
「あの、ママ。桜だって——」
「琴音は口を出さないで。桜のためにならないでしょ」
母の言葉に、琴音は口をつぐむ。
父は新聞をめくる手を止めない。
「……努力すれば、誰だってできるようになるのよ。努力が足りないのよ、桜は」
何度も聞いた言葉。
そのたびに胸の中で、小さな何かがしぼんでいく気がした。
——努力してないわけじゃない。
でも、報われたことなんて一度もなかった。
「すみません」としか言えなくて、桜は箸を置いた。
部屋に戻ると、机の上にはぐちゃぐちゃになったノートが積まれている。
「頑張ろう」と何度も決意して、それでも何も変わらなかった証拠だ。
(……私、本当に何もできないのかな)
枕に顔を押しつけて、声にならないため息を吐く。
涙は出なかった。ただ、空っぽな感じだけが残った。
◆
転機は、二年生の春だった。
放課後、提出し忘れたプリントを持って職員室に向かう途中。
桜は美術室の前で足を止めた。
ドン、ドン、と一定のリズムで何かを叩く音。
木の粉の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。
「……?」
好奇心に引かれて、そっと扉を開ける。
中には、ひとりの女子生徒がいた。
肩までの黒髪をひとつに結び、真剣な眼差しで木を彫っている。
同じクラスの美術部エース——如月光莉。
作品展で何度も名前を聞いたことがある。
先生から「天才」とまで言われた子だ。
光莉はこちらに気づいて、手を止めた。
「……なに?」
その目が、一瞬だけ「ああ」という色を帯びる。
桜の存在を理解した、というより、「無能なクラスメイト」というラベルを確認した目だった。
「ごめんなさい、通りかかっただけで……」
「ああ、そう。部員募集じゃないなら、用はないよね」
素っ気ない言葉。
でも、桜の目は光莉の手元から離せなかった。
木の塊が、少しずつ人の形になっていく。
彫刻刀が滑るたびに、白い木屑が柔らかく飛び散る。
(……きれい)
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
「それ……すごいね」
光莉は眉をピクリと動かす。
「……興味あるの?」
「わ、私なんかが言うと、変かもしれないけど……。なんか、見てると、胸のあたりが、あったかくなるというか……」
うまく言葉にできない。
でも、目の前の光景から、視線をそらせなかった。
光莉はため息をついて、少しだけ肩の力を抜いた。
「好きに見てれば。邪魔しなければ、別にいい」
「……うん」
その日、桜はプリントを職員室に出し忘れた。
◆
それから数日、桜は放課後になると美術室の前をうろうろするようになった。
中に入る勇気はない。
でも、扉の隙間から聞こえる彫刻刀の音を聞いているだけで、心が少し落ち着くのだ。
そんなある日。
背後から声がして、桜は飛び上がった。
「ねえ、ストーカー?」
振り向くと、光莉があきれた顔で立っていた。
「ひ、ひっ……!? ご、ごめんなさい!」
「そんなに驚かなくても。毎日扉の前にいるから気になってたんだけど」
光莉は腕を組み、じっと桜を見る。
「入りたいなら入れば? 見てるだけって、逆に落ち着かないんだけど」
「……入って、いいの?」
「あなた、無害っぽいし」
さらりと言われた「無害」の二文字に、桜の胸がちくりとした。
(……有害よりマシ、かな)
自分で自分を茶化すように心の中でつぶやきながら、桜はおそるおそる美術室の敷居をまたいだ。
◆
最初は、本当にただ見ているだけだった。
光莉が黙々と木を削り、形を整えていく様子を、教室の隅の椅子に座ってじっと眺めるだけ。
「退屈じゃないの?」
ある日、光莉が首を傾げた。
「ううん。なんか……落ち着く」
「変わってるね」
そう言いながらも、光莉の顔にはどこか楽しそうな色が浮かんでいた。
数日後、光莉が不意に言った。
「やってみる?」
「え……?」
目の前に、小さな木のブロックと彫刻刀が置かれる。
「そんな目で見てるからさ。少しくらい触ってみたいでしょ」
「で、でも、私、不器用だし……」
「知ってる」
即答されて、桜は肩をすくめた。
「だけど、別に上手くやれなんて言ってない。……ただ、やってみたいって顔してるから」
光莉はそう言って、桜の手に彫刻刀を握らせた。
重くて、冷たい。
でも、その冷たさが少しだけ心地いい。
「ここを、こう……?」
桜が恐る恐る刃を当てると、木が「ザリッ」と音を立てた。
思ったよりも簡単に、木の表面が削れる。
削れたところは、少しだけ白くて、なめらかで。
指でなぞると、ささやかな感触が返ってきた。
「……すごい」
ただ木を削っただけなのに、胸の中で何かが弾けた気がした。
光莉が横目でこちらを見る。
「楽しい?」
「……うん」
答えたとき、桜の声はいつもより少しだけはっきりしていた。
◆
それから桜は、ほぼ毎日美術室に通うようになった。
「小田、今日も美術室? あんた、そんな暇あったら勉強したら?」
クラスメイトが笑い混じりに言う。
廊下ですれ違うたび、「無能が芸術?」とひそひそ声が追いかけてくる。
前なら、そのたびに足が止まっていた。
けれど今は、ぎゅっと教科書を抱きしめて、ただ前だけを見て歩く。
美術室の扉を開ければ、木の匂いがする。
光莉がいて、彫刻刀の音がする。
その空間だけは、桜にとって「無能」というラベルが少し薄くなる場所だった。
「また来たの?」
「……来ても、いい?」
「毎回聞かなくていい。もう半分部員みたいなものでしょ」
ぶっきらぼうな言い方だけど、拒絶の色はなかった。
◆
しかし、上手くいくことばかりではない。
最初のうちは、木を削り過ぎて形が崩れたり、指を切って血がにじんだり。
出来上がったものも、よく言えば“味がある”、悪く言えば“歪んだ何か”だった。
「……やっぱり、私、センスないよね」
ポキリと音を立てて、桜は途中まで削った木片を机に置いた。
光莉はそれを手に取り、しばらく眺める。
「うん、上手くはない」
正直な言葉に桜の肩が落ちる。
「だ、よね……」
「だ・け・ど」
光莉は、指先で桜の作品の一部を軽く叩いた。
「ここ。ここだけ、やたら丁寧」
そこには、小さな手の形が彫られていた。
ぎこちないけれど、その指は何かを必死につかもうとしているように見えた。
「たぶん、あなたが一番『こう見せたい』って思ってたの、この部分でしょ」
「……うん」
「じゃあ、センスゼロではない」
光莉はそう言って、笑った。
その笑顔に、桜の胸の中でまた何かがあたたかく灯った。
◆
夏の終わり、美術の先生からお知らせがあった。
「市の高校生アートコンテスト、今年も出品する人募集するぞ。彫刻部門もあるから、やりたい人は名乗り出なさい」
当然のように、教室中の視線が光莉に集まる。
「如月は出すんだろ?」
「まあ、一応ね」
光莉は面倒くさそうに言いながらも、その目は少しだけ燃えていた。
そのときだった。
「先生……わ、私も、出してみたいです」
教室の空気が一瞬で凍りつく。
誰も手を挙げないと思われていた場所に、恐る恐る伸ばされた桜の右手。
自分でも震えているのが分かったが、それでも引っ込めなかった。
「お、おい、マジかよ」
「無能がコンテストとか、ネタ?」
ひそひそ声が一斉にざわめく。
先生は目を丸くしたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……やってみたいなら、やってみなさい。ただし、本気でやるんだぞ」
「はい」
その返事はかすれていたけれど、桜の心の中では確かな音を立てて響いた。
◆
コンテストに向けて制作を始めることになった桜は、美術室で光莉と並んで作業する時間が増えた。
テーマは「繋がり」。
「何を作るの?」
光莉が尋ねると、桜はしばらく考え込んだあと、ぽつりと答えた。
「……手、がいい」
「手?」
「うん。誰かの背中を、そっと押してる手。……押してるつもりだったのに、実は自分が支えられてた、みたいな」
拙い説明を聞いて、光莉は少しだけ目を見開いた。
「……いいじゃん」
短い一言が、桜の背中を押した。
それからの日々は、今までの人生で一番「忙しい」時間だった。
学校では授業に追われ、家に帰れば母の小言とテストの束。
それでも桜は、何とか時間をやりくりして美術室に通った。
指先はいつも絆創膏だらけ。
腕は筋肉痛で重くなる。
失敗してはやり直し、形を変え、何度も何度も木と向き合った。
「ほんと、よくやるよね」
光莉が感心したようにつぶやいた。
「……私、今まで、何やっても続かなかったから」
桜は、削りながらぽつりと言う。
「塾も、習い事も、中途半端で。周りに比べたら全部下手で、遅くて。……でも、木を触ってるときだけは、やめたくないって思う」
光莉は黙って聞いていたが、しばらくして口を開いた。
「ねえ、小田」
「なに?」
「あなたは不器用だけど、サボらない」
不意の言葉に、桜は彫刻刀を持つ手を止めた。
「無能じゃないよ。……少なくとも、努力しない人よりずっといい」
その一言が、桜の胸の奥深くに静かに沈んでいった。
◆
だが、コンテストの提出締め切りが一週間後に迫ったある日。
事件は起こった。
放課後、いつものように美術室に向かうと、扉の前に人だかりができていた。
「うわ、マジで最低」
「やりすぎじゃない?」
聞き慣れたクラスメイトたちの声。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
「……なに、が……」
桜が人をかき分けて中に入ると、目の前の光景に息が止まった。
自分の作品が——倒れていた。
丁寧に彫り進めていた「手」の像。
その指が、無惨に折れている。
台座には、雑に蹴ったような跡。
床には木屑が散らばり、彫刻刀が転がっていた。
足が震えた。
視界がぐにゃりと歪む。
「ご、ごめ……ん、なさい……私……私……」
自分が何を謝っているのかも分からなかった。
ただ、喉から勝手に言葉がこぼれた。
そのとき、ガタン、と椅子が大きな音を立てた。
「ふざけないで」
教室の空気が凍る。
光莉だった。
いつも冷静な彼女の声が、はっきりと怒りを帯びていた。
「誰がやったの?」
誰も答えない。
沈黙だけが重く落ちる。
「言っとくけど、先生に報告したら防犯カメラ確認されるよ。この学校、廊下にもついてるから」
クラスメイトたちの中で、何人かがびくりと肩を揺らした。
やがて、そのうちのひとりが、乾いた笑いを浮かべる。
「べ、別にさ……ちょっとつまずいただけで——」
「つまずいただけで、ここまで壊れない」
光莉の目が細くなる。
「小田が毎日どれだけここで頑張ってたか、知ってたでしょ。それを笑って見てるだけならまだしも、壊すなんて——」
そこで光莉は言葉を切り、ぐっと拳を握りしめた。
「無能って笑ってたのは、努力しないあなたたちの方じゃない?」
教室中が、シンと静まり返った。
◆
桜はその場に膝をつき、折れた指を両手で拾い集めていた。
視界がぼやけて、何がなんだか分からない。
せっかく少しずつ形になってきた作品。
初めて、自分から「作りたい」と思ったもの。
(やっぱり、私がやろうとすることは、全部ダメになるんだ)
そんな考えが頭の中をよぎったとき、肩にそっと手が置かれた。
「……直そう」
光莉だった。
「締め切り、まだ一週間ある。全部作り直すのは無理だけど、形を変えることならできる」
「……でも」
「でもじゃない。……ねえ小田、あなた、あきらめたい?」
桜は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「……やだ」
かすれた声だった。
胸が痛くて、喉も苦しくて、それでも。
「やだ……。ここまで、やっと頑張って、きたから……」
「じゃあ、続けよ」
光莉は、折れた指の一つを拾い上げた。
「壊されたことも、作品にしてやろう。……『折れてもまた繋がる』ってテーマにすれば、むしろ説得力増すし」
ぽかんとしている桜に、光莉は笑いかけた。
「あなたのテーマ、“繋がり”でしょ? だったら、壊れたって、また繋げばいい」
その言葉に、桜の視界が少しずつはっきりしていった。
◆
それからの一週間は、嵐のようだった。
放課後だけでは時間が足りず、朝早くから美術室に入り、昼休みも少しだけ作業する。
光莉も自分の作品を進めながら、合間に桜の作品を手伝った。
折れた指は、あえて継ぎ目が分かるように接着し、その上から丁寧に彫り直した。
傷跡のような筋が、逆に作品に表情を与えていく。
「ここ、もう少しだけ削って」
「こ、こう……?」
「うん、そう。それでいい。……ねえ小田」
「なに?」
「あなた、最初来たときより、手つき全然違うよ」
言われて、自分でも驚いた。
彫刻刀を握る指先に、少しだけ自信が宿っている。
木の感触も、力の入れ具合も、前よりずっとよく分かる。
「……そうかな」
「そうだよ。私、天才だから、そういうの分かるんだよ」
自信満々に言ってから、光莉はふっと表情を和らげた。
「天才の私が言うんだから、間違いない」
桜は、思わず笑った。
◆
そして提出日。
ギリギリまで手を加えて、二人はなんとか作品を完成させた。
桜の作品のタイトルは、「つなぐ手」。
互いに向き合う二つの手。
片方の指には、継ぎ目の跡が刻まれている。
それでも、その手はしっかりと相手の手をつかんでいる。
「……ありがとう、光莉ちゃん」
搬入を終えた帰り道、桜がぽつりと言う。
「私、一人だったら、とっくにあきらめてた」
光莉は少しだけ首をかしげて言った。
「私だって、一人じゃここまで言えなかったよ」
「え?」
「壊した子たちに怒ったとき、いつもみたいに見て見ぬふりすれば楽だった。でも、あなたが毎日ここで一生懸命やってるの見てたから、言わずにいられなかった」
夕焼けが二人の影を長く伸ばす。
「……だからたぶん、私もあなたに背中押されてた」
そう言って、光莉はわざとらしく肩をすくめた。
「ほら、作品のコンセプト通りでしょ。“押してるつもりが、押されてた”ってやつ」
桜は胸がいっぱいになって、うまく返事ができなかった。
それでも、頬が自然と緩んでいくのを止められなかった。
◆
結果が出たのは、それから二週間後。
月曜の朝、学校全体にコンテストの結果が張り出される。
桜は緊張で手汗が止まらず、掲示板の前に立つ足が震えていた。
「一緒に見に行こ」
光莉が隣に立ってくれる。
それだけで、少しだけ勇気が湧いた。
ざわめく廊下。
掲示板の前に人だかり。
「如月、やっぱ入賞してる!」
「すげー、さすが美術部の星!」
あちこちから歓声が上がる。
光莉の名前は、予想通り上位にあった。
桜は、震える指で視線を下に移していく。
入選、佳作、奨励賞——。
(あるわけ、ないよね)
そう思いかけたとき。
「……あった」
横から光莉の声がした。
「え?」
「ここ」
光莉の指先が止まった場所に、自分の名前があった。
——彫刻部門 奨励賞
——小田桜「つなぐ手」
「……え」
頭が真っ白になった。
見間違いかと思って、何度も瞬きをする。
けれど、そこに書かれた文字は消えなかった。
「お、おだ……? 嘘だろ」
「マジで……?」
近くにいたクラスメイトたちがざわめき始める。
昨日まで「無能」と笑っていた顔が、今は驚きと戸惑いで歪んでいた。
その中の一人が、気まずそうに言う。
「……すごいじゃん、小田」
ぎこちない言葉。でも、それは確かに「称賛」だった。
桜は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
(……褒められた)
勉強でも、運動でもない。
自分が「やりたい」と思ったことで、初めて。
うまく返事ができなくて、ただぺこりと頭を下げる。
「おめでとう」
光莉が、真っ直ぐな目で言った。
「ありがとう、光莉ちゃん」
今度は、はっきりと声に出せた。
◆
その日の帰り、家に戻ると母がリビングで待っていた。
「桜」
呼び止められて、背筋が凍る。
何かまた小言を言われるのだろうか、と身構えた。
しかし、母の手には一枚の紙が握られていた。
「先生から電話があってね。これ、学校からもらってきた」
差し出されたプリントには、コンテスト入賞者の一覧が印刷されている。
そこには、はっきりと自分の名前が載っていた。
「……本当に、あんたなのね」
母は、信じられないというように桜の顔を見た。
「どうせすぐ辞めると思ってたわ。美術室に通ってるって聞いたときも、また中途半端なんだろうって。……でも、続けてたのね」
桜は、小さくうなずいた。
「うん」
沈黙が落ちる。
時計の秒針の音が、妙に大きく聞こえた。
やがて、母はふうっと長い息を吐いた。
「……ごめんね」
思ってもみなかった言葉に、桜は目を見開いた。
「ママ?」
「琴音と比べてばっかりで、あんたのことをちゃんと見てなかった。努力してないって決めつけてた」
母の声が、少し震えている。
「無能なんかじゃなかったのね。……あんた、ちゃんと、自分の力で賞を取ってきた」
桜の胸の奥で、何かがほどけた。
「わ、私……まだまだ下手だし……。光莉ちゃんが助けてくれたからで……」
「それでも、あんたがやったことでしょ」
母は、桜の肩をぎゅっと抱き寄せた。
「おめでとう、桜」
耳元で聞こえたその言葉に、今度こそ涙があふれた。
◆
次の日、教室に入ると、クラスの空気が少しだけ違っていた。
「昨日のニュース、見た? 学校のホームページに作品の写真載ってたよ」
「“つなぐ手”ってやつでしょ。けっこう、なんていうか……ぐっときた」
「折れてる指、あれわざとなんだってな。先生が説明してた」
桜の机の周りには、自然と人だかりができていた。
「小田、すごかったな」
「あのさ、この前は……その、ごめん」
ひとりが頭を下げると、連鎖するように何人かが続いた。
桜は一瞬言葉に詰まったが、やがて小さく笑った。
「……ありがとう」
許した、と簡単に言えるほど器用ではない。
壊された作品のことも、無能と笑われた日々のことも、完全には消えない。
それでも——。
(見てくれたんだ)
自分の努力の跡を。
自分が「無能」ではないと証明した、あの作品を。
それだけで胸がいっぱいだった。
◆
放課後、美術室。
いつものように彫刻刀の音が響く中、光莉がふと口を開いた。
「ねえ、小田」
「なに?」
「これからも、続けるんでしょ?」
木を削る手を止めずに尋ねる。
桜は、迷いなくうなずいた。
「……うん。もっと、上手くなりたい」
「そっか」
光莉は、それを聞いて満足そうに笑った。
「じゃあ、今度は“ライバル”としてよろしく」
「え?」
「来年のコンテスト。また同じ部門出す。……今度は、私も負けたくないから」
軽口に聞こえるけれど、その目は真剣だった。
桜も笑う。
「うん。負けたくない。……光莉ちゃんに、恥ずかしくないくらいにはなりたい」
「もう十分だよ。……あ、でももうちょっと技術は磨こうか」
「そこは厳しいんだね」
二人の笑い声が、美術室に響く。
◆
無能と呼ばれてきた少女は、今日も鉛筆と彫刻刀を握る。
まだ上手くはない。
けれど、指先には前より少し力が宿っている。
「どうせ無能なんだから」とうつむいていた自分に、
今ならこう言ってあげられる。
——大丈夫。あなたは、何も持っていないわけじゃない。
——ただ、まだ「見つけてないだけ」なんだよ。
桜は、新しい木の塊を前にして、深く息を吸い込んだ。
「よし。……今日も、やろう」
努力する背中は、小さくて、不器用で。
それでも、まっすぐだった。
その背中を、もう誰も「無能」だとは言わない。
たとえ言う人がいたとしても、
桜はきっと、前を向いたまま笑うだろう。
——私は、私の手で、私の道を削っていく。
木屑が、やわらかく宙を舞った。




