3-1
タケルは思わず背後を振り向いた。領王の突然の頼みに頭が追いつかないでいる。目の前に直立する威厳ある統治者は、ただ静かな眼差しでタケルの返事を待っていた。
玉座の側に戻っていた家臣も、周囲を警備する衛兵も──誰もが領王と同様に黙して姿勢を保っている。その統制された光景は、タケルの心臓をきつく締め上げた。
背に冷たいものを感じているタケルとは裏腹に、背後のカレンは目を心なしか輝かせ、更にその背後ではヴァルターがわずかに眉を寄せている。殿で跪くアルトとガウリーは軽く首を垂れたまま目を伏せていた。
しかし唯一人、タケルに目配せを寄越す者があった。──ハロディだ。彼はまるで周囲から隠れるように、意味深に片目を何度か閉じた。タケルが眉根を寄せて首を前に出すと、小刻みに何度も頷き返す。それは、タケルに”首肯しろ”と促すような仕草だった。何度かそうして刹那のやり取りを経て、最後にハロディは顎をしゃくった。急かすような仕草に固唾を飲み、タケルが領王に向き直る。領王は変わらず姿勢を正したまま、微動だにせずタケルの返事を待っていた。
「は、はい……」
消え入りそうな声でタケルは応え、小さく首肯した。すると領王は、手に携えた剣をタケルの両肩に触れさせる。この国で叙任の儀とされる作法をそのままタケルに与えたのだ。異国の儀式的な所作に思わず身震いするが、束の間を耐えるうち、領王の剣は鞘へと収められていた。
「感謝する。かつての勇者と境遇を同じくする者──タケルよ。其方の正体については問わない。そして主要な関所を、ある程度ならば通過出来る通行証を授ける。それを用い、星の異変について各地を調査願いたい」
家臣から剣の代わりに掌大のエンブレムを受け取った領王は、短い鎖の部分を持ってタケルに差し出した。盾のような形状をした銀の板には翼のような螺旋模様が描かれている。その上には臙脂とアイボリーを混ぜた土台と、そこに嵌められた剣のレリーフ。無意識にタケルが掌を差し出す。領王は身をかがめるようにしてその掌に、丁寧に通行証を乗せた。
「では頼むぞ。我々はかつての約定に倣い守護に徹する。──歴史書のような海裂災期が再来するのは何としても避けなければならない。兆しが未だ緩やかなうちに、事態を食い止める必要がある」
領王はそう言って玉座に戻る。タケルは掌に通行証を乗せたまま、当惑しつつも顔を上げた。
「共有すべき情報があれば私に知らせてくれ。──連絡の方法は……ハロディ、お前に任せる」
「拝命いたしました」
「それと、通行証は預けたが、あくまで関所を抜ける許可証だ。行く先で何か問題を起こせば、それは各地の法によって罰されるので、そのつもりでな」
その後、アルトやガウリーから異形の特徴を仕入れると、領王は一行に退出の許しを出した。かくして一行は、誰も言葉を発さないまま足早に階段を下りて扉を抜け、更には城門を潜り抜けた。そしてしばらく歩き、ハイフォールドの端まで辿り着くと、立ち止まる。複雑な表情で通行証を握りしめるタケルの隣でカレンはその掌を興味深げに覗き込み、ヴァルターは額を押さえて項垂れながら大きな溜息を吐く。ハロディは両手を上げて体を大きく伸ばし、その背後でアルトとガウリーの二人は腕を組み、目前の面々に静かな眼差しを向けた。
「──勝手な決断をさせて、貴様一体どういうつもりなんだ?」
腕を組んだヴァルターから鋭い視線が飛ぶ。ハロディは「まあまあ」と宥めるように手振りすると、タケルが手にしている通行証をつまみ取った。
「外の人間が歩き回るには、いろいろ手続きが挟まって煩わしい事が多いんだ。君らが住んでる北大陸だってそうだろう? これは、王が言ってた通り……大都市の関所なら割と通用する代物だよ。実はアンスール大陸って、都市から国になった場所が多いんだ。アルマもそのひとつだけど、分断戦期や海裂災期にアンスールを守る要塞だったことから、国王の信頼が厚い。手放しで歓迎されることはなくとも、あちこち行き来しやすくなるってことさ」
タケルが恭しく受け取った通行証の鎖を持って小さく振りながら、ハロディは悪戯に微笑んだ。そして静かに興奮しているカレンに向き直ると、片眉を上げた。
「良かったねえカレン様。タケル君はこれで、名目上はかつての”勇者”と言っていい。つまり君の希望や妄想なんかじゃなく、現実に勇者として旅に出ることになるんだよ」
「いえ、タケル様は出会った瞬間からわたくしにとっては勇者様でしかありませんでした。ですが──まさか、かつての勇者様所縁の地で、勇者様と同じ命をお受けになるなんて……素敵です」
両手の指を組み、憧憬の眼差しを向けるカレン。居心地悪そうに口元を歪めるタケルの横で、ヴァルターは敢えて大きく咳払いをした。
「でもさ、昨日も言ったじゃん。勇者は自ら”災厄の源を絶つ”って宣言したとされてるけど、それは歴史書に刻まれた文字に書かれてるだけのことで、本当はそうじゃないのかもしれないよ、ってさ。案外かつての勇者もさ、こんな風に成り行きで引き受けることになったのかもしれない。それより君らは、旅を円滑に進められる方法を手に入れられた事をまず喜ぶべきだよ」
「その代償が大きすぎるだろう! アカツキへの道を探し、事業再興の準備を進め、そのうえ異形の調査だと? いくら何でも同時進行が過ぎる!」
指を突きつけてハロディを問い詰めるヴァルター。肩を竦めたハロディは、そんな彼を受け流してタケルに通行証を返却した。
「……おい、騒ぐならさっさと下りるぞ」
道端で言い合う二人に、ガウリーの低い忠告が飛んだ。一言だけ言い残した彼は、そのままさっさとセントラル方面へと足を進めてしまう。残された五人は顔を見合わせると、渋々その背を追って歩き出した。
通用門を抜けると、セントラルの賑わいが彼らの心を日常に引き戻した。相変わらず露店や商店で広場は賑わい、気さくな人々の行き交う声に、肩の力が抜けていく。清浄な空気を纏っていたハイフォールドよりも深呼吸がしやすく感じ、タケルはようやく胸を撫で下ろした。
「こんなことになって、本当に大丈夫だったのか……? 俺、こっちのこと何も分かんねぇのに」
今更になって不安を吐露するタケルの瞳をカレンが覗き込む。面食らってのけぞると、カレンは満面の笑みでもってタケルを励ました。
「ですから、わたくしたちがついているのです。この先に起こる困難も共有し合い……とにかく励みましょう!」
「ほら、すごい支援者が付いてるんだから大丈夫大丈夫。それに、苦労を重ねた方が若者は強く成長するものさ」
カレンに便乗するハロディには胡散臭さを覚えたが、タケルはひとまず不安を飲み込むことにした。とにかく、帰る方法を探すことに専念する。その道中で異形の情報を仕入れれば良い──自らを納得させるように頷くと、タケルは通行証を懐に仕舞った。
「おいおい、ロワーサイドの弱小ギルドがハイフォールドから出てくるなんてことがあるのかい? お前たちには一生縁のない場所だろう」
噴水広場の通用門付近を通りがかった時、突然背後から一行に高慢な声が降りかかった。戸惑うカレンたち三人に反し、ハロディたち三人は、途端に揃って顔を顰める。ハロディは肩を落として盛大な溜息を吐き、アルトは片眉を吊り上げ、ガウリーは舌打ちを溢す。六人が振り返ると、その先には一人の青年が仁王立ちしていた。
ブラウンの短髪にサークレット状の兜を乗せ、体には逐一複雑な模様が刻まれた銀の軽鎧、ガントレット、そしてグリーヴ。まるで翼を模したような小さな装飾の着いたポールドロンは、心なしかあの領王よりも派手な造りにも見える。腰の帯刀ベルトにはブロードソードを携え、真紅の外套を纏い──まるで着飾ったような人物だ。彼は腕を組むと真っ直ぐにハロディを見下ろし、不敵に片方の口角を持ち上げた。
「王命や貴族からの任務は、全て我がギルド”銀朱の群鳥”で請け負っているのだ。それだけ私は多くの猛者たちを雇っている。貴様に回る依頼など存在しないはずなんだがな?」
「はぁ、出たよ。──本当に鬱陶しいな君は」
年の頃はヴァルターと同じくらいだろうか。見た目だけは若いハロディと並ぶと、彼より長身なことも相まって相手の方が年上にも見えるが、放っている雰囲気が若さを物語っている。誰が見てもハロディを見下しているのは明らかだ。怪訝そうに目を細めるヴァルターとタケルの横で、カレンは小首を傾げていた。
「あの……こちらのお方は?」
「ああ、こいつは……本人が言った通り、この国の主要勇者ギルド”銀朱の群鳥”のギルド長さ。名前はロイ。──覚えなくていいけどね」
「何だと⁈」
至極面倒そうに言い捨てるハロディに熱り立ったロイは眉を吊り上げて歯噛みしたが、気を鎮めるために細く息を吐くと、ハロディの背後で我関せずといった体で佇むアルトとガウリーに視線を移す。
「全く、ろくに仕事が無いのではお前たちの腕も鈍るだろう。なぜこんな奴の下で燻っているのだ? 銀朱の群鳥の席はいつでも空いているというのに!」
しかし、アルトはじっとロイを見据えるのみ。その横のガウリーは目を伏せて外方を向いていた。
「某は、お主にはついてゆかぬと申したはずだ。手合わせ願いたいとも思わぬのでな」
平然と言ってのけるアルトにロイの言葉が詰まる。ガウリーは無視を決め込んでいるようで、まるでロイの存在など視界に入っていないかのように無反応だ。突然出てきて自爆して黙り込んだロイに、ハロディは苦笑した。
「詳しく言うつもりはないけどね、ちょっと複雑な仕事が入ったんだよ。もちろん、君のところじゃ管轄外の仕事だ。だからあんまりこっちのことに目くじら立てないでくれる? ──それにさ、そっちはそっちで多分これから忙しくなるだろうから、自分の心配だけしていなよ」
片手を振って踵を返し、ハロディはさっさと去っていく。当然のようにアルトとガウリーがそれに続き、残されたカレンたちは戸惑いながらも三人の後を追う。
振り向き様に会釈をしたカレンに、口惜しげに眉を寄せたロイが捨て台詞のような言葉を吐き捨てる。
「君が依頼者なのか知らないがね、あの男を頼ったところで何にもならんぞ。フン、もし行き詰まったら是非銀朱の群鳥を訪ねてくると良い。──ギルドはすぐそこの屋敷なのでな」
ロイはすぐ傍の建物を手で指し示し、外套を翻して方向を変えるとその玄関口へと消えて行った。彼が”屋敷”と表現した通り、石煉瓦が連なる街中の建造物の中では一際大きく、まるでハイフォールドの屋敷のように独立した建造物だ。入り口付近には看板である銅のレリーフが飾られている。そこには何枚もの翼を重ねたような紋様が刻まれていた。
嵐のような人物にカレンたちが顔を見合わせていると、ハロディから声がかかる。慌てて後を追い、やがて一行は再び宿へと舞い戻った。
空に茜色が混じり始めた頃だったが、宿の食堂には相変わらず客がいない。いくら奥まった場所にあるこぢんまりとした佇まいの建物とはいえ、客が居なすぎる。ヴァルターは毎回店内を律儀にぐるりと見渡しては怪訝そうに眉を顰めている。
テーブル席にいつもの並びで着席するカレンたち四人。アルトとガウリーは、スツールが五つ並ぶカウンター席の両端に座る。ペールとルジュが彼らにお茶を振舞い、六人はそれぞれ茶葉の香りに癒されながら肩の力を抜いた。
「まあそれでさ、とりあえずこの街で情報収集して、今後行く先を決めるのも大事なんだけど、まずタケル君に色々知って欲しいこともあってさ。──君、ガウリーの魔法見てとんでもなく驚いてたろ?」
小さく頷き、タケルはガウリーの背中に視線を送る。そして脳内に、彼が異形と戦った時の姿を思い返す。杖を駆使し、巧みに自然を操る姿。火種なく炎を生み、杖の一振りでは説明がつかぬほどの風を起こし、大地を抉ったあの技。故郷では見たこともない不可思議な現象に、あの時は思考が追いつかなかった。
背を向けたままのガウリーは振り返らず、カウンター席でただ自分の時間を楽しんでいた。あの時掲げていた杖は、すぐ傍に立てかけてある。先端に透明な石が嵌め込まれた、まるで自然の一部をそのまま引き抜いたような杖だ。
「君が持ってるのは弓。アルトが持ってるのはカタナで、アルトの師匠が持ってるのもカタナだったらしい。ということはアカツキって、基本的には物理的な戦いをするんだろうと思うんだけど──どうかな?」
「うん、まあ……俺が知る限りではそうだ。あとは、槍とか薙刀とか、素手とか。刀の大きさにも色々ある」
「なるほどねぇ。ノヴァみたいに元々魔法が主流だったのが廃れたのか、そもそも初めから存在しなかったのか……その辺は想像の域を出ないけど、とにかくガウリーが使ってたような技は見たことないってわけだ」
「そうだな」
「じゃあ、その辺から知ってもらわないとこの先不便かもねぇ。それに、気付いてないだけで君にも”ナチュラ”があるかもしれないし」
タケルは思わずヴァルターを見やる。意味まではよく理解出来ずじまいだが、”ナチュラ”という言葉は彼から聞いたものだ。タケルの反応を観察していたハロディはその視線を追ってヴァルターに向き直ると、テーブルに頬杖を吐いた。
「ちなみに、君らのナチュラって何なの?」
「俺は水だな」
「カレン様は?」
名を呼ばれたカレンは、珍しく気まずそうにヴァルターと視線を交わす。ヴァルターは逡巡し、彼女の代わりに口籠もりながら答えた。
「──カレン様は恐らくナチュラを持たない。つまり魔力を持たないが故に、魔道具の反応を促すことも難しいのだ」
「……ほう」
ハロディは小さく目を瞠る。しかしすぐに興味深げに目を細めると、湿気を帯び始めた空気を咳払いで打ち消した。
「タケル君。歴史のお勉強が終わったところで申し訳ないんだけど、今日はすこしだけ魔法のお勉強をしようか」
「え?」
戸惑いながらも興味を隠しきれない瞳を向けられ、ハロディは肩を揺らして小さく笑う。慣れない土地で不安を抱え、戸惑っていることの多い少年だが、年相応の好奇心は随所で感じられる。それが何とも可笑しいのだ。
「僕の知り合いでさ、魔法の研究をやってる変な奴がいるんだ。ナチュラを調べる装置もあるから、タケル君のナチュラも分かるかも。──ちなみにね、そいつにもナチュラが無い。だから、カレン様と同じだね」
「そ、そうなのですか?」
居心地悪そうに視線を落としていたカレンは、弾かれたように顔を上げる。そんな彼女の反応に胸を撫で下ろしたヴァルターは、ほっと息を吐いていた。
「ちょっとまあ狭い場所だけど、みんなで今から訪ねよう。いっつも部屋に篭ってるからいつでも会えるんだ。──ただ、ロワーサイドの奥地に引っ込んでるからさ」
「あ、あれより奥に入るのか──?」
カレンの身を案じたヴァルターが頬をひくつかせるが、必要ならば訪ねる他に術はない。一転して期待に満ちた表情を浮かべるカレンの向かいで湧き上がる興味を押さえつけながら、タケルは数度頷いた。視界の端に、わざとらしく首を垂れるガウリーの背中を捉えながら。
しばしの休憩を挟んだ夕暮れ時。前回同様バイロンの守る鉄扉を抜け、怪しげなロワーサイドへと一行は足を踏み入れる。先頭を歩くのはアルトだ。ランタンの小さな灯りが灯され始めた未知の路地を、夜目にも明るそうな琥珀の瞳を滑らせて後続の面々を先導する。ハロディがそれに続き、カレンとヴァルター、タケルと並び、殿を務めるのはガウリーだ。
薄暗い細い道は蛇行しており、石煉瓦が所々抜けている上に凹凸が目立つ。定期的に端に置かれたランタンもぞんざいに置かれているだけだ。火が安定しないものが多々あるからか、所々に浮かぶ影は忙しなく揺れ、吸い込まれるような感覚に陥る。
建物の構造はセントラルとさほど変わらないが、こちらは石煉瓦の抜けや削れ、それを舗装する木板が目立つ。看板の無い店舗らしき場所もいくつか存在し、中に居る人物が物珍しげに珍客を観察する。奥から聞こえるのは野蛮な笑い声、怒号、歓声。腹を抱えて笑うような声が聞こえると共に、別の場所ではガラスの割れる音がする。流石のカレンの表情にも緊張が走り、側に控えたヴァルターは彼女を守るように周囲に忙しなく視線を巡らせた。
蛇行している道からは、そこ彼処に更に細い路地が枝分かれしていた。しかしその先は暗く、ランタンも灯されていない。まだ夕方だというのに外壁の影響で、一足先に夜が来たように先が見えない。闇の先から感じる視線は先頭のアルトが一掃し、殿のガウリーが念押しでひと睨みを添える。絶妙なコンビネーションでカレンたちの緊張の種を削ぎながら、六人は比較的開けた場所までたどり着く。
そこは、二層に別れた場所だった。石造りの建物に囲まれるようにして木造の建物が集まっている。円形になっているそのエリアはどうやら生活区域のようで、下段に酒場が並び、上段には今にも崩れそうな平屋建てが連なっていた。布切れのようなものを纏った人物が多く、全体的には貧しい状態に見える。しかし人々は誰もが素直に感情を吐き出していて、それがかえって活気の良さを感じさせた。
「ハァイ、ハロ! 珍しい人連れてるのね。お客さん?」
ガラクタを鳴らしたような音楽で盛り上がっている酒場から、一人の女性が小走りに駆けて来る。白いシャツに臙脂色のロングスカート、ヒールとシンプルな装いだが、豊かなレトロブラウンの巻き髪に女性的な体のライン、目尻の釣り上がった挑戦的なカーマインの瞳、真紅の唇──誰もが振り返ると言っても過言では無い、華やかな美人だ。相手を惹きつけるような独特の抑揚を持った語り口調が、彼女の魅力を引き立たせている。
「や、やあリリー。久しい……のかな?」
ぎくりと肩を跳ねさせ、これまで胡散臭いほど余裕だったハロディが明らかにたじろぐ。それを見たタケルとヴァルターが瞠目する。背後からはガウリーの舌打ちさえ聞こえ、二人は思わず顔を見合わせた。
「そうよ。仕事が無いんじゃしょうがないけど、たまには顔出しなさいよ。オリジナルのお酒振る舞ってあげるわよ?」
「いやぁ……気持ちだけ受け取っておくよリリー。それじゃ僕ら急ぐから」
「随分大人しそうな女の子じゃない。……こんなところにまで連れ込んで、一体どんなお仕事なのかしら?」
リリーが上半身をわずかに屈め、カレンを頭の先から爪先までさっと観察する。常に魅惑的な微笑みを称えている彼女からは、何か動作するたびに花のような香りが広がる。カレンは勢いに少々身を引きつつも会釈した。
「カ、カレンドラと申します」
「ふうん、カレンドラちゃん、ねぇ……」
品定めするような視線に眉尻を下げ、カレンが困惑する。するとヴァルターがさりげなく彼女を背後に庇い、咳払いを一つ。その一連の様子を見たリリーは興味深げに目を細め、腕を組んだ。
「まあまあリリー、何かあったらまた来るからさ! とりあえずほら、お客さんが呼んでるんじゃないかい?」
ハロディがリリーの背後を指差すと、外に並ぶ樽をテーブル代わりに囲んだ男たちがリリーにちらちら視線を送っている。彼女が振り返ると、男たちは大きく手招きをした。
「おーい、リリーちゃん! こっちにペニー人数分!」
「先にこっちだ、こっちはヴェール人数分!」
手前の客が大声で彼女を呼ぶと、その奥から同じように声がかかる。リリーは諦めたように溜息を吐くと、両手を腰に当ててふんぞり返った。
「ペニーは後よ、大人しくそこで待ってなさい! ……ヴェールご注文のお客様ぁ、ちょっと待ってちょうだいね!」
あからさま過ぎる態度の違いに、カレンの目までも点になる。しかし客たちは怒るでもなく笑うばかりで、リリーのこの地での立ち位置が如実に窺えた。ハロディは「今のうち今のうち」とアルトの背を押しながら後続を促し、さらに路地の先へと小走りに進んでいく。その途中、彼から苦笑混じりの解説が挟まった。
「リリーは情報通なんだけど、金にがめつくてさ。アイツが取ってきた仕事は情報料って言って八割も持ってかれるんだ。もしかしたらロワーサイドで一番隙を見せちゃいけない相手って説もある。君らみたいな子たちは重々注意することだよ」
カレンが両手で口元を押さえ、ヴァルターが珍しく口を開けたまま呆然とする。タケルはとにかく、初めて見る性質の女性ということと、ハロディたちの反応に冷や汗を垂らす。しかし彼女との邂逅は少なからず、得体の知れない掃き溜めに揺れるランタンの灯火のようにタケルたちの張り詰めた緊張感を和らげた。その先の暗い路地すらも、心なしか親しみを見出せるような気さえするほどに。
やがて彼らは広場を抜け、更に怪しげな路地を道なりに進み、奥まった角を右に折れた。ランタンの灯されていない路地は日没と共にますます闇を纏っていたが、ハロディが腰に下げたランタンに触れて明かりを灯す。すると、湿って苔すら蔓延る石煉瓦の姿が不気味に浮かび上がる。壁のような石煉瓦の建物に挟まれた路地で上を見上げれば窓のようなものも確認できたが、その内部にも明かりが灯されておらず、暗いままだ。
そんな路地の一番奥、まるで雨足が治まったばかりのような湿気を肌で感じるなか、ひっそりと壁に嵌っていたのは堅牢な鉄製の扉だった。その周囲に窓のようなものは見られず、外からは何の建物なのか全くの未知だ。あれだけ鳴り響いていたけたたましい楽器の音や人々の喧騒は、もはや遠くに霞がかって判然としない。まるで別世界のようなその場所で立ち止まったハロディは、容赦無く鉄の扉に拳を叩きつける。カレンたちが固唾を飲んで見守るなか、激しいノックに応えたのは、若い男性の声だった。
「ええい、何じゃやかましい! こうも不躾なのはハロディかい?」
声は確かに若いのに、口調や声の抑揚はどこか年寄りじみている。タケルたちがその落差に面食らっていると、ハロディは含み笑いを溢して中から僅かに響く声に応えた。
「そうそう。だって君、こうでもしないと気づかないだろう? とにかく入れてくれよ。興味深いもの持ってきたんだよ」
興味深い”もの”とは……? そんな疑問を頭に浮かべつつ、タケルたちは成り行きを見守る。
やがて、酷く錆び付いた蝶番の甲高い音と共に、不気味な扉は開かれた。




