第94話 誇らしき敗北宣言。
車で待っていると、母さんが戻ってきた。
「用事は済んだかい?」
父さんの問いに、母さんはただ頷いた。
旅館までは、車で20分程らしい。
俺は、ぼんやりと海沿いの景色を眺めた。
なんとなく空気が重い。
会話が途切れた車内には、タイヤが砂利を踏む音だけが響いている。時間が止まった。
鈴音は後ろ向きになって、さっきの丘の方を見ている。
「パパ、風花って何?」
鈴音の声で、時が動き出した。
「え、ああ。山の雪が風に舞って飛んでくることだ。煌めいていて、まるで花びらみたいだろ?」
「パパ、物知りぃ」
鈴音が感嘆の声をあげる。
すると、母さんがクスクスと笑った。
「お父さんったら。それ澪に教えてもらったままじゃない」
「ま、まあそうだが。ところで、母さんは、澪と何を話したんだ?」
実は父さんも気になっていたらしい。
「うん、『ハンバーグ、悠真が喜んでくれたよ、ちゃんと鈴音にも引き継げたよ』って。あとは、女同士の秘密……かな」
「でも、なんで鈴音なんだ? 普通なら悠真の嫁さんに引き継ぐものだろ?」
母さんは、人差し指を口に当てた。
「んーっ。それじゃ、悠真が結婚する前にわたしに何かあったら、途絶えちゃうじゃない。だから、鈴音に教えたの」
一瞬の沈黙が訪れる。
「お前、冗談でもそういうこと言わないでくれよ。2度も嫁さんに先立たれるとか、想像しただけでも……」
父さんの声は掠れていた。
「ごめーん。もしもの話よ。美岬の家は、みんな長生きだから。変なこと言ってごめんねっ」
母さんは元気に切り返した。
「母さんの名字、元々は美岬なのかぁ。ちょっと不思議。そういえば、澪母さんの旧姓って何なの?」
俺がそう言うと、母さんは助手席越しに振り向いた。
「桜坂よ。桜坂 澪。可愛い名前よね。顔も可愛くて、最初に会った時に『この子には勝てないなぁ』と思った」
母さんの敗北宣言。
でも、それは誇らしそうだった。
すると、鈴音が声を上げた。
「ねぇ。澪さんの山の上に桜が咲いてるっ!!」
桜? まだ12月下旬だぞ?
俺は窓を開け、身を乗り出した。
山の上にピンクの桜が見えた。
一本だけだが、確かに咲いていた。
「土肥桜か。今年は随分と早いな」
父さんは前を向いたまま、そう言った。
「澪も嬉しいのよ。きっと」
母さんの声も嬉しそうだった。
♦︎
桜坂?
どこかで聞いたことがあるような。
旅館につくと、女将さんが出迎えてくれた。武家のお屋敷のような造りで、木彫りの看板には『旅籠 遊里庵』と書いてある。思ったよりも高級そうだ。
「父さん、随分と奮発したね」
俺が話しかけると、父さんは無言で俺の肩をたたいた。
板張りのロビーにシャンデリア。海が見渡せるソファー席。そこで仲居さんが、抹茶と落雁を出してくれた。
「随分と若い仲居さんね。リゾートバイトかしら」
「わたしより少し上くらい? 女子大生かも」
母さんと鈴音は、なぜか仲居さんに興味津々だった。
一息つくと、仲居さんが部屋に案内してくれた。
廊下を歩きながら思った。
そういえば、部屋割り。
俺は鈴音となんだっけ。
「悠真と一緒の部屋なの、ちょっと緊張してきた……」
鈴音はそう言うと、俺の袖をつかんだ。
「こちらのお部屋です」
仲居さんが格子状の引き戸を開けると、奥にさらにドアがあった。足元には白砂利が敷かれている。
ドアを開けると、い草の匂いがした。畳敷きの和室で、正面に居間からは海が見える。
「じゃあ、悠真と鈴音はそっちの寝室ね」
寝室は2部屋らしい。仲居さんが居なくなると、母さんたちは、寝室に荷物を置きに行った。
「俺らも行くか」
もう一つの寝室に入ると、青々とした畳の上にローベッドが2つ並んでいた。
確かに父さん達とは別々だ。
でも、隣から父さん達の声が聞こえているし、隣室との間には小さな襖のようなものがある。
「これじゃ、家よりプライバシーなくない? あんな部屋割りで悩んだのにな」
俺はリュックを放り投げて、ベッドに身を投げ出した。
鈴音は立ち尽くしていた。
「ん? 鈴音。どうしたの?」
「別に。なんでもない」
鈴音はそう言うと、口を尖らせた。
トントン。
早速、襖がノックされた。
「はーい」
返事をすると、スッと襖が開いて母さんが顔を出した。
(本気でプライベート感がないが、一応はノックをしてくれるらしい)
「なんかゴメンね。大部屋に空きが出たみたいで、お父さんが予約を変更したのよ」
ここなら、母さんと2人になれて、俺と鈴音にも目が届く。父さん的には理想的な条件の部屋だ。
「わたしとお父さんは、ロビーでビールを飲んでくるから。ドアの鍵を閉めておいて。せっかくのドリンクインクルーシブ。満喫しないとね」
母さんは襖を閉めた。
ガタン。
父さん達はロビーに行ったみたいだ。
「俺らはお酒飲めないし、部屋でゆっくりしようぜ」
俺が鍵を閉めようとドアの方にいくと、鈴音が抱きついてきた。
ふわりと前髪が揺れて、鈴音から甘い空気が流れてくる。
「最近、仲良しが足りないから、いっぱい甘えたかったの。悠真。大好き」
そのままググッと身体を押し付けてくる。
鈴音の帽子が床に落ちた。
俺は勢いに負けて、小上がりに尻をついた。
鈴音が俺の上に乗ってくる。
「ち、ちょっと」
俺の言葉を気にする様子もなく、鈴音はコートを脱いだ。鈴音の薬指のリングが光る。
「好きすぎて、我慢できないよ」
鈴音の頬が上気している。
視界いっぱいに鈴音の唇。
——ガタン。
俺と鈴音は、ドアの方を見た。




