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「うわあぁ! なんでこいつ襲ってくるんだ⁈ ──おおい、そこの人たち! た、助けてくれ!」
「はいはい、いいけどお宅、行商人? 技術料取るけどそれでいい?」
「いい、いい! 早く何とかしてくれぇ!」
「了解。まあ高くは無いから安心してよ」
草食動物の群れに追われた行商人が街道の外れから走ってくる。背負う荷物が大きな物音を立てながら揺れ、それが相手をさらに掻き立てる。大声で短い交渉を終えたハロディは、飛び込んできた行商人を背後に庇って剣を抜く。カレンとヴァルターは行商人と共に背後に待機し、アルトとガウリーが前に躍り出る。タケルはハロディの横で弓を構えながら、前に出た二人に襲い掛かる群れを注視する。
森から逃げ出してきた狩人、小川で休憩していたところを襲撃された行商人、賞金首とは別の動物に襲われていた旅人──あれから、そんな被害者たちと遭遇する事が続いていた。これまで目を疑うほどの変貌した姿を見せていた”モル”だったが、もはや姿などは関係ない。普段は大人しく、人が近寄れば逃げてしまうような草食動物ですら異様な凶暴化を見せ、茂みから現れては人を襲うのだ。たった一晩で一変した状況に、ハロディたちですら戸惑いを見せていた。
始めは行きがかりに助けていたタケルたち一行だったが、あまりに頻発する状況に、ハロディの提案で”依頼”とすることにした。相手は命の危機に晒されながら選択の余地なく了承するため、今のところ断られたことはない。此度の群れも、アルトの疾風のような動きと、ガウリーの風の魔法に翻弄されて森の方へ散って行く。はじめは鎖鉄球で応戦していたガウリーだったが、血の匂いに煽られて新手が来た事がきっかけで、それ以来やけくそのように魔法で追い払う戦法に変えていた。
かくいうタケルも、矢を放ってしまえば相手を傷つけるだけだ。血や死体が何かを呼び寄せてしまうことを考えると、緊急時以外は手を出せない。しかしもとより、タケルはこの地に来てから初めて生き物に矢を放っている。全て危機的状況を脱するためとはいえ、師匠である轍の教えに反するその行為。無闇に矢を放たなくて良い状況に、内心では安堵していた。
「はあ、はあ……いや、助かったよ。全く一体この辺の動物たちはどうしちまったんだ? これじゃおちおち野宿も出来ないじゃないか」
「それは僕らも同感だよ。でも、どうやらこの辺に限った話じゃないっぽいんだよね。だから、可能ならリューデやアルマで用心棒的なのを雇った方が賢明だと思うよ」
一件落着となった後、報酬の受け渡しをしながら行商人が苦い顔をする。今回は急を要する事態だったが、用心棒となると先への投資だ。思わぬ出費の可能性に溜息が隠せない。
「この先でもああいうのが頻発してるみたいだから、なるべく藪を突くような事はしない方がいい。今持ってる物だけで目的地まで行って商売するんだね」
「はあぁ……まあ、ありがとな。肝に命じるよ」
行商人と別れ、再び街道を進む。ハロディは道中で取り分を抜いた金額をカレンに渡す。受け取った彼女は手に乗せた布袋を複雑な眼差しで見つめていた。
「……本当に、よろしいのでしょうか?」
「それはどの件かな? 人助けを依頼にしてること? それとも、”そっちの荷物”のこと?」
先頭を歩くハロディが半身を振り返って荷台を指す。そこにあるのは、遊芸師を目指す旅人──カラの楽器を持ち去って消えた行商人の荷物が乗せられている。中身を改めたが持ち主を示す物は見つからなかった。故に、すれ違う行商人などに特徴を伝えて聞き込みもしたが、未だ特定にまでは至っていない。
ハロディは手掛かりの無い荷物に対し、もし見つからなければ、旅の足しにするのも手だと提案した。渋ったカレンだったが、とはいえどうしようもないことも事実だ。彼女は言葉を飲み込んで頷くしか無かった。
加えてカレンははじめ、こうして道中の人助けに依頼を捻じ込むやり方にも煮え切らない表情をしていた。しかしこれにはアルトが珍しく彼女に進言した。
「”腕を売る”のは正当な権利といえよう。我々もタダで命を懸けているのではないからな」
「……そうですわね。配慮が足りませんでした」
「構わぬ。立場が違えば分からぬこともある」
カレンがそれでも複雑な顔をするのは、その手がただ受け取ることしかしていないからだろう──タケルは少し前のやり取りを思い出しながら、ハロディの問いかけに対し伏し目がちに黙り込む事しか出来ないカレンの横顔を眺めた。しかし掛ける言葉も見つけられず、ただ見守ることしか術が無い。人助けの依頼をこなすたびに口数の減っていく彼女を驚かせたのは、ヴァルターだった。
「憂うことなどございませんよ、カレン様。もともと此奴らは我々がいなければこうして依頼にありつけることも無かったのです。これは契約に準じた正当な権利なのですよ」
「……間違っちゃいないけど、もうちょっとなんかこう、言い方ってもんが無いもんかねぇ……?」
半ば利己的にも聞こえる言い分に苦笑するハロディだったが、それだけだった。こうしたヴァルターの物言いは、不思議と助けになる事が多いのだ。その証拠にカレンの表情もそれ以来、心なしか吹っ切れたようにも見えた。
街道を進むと、景色は緑の丘陵地帯から徐々に荒地へと変わっていく。街道は広大な森に沿って進むが、視界の先には岩場や乾燥地帯が姿を見せ始め、遠いクラルス地方には岩山の連なりが霞んでいる。煉瓦道もいっそう疎らになり、荷車の車輪は小石を踏んでは弾き、引き手のヴァルターは顔を顰めた。
「クラルス地方は乾燥地帯だから、ここらとはちょっと景色が変わるんだ。街道は大きく曲がってアンスール地方に向かうから、街道の景色が変わるのはこの辺だけなんだよ」
「では、もうじきクラルス地方とやらの関所付近ということか」
「そうだね。関所周辺にちょっとした集落はあるけど”あっち側”だから、僕らはひとまずそのままアンスール地方の関所に行ってしまおう。そんなに離れてないし」
アンスール地方への関所に着く頃にはまた夜だ。関所の片隅で野宿をすることになるだろう。付近の森には泉もあるため、野営出来る空間が用意されているとのことだった。
「しかし、ようやく半分か」
「そうだね。モルが現れなければもっとすんなり行けたはずだけど……依頼にはありつけたから何とも言い難い」
先頭を歩くハロディとヴァルターがしみじみと語り合いながらゆったりと歩を進める。続くカレンもその頃には遠くに見える黄土色の景色を眺め、表情を弾ませていた。
「カラ様はあのクラルス地方から来たとおっしゃっていましたね。あのような岩山や、大地の剥き出しになったような場所にはどんな街があるのか……覗いてみたくなってしまいますわね」
「……うん、まあ」
差し当たり、いつもの調子を取り戻したように見えるカレンに、タケルが曖昧に同意する。するとカレンはハッとして口元を押さえ、眉尻を下げた。
「すみませんタケル様。アカツキの手がかりを探す旅でもありますのに」
「え? いや、別にいいよ。──なんか俺もよく分かんねぇけど、前ほど焦ってねぇんだ。戻りたい気持ちはあるし気がかりもあるんだけど、だんだん薄まっていく感じ」
「……それは、どういった心境の変化なのでしょう?」
「さあ? こっちに来て色々あったから、そのせいかな」
肩を竦めるタケルを、気遣わしげな眼差しで見上げるカレン。タケルは「まあ気にすんな」と笑う。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し、ということか」
突然混じったアルトの声に二人が振り向くと、仏頂面にも見えるいつもの冷静な眼差しが、心なしか得意げに口角を上げていた。
「雑念を取り払い、無心の境地に到れば神経が極限までに研ぎ澄まされる──師匠の教えだ。某も幾たびの修行でその境地を見ようと試みた覚えがある。やはり、アカツキの人間にはそのような素養が備わっておるのだな」
「ん? なんかそれもちょっと違う気がするけど……」
「てめぇには取り払うような雑念すら無ぇだろうから、その修行は楽だっただろうな、ソレガシ」
「──貴様、某をたわけと嘲るか」
途端に最後尾で開始される舌戦に、タケルはげんなりと眉間を寄せる。あれだけ戦っておいて尚満足出来ぬという様子の二人には、感心するばかりだ。隣のカレンも微笑ましげに見つめるだけで、特段口出しはせずにタケルに向かっていたずらに小さく肩を竦めてみせた。
タケルがやれやれと前方に向き直った時、足裏に妙な振動を感じて思わず視線を落とす。ぴたりと足を止めたタケルに全員が振り返った時だった。──突然、大地が揺れ始めたのだ。
「な、なんだなんだ⁈」
「カレン様、身を屈めてください」
よろめきながら忙しなく視線を動かすハロディ。ヴァルターは荷車を離してカレンの側に控え、身を守るよう促す。縦に震え、横に揺さぶるような揺れにタケルの足が縺れ、倒れるように荷車を掴む。荷車は大地に揺さぶられて軋み、荷台の荷を崩れさせている。アルトとガウリーはその場で足を開いて体幹を保ち、周囲を警戒していた。
遠くの方から地鳴りのような轟音が届いたような気がして、タケルは思わず空を見上げた。だが、雲間から日が差し込むまでとなった空にはそれ以外の変化は無い。程近い森からは鳥の群れが飛び立つ影が見えるものの、何かが飛び出してくるような気配も無い。突然の出来事に身構えつつ辺りに視線を走らせているうちに、だんだんと揺れは治まり、やがて大地は平穏を取り戻す。
完全に揺れが収まると、それぞれが安堵の息を吐く。そして自然と互いに顔を見合わせた。六人とも各々怪訝に顔を歪めていた。
「……治まったか」
「そうみたいだけど、一体何だったんだ? 何か出てくる様子も無いみたいだけど」
身を起こしたヴァルターが小さく呟いてからカレンの怪我の有無を確認する。ハロディはその呟きに応えながら、膝を折った体勢から立ち上がる。タケルは呆然と瞳を巡らせて周囲を眺めたが、そこには揺れる前と何ら変わらない景色が広がるだけだった。
「……街などは大丈夫でしょうか?」
「分からない。揺れたのってこの辺だけなのかな? それとももっと広範囲?」
差し込んでいた日の光がまた雲のヴェールに身を隠し、視界が平坦になる。もう唸るような音も止み、残されたのは頬を静かに撫でる生温い風のみだった。
「よく分かんないけど、この辺がもしかしたらなんか危うくなったのかもしれない。とりあえず、関所まで急ごうか」
ハロディの提案に頷き、一行は足早に旅路を再開した。足並みをそろえることが難しいカレンは止むを得ず荷台に乗せ、大股に緩やかな下り坂となった街道を進む。遠かった荒地の景色が近づき始め、岩壁を削ったような門と、それに連なる側防壁が姿を現す。関所付近まで来たところで一度歩速を緩めると、タケルたちは息を整えた。
クラルス地方へ続く関所の門番は、アルマの兵とは異なる装備をしていた。基本的には革の装備で、動きやすさを重視したような出立だ。胸元には揃いのエンブレムをつけていて、黄土色を基調とした彩のそれが、シンボルなのだと分かる。ちょうど通行人がおらず、門は閉じている。ハロディは通りがかりに、門前で待機している二人の兵士たちに声を掛けた。
「すみませーん! 少し前、地面が大きく揺れましたよね?」
大声を聞き取った兵士たちが互いに顔を見合わせる。そのうち一人が答えた。
「ああ、結構大きく揺れたなあ! お陰で中は物が倒れたりして片付けに追われてるよ。あんたらはここを通るのかい?」
「いえ、僕らアンスールに向かうんで! 何やら物騒なことが多いんで、気をつけて!」
関所を通り過ぎながら兵士たちに軽く手を振って、そのままその手で顎を摘んだハロディは小さく唸った。
「この辺も揺れたってことは、局地的なものじゃなかったのかな?」
「それより、あの兵士たちいささか呑気すぎやしないか?」
「ああ、クラルス公国の兵士って、良くも悪くも気安いんだよね。カラ君だってあんな感じだっただろう?」
苦言を呈するヴァルターに、ハロディは肩を竦めて苦笑する。話し合うのも早々に再び速度を上げて街道を進む。一度乾燥地帯の入り混じった景色は再び緑に戻り、街道は森に挟まれる。森までは距離があるため視界は広いが、平坦な道となったため抜けは無い。霞がかった山影と曇天が、じっとりとした閉塞感を覚えさせる。
しばらく歩いていくと道の先に、それまで途切れていた人影が見え始めた。相変わらず旅人や行商人だが、どこか様子がおかしい。異変を感じるとともに既視感を覚える。彼らは一様に、こちらに向かって逃げて来ているのだ。
「おい、あんたらすぐにここから引き返せ!」
「と、止まれ! 止まってくれぇ」
「どけ、逃げろ逃げろ!」
馬が暴れ、制御を失いかけた馬車がタケルたちの脇を走り抜けていく。遅れて走ってくるのは大荷物を背負った徒歩の行商人や、旅人だ。つまずいて荷物を取り落とし、それでも構わず走る者もいる。焦燥しきった表情で必死に足を動かしてタケルたちを避けながら逃げていくそれらの人のうち、余裕のある者がタケルたちに引き返すことだけを手短に伝えて走り去る。
タケルたちは顔を見合わせ、人の流れに逆らって足を進めた。後列を歩いていたアルトが前衛に回り、警戒しながらも足早にアンスール地方の関所を目指す。程なくして、道の先の喧騒が耳に届き始める。
物が砕ける轟音、叫び声、怒号──これまで聞いたこともない、腹を震わせるような低い咆哮。構わず進むと、奥に石煉瓦の積まれた関所がちらついたと思った矢先、視界が赤く染まる。炎だ。まるでその熱が、まだ離れた位置にいるタケルたちの肌をも焼くのではないかと錯覚するほどの。そして、その中心にいるものを目の当たりにした一行は、一様に瞠目した。
関所の向こう側で、巨大な頭が激しく動いている。その中央で見開いているのは、瞼のない巨大な目だ。片方の頬や口の横にも、まるで手遊びで取り付けたかのように不揃いの目が瞳を蠢かせている。大きく開いた口には不揃いの巨大な牙が剥き出しになり、口を閉じられないのか、液体が激しい動きとともに飛び散る。振り上げられた手は異様に長く、それが下ろされると同時に防御塔が破壊され、破片が舞う。巨大な欠片が地面を抉り、衝撃が風となってタケルたちの髪や服をはためかせる。燭台の火が移ったのか、周囲の木々や木造部分が炎を巻き上げ、火の粉とともに陽炎のように、巨大な異形の姿が揺れる。
「な、何だあの化物は……」
流石のアルトも呆けた声を漏らす。誰もがしばし言葉を失ってその光景を眺めていたが、叫び声で我に返った。関所の兵士が応戦しているようだ。
「ヴァルターはひとまずカレン様と見える範囲で離れた位置に。二人は僕が引き受けるから、とにかく応戦しよう」
「承知」
「──おう」
ハロディの一声で、アルトとガウリーが関所へと駆けていく。タケルは慌てて追おうとして足を止め、無意識にそれまで手にしていたコンポジットボウを荷台に戻し、代わりに元々持っていた弓矢を手に取って走り出す。そして関所付近まで来たところで、半壊した側防壁から巨大な異形の姿を垣間見る。
異形は歪ながらも人の形をしていた。関所から顔が覗くほどの巨体に対して下半身は心許なく、長い両腕を駆使して体勢を保っている。その腕は大木のように太く、岩肌のような皮膚を晒した肩や胴も総じて屈強だ。時折痙攣するように体をしならせては腕を振るい、その度に土が抉れ、壁が大破する。炎の熱を恐れることなくその場に止まり、兵士の攻撃を受けながら低い声を上げていた。
口も目もただ頭部についているだけで、感情は表さない。ただ声を上げて暴れている事実だけが、その異形の状態を物語っていた。
「何としてでも仕留めろ! 怯むな!」
兵士の怒号が響く。しかし門を守る兵士は少なく、剣を持つ者は身構えるだけで、どう攻めたものかと考えあぐねいている。まだ無事な壁の上から弓兵が放つ矢だけが異形を攻撃しているが、針を投げるようなものだ。最早ほとんどの兵士は防御と火消しに追われていた。
「助太刀いたす」
「腑抜けは黙って見てな」
兵士の間を縫ってアルトが異形に立ちはだかり、ガウリーが杖を構える。突然現れた二人に兵士たちは面食らったが、彼らはガウリーの杖を目の当たりにすると、一様に目を見開いた。
「キャスターか? 何という僥倖! 勝機は見えたぞ、剣を持て!」
隊長らしき兵士の激励が飛ぶ。タケルはじりじりと距離を詰めながら、背後から熱り立つ兵士たちの背中を見た。その向こう側、まるで建造物のように立ちはだかる脅威。炎と噴気の熱に煽られながら、タケルは密かに固唾を飲んで弓を握り締めた。
兵士たちの反応に舌打ちを漏らしたガウリーが杖を振り上げる。歪な樫の杖の先に嵌められた透明な鉱石が青い光を帯び始め、彼を中心に霧のような冷気が発生し、土が凍る。アルトはその間、異形の目に止まるよう素早く動き、見事な身のこなしで大地を蹴り、異形の腕や肩に乗り移りながら刀を一閃させる。その動きに翻弄されながら足踏みし、顔や体を手で払い、異形が唸る。アルトはその腕を巧みに避けながらも、刃を弾くような皮膚の硬さに歯噛みした。
ガウリーの足元に広がる凍った土から、巨大な氷柱が生える。次々に浮かび上がるそれらを操るように、鍛え上げられた腕が杖を振る。
「避けろよ!」
大声とともに、何本もの氷柱が異形に向かって標的を定める。アルトが察して飛び退る。空中を回転しながら一本ずつ順に放たれた氷柱は、巨体の腕や膝、頭や胸に向けて疾り、衝突した衝撃で砕け散る。繊細な高音を響かせて破片が煌くその向こうで、異形は後ずさるように足踏みをした。
「いいぞ、我らも続け!」
兵士たちが、ぐらついた巨躯に向かって走り出す。だが異形は癇癪を起こしたかのように頭を振ると、すぐにまた動き出す。その目はいつの間にか赤く染まっていた。
「待て! 無闇に近づくでない!」
地に降り立ったアルトが、熱り立つ兵士たちを制止しようとする。ガウリーも舌打ちを放ち、再び杖を構える。だがもう遅い。
タケルは、異形の足元まで到達した兵士に向けて、異形の腕が振り上げられるのを見た。反射的に弓を引く。兵士は足を狙おうと剣を構え走っているため、異形の腕に気付いていない。
声を掛ける暇もない。タケルは腕の動きを見極め、それが振り下ろされると同時に矢を放った。甲高い音とともに矢が空気を裂き、異形の拳に吸い込まれる。タケルは次の矢をつがえながら、”当たった”と確信する。
しかし無情にも、矢は硬い皮膚に弾かれた。異形の腕は動きを緩めることなく兵士をつかみ上げ、肺を潰されたような声が周囲に響く。掴まれた兵士の腕から剣が落ち、金属音とともに地に跳ねる。
誰かが、掴まれた兵士の名を叫んだ。タケルは心臓が浮き立つほどの緊張感に支配された腕を上げ次の矢を放つが、これも弾かれる。慄いた表情で、また次の矢をつがえながら距離を詰める。ほんのわずかな時間だった。
兵士から目を逸らそうと再び巨体に飛び上がっていたアルトが、叫び声に気付いて異形の拳を見下ろす。ガウリーの杖が新たな氷柱を生む。だが彼らの次の手を待たずして、その拳は握ったものを投げ捨てた。
鈍い音とともに投げられた兵士が側防壁に叩きつけられ、力なく地に落ちる。そのまま動かなくなったのも束の間、異形は再び両腕を激しく振って暴れ始める。
ガウリーの氷柱が異形の体に当たるが、異形はそのいくつかを手で弾き飛ばした。兵士たちが慄いた声とともに後ずさる。アルトが器用に腕に飛びかかりながら、確実に一撃を与えていく。──タケルはその喧騒を遠く聞きながら、呆然と動かなくなった兵士を見つめていた。
取り落としそうになった弓を握り締め、半ばふらつく足取りで、うつ伏せになった金属の鎧の塊に近寄っていく。だが、あと数歩というところまで来ただけで分かった。鎧の隙間から血を滲ませ、そこに落ちている姿。呼吸の気配は無い。
「いい加減に大人しくしろ!」
ガウリーが魔法を切り替え、異形の周囲の大地が次々に隆起する。異形はそれに怯むも、両腕が岩柱を尽く破壊する。その破片が周囲に跳び、タケルの傍でも壁に当たって粉砕する。しかしタケルは動けない。関所はますます崩れ、異形の進撃は続く。
「タケル、ぼうっとするな!」
アルトの忠告にハッと顔を上げた時、タケルの目の前を異形の拳が掠めた。その衝撃だけで彼の体は吹き飛ばされ、後方にいたハロディが駆け寄る。荷車の影に身を隠していたカレンもヴァルターの制止を振り払い、タケルの元へと走った。
「タケル君!」
「タケル様、大丈夫ですか⁈」
仰向けに倒れ込んだタケルはよろよろと上体を起こす。弓は手放さず、握り締めたままだ。ハロディは素早く目立った怪我がないことを確認すると、タケルの肩を叩いた。
「僕もあっちに加勢しよう。──君は二人を」
そう告げて、ハロディも戦線へと駆けていく。タケルはその背を見送りながら、片手で額を覆った。
「タケル様、お怪我は?」
「──無い。無いけど……」
案ずるカレンに答える声は、悲痛に掠れたものだった。




