4-1
翌朝。カーテンから漏れる日差しの光と、水が沸騰する音でタケルは目を覚ました。いつものようにガラスのポット装置でハーブティの準備をしているヴァルターがいる。その姿をぼんやりと横目にしながら上体を起こすと、気付いたヴァルターが、ソーサーの上に伏せていたもう一つのカップを裏返す。朝の一杯は彼の日課だが、タケルが起きれば彼の分を黙って追加するのだ。タケルは部屋に立ち込めるすっきりとした茶葉の香りを吸いながら頭を振り、ゆっくりと脳を覚醒させた。
「起きたか」
「……うん」
短く返事をするだけで、ベッドの上から動こうとしないタケルを訝しみつつ、ポットの湯を茶葉に浸してカップに注ぐ。そして部屋の隅に置かれた小さなテーブルセットの椅子に腰かけると、足を組んだ。
「なんだ、寝覚めでも悪いのか?」
そう言ってハーブティを口にする。所作は上品だが、どこか大雑把にも見える。カレンの前以外では、彼も些か型を崩すきらいがあるのだ。
「いや、違うんだけど……あの、さ、ヴァルター」
「──何だ?」
初めてまともに名を呼んだタケルに目を瞠ったヴァルターだったが、ハーブティで誤魔化しながら短く応える。タケルはのそりとベッドから降りながら、頭を掻いた。
「あの、アーデンのおっさん……”アヤカシ”になっちまいそうだったんじゃないかって、思ったんだけど」
「”アヤカシ”? ……ああ、お前の国で言い伝えになっているやつか。”タマハミ”をすると”アヤカシ”になる、だったか?」
「うん。俺、そうなった奴見たことないけど、もしかしたらあんな感じなのかもしれないって思ったんだ」
手にしたソーサーにカップをそっと乗せ、ヴァルターはゆっくりと瞬きをした。返事がなかなか来ないことに気まずさを覚えながら、タケルはベッドから抜け出す。そして、再度テーブルに畳んで置いていた着替えを手に取って身支度を始めた。今日も朝からアンスールへ向け、進路を進める予定だ。
「──人が変わったようになる例はいくつか知っているが、まさしく獣のように変貌するなど……あり得ん話だと思っていたんだがな」
独り言のような呟きが耳に入り、そちらをちらりと横目にする。ヴァルターはタケルの考察に対して明確な答えを残さず、もう一つのカップにハーブティを注いでいた。
「人が変わったようになる、ってどういう事だ?」
「……普段温厚な人間が、明くる日には冷酷無比に牙を剥いたりする。そんなことは、ままある話だ」
カップを受け取りながらタケルが尋ねれば、ヴァルターはそれには即答する。
「大体が温厚な仮面を被った俗物だが、例えば闇魔法によって暗い感情を呼び起こされる者もいる。──まあ闇魔法にかかった者は大概理性を失っていることがほとんどだし、効果がなくなれば元に戻るがな」
「……そんな魔法もあるのか」
タケルは固唾を飲むようにカップの中身を喉に通す。ガウリーの派手な魔法や、ハロディの回復魔法しか目にしていない彼にとっては未知の領域だ。自分も闇魔法にかけられれば自我を失うのかと、空恐ろしさに背筋がうずいた。
「闇のナチュラを持つ者はそのせいで、過度に警戒されたり迫害されることもある。だが闇に限らず、魔法は使い方次第だ。──それを間違った過去があるから、今では廃れているんだろうが……」
「じゃあ今回のやつも、その闇魔法使うやつのせいだって言われたりするのか?」
「いくらなんでも闇魔法では姿までは変えられん。あの黒い靄が原因なのだろうが、俺はあれが闇魔法とは思えない」
ヴァルターはそう言うと、タケルがカップの中身を空にしたのを確認して立ち上がる。朝の一杯に使った器具をテーブルの端にまとめると、元々準備が整えられていた荷物を手に取った。
「さて、時間だ。顔を洗って降りてこい。俺はカレン様にお声を掛けに行く。あちらの三人が起きていれば下の食堂で待っているはずだ」
颯爽と扉を抜けて出ていく背中をぼんやりと眺めていたタケルだったが、扉越しに聞こえてくるカレンを呼ぶ声に我に返り、弾かれたように立ち上がる。そして慌てて洗面台を使うため、風呂場に駆けて行った。
「よし! じゃあ改めて、アンスール王国を目指しますか」
オーカーンを鍛冶屋に売ると、そこそこの資金となった。一行はそれで旅支度を整え、リューデを後にする。目指すは大陸の中央からやや西寄りに位置するアンスールだ。街道沿いに行けば宿場町はいくつかあるので、立ち寄りながら進むことになる。タケルたちは、足止めを食らっていた行商が動き出し、いくらか賑わいを取り戻したリューデを静かに後にした。
「街道はいったん南寄りに折れて、クラルス公国領付近で北西に向かって折り返す。近道は出来なくも無いけど、森や山を抜けることになる。目的があってそっちを選ぶ人間しかいないから、わざわざ険しい道を選ぶより、僕らは回り道した方が効率的だね」
ゆるやかな丘陵地帯。古びた地図を広げて道を指でなぞり、後続のタケルやカレン、ヴァルターに語りながら先頭を歩くハロディ。白い雲が浮かぶ暖かい快晴の空の下、一行は青々とした緑の上に敷かれた煉瓦を辿る。
「結構な道程だな……馬車が欲しいところだ」
「実際それはそう。資金に余裕が出来たら、どこかで調達した方がいいかもね」
大人組がそうして話し合う背後では、タケルとカレンが景色を楽しみながら悠々と足を進める。
「タケル様、あのようなものをご覧になったことはございますか? わたくしは全てが新鮮で……」
「いや、拝山にも……多分町にも無い。水車はあったけど──あれは何で回ってんだ?」
街道から伸びた獣道の先、丘の上に見える家と風車を指しながら二人は疑問を投げ合う。答えが無くとも、語り合えればいいらしい。その他、道沿いの小川、高台から見下ろす湖、遠く霞んだ山の稜線──ひとつひとつを指差して感動を伝えるカレンにタケルが応え、自らの故郷の話を交える。二人の会話に興味を示したアルトが時折そこに混じり、彼女を揶揄する形でガウリーが口を挟む。旅は相変わらず穏やかだ。あの森で遭遇した不可解な現象はまるで無い。
旅人や行商人とすれ違い、時に馬車に追い抜かれながら短い挨拶を交わす。日常の景色が続き、休憩を挟みながら気も緩み始めた頃だった。ふと、アルトが妙なことを口にした。
「動物の類が見当たらんな」
彼女の言葉に、タケルたち異国組は首を傾げる。一見興味の無さそうなガウリーは瞳をわずかに周囲に走らせ、元から寄せていた眉間に皺をさらに深める。ハロディも目を瞠って周辺に視線を巡らせた。
「──まあ、確かに?」
「路銀や食料が尽きた時には、修行も兼ねて狩をしたのだが」
その発言に、タケルが目を丸くする。そして口を引きつらせながら彼女に問いかけた。
「あ、あんた……サムライの弟子だったんだよな?」
怪訝な表情に首を傾げたアルトだったが、すぐに思い当たって眉を持ち上げる
「師匠は決して肉を口にはしなかったぞ。某も倣おうとしたが、ただ”故郷の習わし故”と諌められた。寧ろ、やむを得ぬ時には狩も必要だと教えを賜ったぞ」
「そうなのか……」
よくよく思い返せば、アルトが食事において肉を避けている様子は無かった。これまで深く意識していなかったことに内心驚きつつ、タケルは彼女の語る”師匠”の柔軟とも言える対処に目を瞠った。自らの師匠である轍とは、まるで異なる教えを説いている。
「ともかく、野兎一匹見つからんのは、いささか妙な気もするが……」
疑問を飲み込んだタケルを納得したと取ったのか、アルトは話を戻す。些細な指摘だったが、これまで何度か異形を目の当たりにしてきた一行は、それぞれ胸の奥底に不穏の滴を浸らせた。
だがそのごく小さな淀みは、タケルたちに巣食っただけで道のりはしばらく相変わらずだった。変化が訪れたのは夕暮れ時だ。
進行方向から、息を切らした若い行商人が小走りに駆けて来る。何度も背後を振り返りながら足を動かし、やがてハロディたちに目を止めて速度を緩める。最後にもう一度背後を振り返ると、その行商人は一行を呼び止めた。
「あ、あんたら……この先に進むのは一旦止めといた方がいいぜ。ここらで一晩過ごした方がいい。……いや、もっと離れるべきか?」
「どうして? このまま行けば夜には川に当たるはずだから、せめてそこまでは行きたいんだけど」
ハロディが尋ねると、若者はまた来た道を振り返ってからさらに訴える。
「まさにちょうど橋を渡ってすぐのところだよ! なんか、こう……変な獣が出たんだ! 通りがかった旅人が囮になって俺らを逃してくれたんだけど、その後どうなったか……」
タケルたちはその証言に顔を見合わせた。誰もが頭に思い描く──”モルだ”と。
「わかった、忠告ありがとう。僕ら、行って手助けしてくるよ」
「え、ええ? ち、ちょっと⁈」
引き返すどころか、足早に先へと向かっていく一向に面食らう若者。去っていく背中に手を伸ばしかけるも、それ以上引き止めることはせず、そそくさと踵を返した。
時折速度を緩めながらも小走りに街道を進むと、やがて咆哮が聞こえ始める。緩やかに盛り上がる丘陵の頂に到達して先を見下ろすと、そこには絶体絶命の光景があった。街道やアルマでも見た、膨れ上がって変貌した獣と同じような異形が、今まさに倒れ込んだ旅人らしき人間に襲い掛かろうと前足を振り上げている。
「危ない!」
カレンが悲鳴じみた声を上げる。その隣で素早く弓に矢をつがえたタケル。弦を引きながら見開いた瞼の中、黒い虹彩が色を無くしている。その横顔をカレンが見上げるまでの僅かな瞬間に狙いを定めたタケルは、躊躇なく矢を放つ。
甲高い笛のような音を立てながら、風を裂いて矢が疾る。空気の抵抗など微塵も感じさせない一閃が、異形の首元に突き刺さる。振り上げた前足の勢いを止め、苦悶の唸りを上げた異形の注意がこちらに向く。倒れ伏した旅人は微動だにしない。
呆けたように弓を下ろすタケルの髪や着物の裾を風が舞い上げる。彼の脇を抜けてアルトが異形へと駆けたのだ。その後を追って杖を構えたガウリーも丘を下りていく。
「タケル様、お見事ですわ!」
「あ、ああ……」
「とにかく、あのモルはアルトたちに任せて僕らは旅人を助けよう」
「わかった」
両手を組んで感嘆の声を上げるカレンにぼんやりと応えながら、タケルは額を押さえて頭を小さく振る。そして、ハロディが冷静に指示を出してヴァルターが頷く声を聞き、気を取り直す。そして思惑通りアルトやガウリーが異形を翻弄する隙に、四人も丘を駆け下りた。
街道から少し外れた位置に倒れていたのは、軽装備の旅装束を纏った男性だった。うつ伏せの背中を覆う外套は半分切り裂かれ、血を吸っている。恐らく背を向けた瞬間に一撃を受け、吹き飛ばされたのだろう。ハロディが口元に手を当てて呼吸を確認すると、僅かに吐く息が掌に当たる。ヴァルターが応急処置用の薬草や薬、止血帯を荷物から漁るのを一瞥すると、彼は背中の傷に手を翳した。
「この身に宿る記憶を呼び醒ませ」
小さく呪文を唱えながら目を閉じる。アーデンを治療した時よりも集中が深く、眉間に皺が刻まれる。掌からぼんやりとした光が生まれ、傷口を覆っていく。しかし完全に塞がり切る前にハロディが急に息を切らし、同時に光が消失した。
「こりゃ重症だ……僕ではここまでが限界かな……」
額に浮かんだ汗を拭いながら息を整えるハロディ。察したヴァルターが旅人のチェストガードや上衣を剥いで傷口を水で洗い、薬草を当てて止血帯を巻いていく。それでも旅人の意識は戻らない。その間異形がこちらを攻撃しないよう注視しながら弓を構えつつ、タケルは再び二人の戦闘を目の当たりにしていた。
「おいソレガシ、容赦しねぇからな!」
「フン、上等だ。だが火だけは使うでないぞ。焼け野原になり兼ねん」
「チッ」
軽口を叩き合いながら、狼が爬虫類と重なって変貌したような異形を翻弄する。アルトが素早い動きで舞うように異形に一撃を与えると、よろめいた先の大地が局地的に隆起してさらに追撃される。杖を翳したガウリーの所業だ。逆に、ガウリーが氷の矢や風で異形の隙を生み、そこをアルトが叩く時もある。タケルの目には連携しているようにしか映らないが、どうやら本人たちは無自覚だ。
ガウリーの氷の矢が異形の額に突き刺さって霧のように消えるのと、アルトの刀が首筋に重い一撃を与えるのとどちらが速かっただろうか。──やがて勢いを失った異形は崩れ落ち、大地にその身を打ち付ける。その身はじわじわと黒い靄を生みながら、ゆっくりと溶けていく。
「アルマで倒した異形は、もう少し形を保っていたようだが」
「──どうでもいいだろ。とにかくここは片付いた」
戦闘終わりの二人がタケルたちの元へと戻ってくる。アルトは意識のない旅人を見下ろしてからタケルの方に向き直った。
「死んではおらぬようだな」
「うん。けど、ハロディのあの魔法でもちゃんとは治らねえって」
「そうか」
ガウリーはそんな二人の横を抜け、少し離れた位置で大きく体を伸ばしながら周囲を見渡す。カレンがそんな彼の魔法に賛辞を送ると、盛大に顔を顰めて視線を逸らす。
「しかし、お主は矢を外さぬな。信頼のおける腕前だ」
カレンと出会った直後を思い出しながら二人を眺めていたタケルに、再びアルトから声が掛かる。敵の懐に飛び込んで戦う彼女からの最大の賛辞と気づくと、タケルはむず痒さを覚えて頬を掻き、小さく礼を返した。
「さてと……おおい、君たち。川辺まで移動して野宿の準備だ。この人荷台に乗せるから荷物を避けて」
旅人の手当てを一通り終えたハロディが、タケルたちに呼びかける。素直に返事をしたタケルとカレン、アルトが荷台の隙間を作るなか、ガウリーだけはどこ吹く風だ。そんな彼を手招きしたハロディは、旅人の肩を指差す。溜息を吐いたガウリーが億劫そうにそちらへ歩み寄り、旅人の両脇に手を入れて持ち上げ、それに合わせてハロディが足元を持ち上げる。そうして空けられた荷台の空間にその身を横たわらせた。
「はあ……ひとまずこれでよし。この人がどこを目指してたのか知らないけど、目を覚ますまでは僕らの進路に付き合ってもらおう。明日の昼過ぎには次の街に着くだろうから、それでも意識が戻らないようなら医者に預けるか」
一息ついたハロディの意見にヴァルターが頷く。すると、ふと辺りを見渡したカレンから声が上がった。
「あら、あちらに落ちているのは、そのお方の剣なのでは?」
草むらに落ちた重量のある剣を発見して駆け寄ると、カレンはその柄に手を伸ばす。するとヴァルターが血相を変えてそれを制止した。
「いけません、カレン様! そのような野蛮な武器を手に取っては……私が預かります」
ただの長剣を”野蛮な武器”と宣ったヴァルターに、タケルやハロディ、アルトの視線がガウリーに集まる。彼が杖の他に手にしているのは、長い柄の先から伸びる太い鎖と、その先に繋がる刺付きの鉄球が禍々しい特別性のフレイルだ。鈍色の光沢が夕日の朱を重く照り返している。
「剣が野蛮なら、あれは一体どうなるんだ……?」
カレンを制して剣を拾い上げ、速やかに荷車へ移動して旅人の鞘に剣を収めるヴァルター。一連の言動を目で追っていたハロディの、半ば呆れたような呟きが風に消えていく。ともかく一行は、ひとまず橋の下の川辺を目指して歩みを再開した。




