第91話 澪の色打掛。
旅行前日の深夜、ドアがノックされた。
さっきまで準備していたのに、寝てすぐに起こされた。眠すぎて頭がクラクラする。
「こんな深夜にどうしたんだよ」
「あの、鈴音だけど。朱音ちゃんがどうしても悠真と話したいって」
朱音は枕を抱きしめている。
「うち、明日から、2人と会えないの寂しい。だから、一緒に寝て」
一瞬、朱音が子供の頃の姿に見える。
俺は目を擦った。
鈴音の方を見ると、頷いていた。
すると、朱音は鈴音の手を引いて、ベッドに潜り込んできた。
3人で添い寝すると、居心地がよくて子供の頃に戻ったみたいだ。あの頃は、まだ鈴音とも仲がよくて、朱音もよく遊びに来ていた。
ほんと、また仲直りできて良かった。
♦︎
「んっ……」
寝てしまったらしい。
気づけば、俺は家の食卓にいた。
俺の家だが、壁紙が新しい。
壁掛け時計が逆さまになっていて、秒針が逆に回っている。
……これは、夢だ。
目の前には女性がいて、白くて大きな皿をテーブルに置いた。皿にはハンバーグとサラダ、プチトマトが乗っている。
ハンバーグは、母さんのと似ているけれど少しだけ違う。小さくて、今の俺なら一口で食べれてしまうサイズ。
女性は俺の正面に座ると、微笑んだ。
「どうぞめしあがれ」
俺はハンバーグを口に入れる。
いつものハンバーグよりも、少しだけ甘くて柔らかい。
「母さん、すげーうまいよ」
夢の中の俺はそう言った。
それにしても……母さん?
俺はなんで、この人をそう呼んでいるのだろう。
女性はテーブルに両肘をついた。
そのまま左手を伸ばして、指先が俺の右手の甲にチョンと触れた。色白で細い指。
「よかった。んで、どの子にするの? ふふっ。優柔不断ね。パパ譲りかしら。ねぇ。お嫁さんには、わたしの色打掛を着せてあげて」
指先から温もりが伝わってくる。
♦︎
「んん……」
(あの女性、澪母さんっぽかったのに。夢の中で気づいてあげられなかった)
両腕が重い。目を開けると、俺の右腕を枕にして鈴音が寝ていた。左腕には朱音。
昨日、昔話をしているうちに寝てしまったらしい。
(それにしても、なんて夢だよ)
2人とも、気持ちよさそうな寝顔をしている。
俺は鈴音と朱音の髪を撫でた。
いつかは選ばないといけないって。
ちゃんと分かってるから。
「だから、もうしばらく、2人の兄貴でいさせてくれよな」
俺は天井を見上げて、呟いた。
翌朝。
鳥が囀りはじめる頃に家を出た。
父さんの運転で朱音を横浜まで送ってから、俺たちは伊豆の下田に向かう。
目的地までは150キロ弱。
3時間ほどの道のりだ。
助手席は母さんで、後部座席には俺と鈴音が座った。鈴音は運転席の後ろ側の席だ。
考えてみれば、家族旅行なんて何年振りだろう。少なくとも、鈴音と不仲になってからは行っていない。
鈴音は白いコートを着て、フワフワなベレー帽をかぶっている。整った横顔に、朝陽が形を変えながら、映っては消える。
鈴音と目が合った。
なんとなく気まずくて、俺は、その場しのぎの質問をした。
「そういえば、昨日は写真部にも行ったんだろ? コンテストの写真は決まったの?」
鈴音はまた景色に視線を戻して、頷いた。
「うん。大体は山口くんが選んでくれてたから、わたしと蛍は確認って感じだったかな。資料館で撮った最後の一枚は、蛍の強い希望で横顔の写真になったよ」
あの一枚は、俺も印象に残っている。
「そっか。お前ら、本当に仲がいいよな。羨ましいよ」
鈴音は口を綻ばせた。
「悠真だって斉藤くんがいるじゃん」
たしかに、俺が一番辛い時に助けてくれたのは斉藤だ。
「ま、そうなのかもな。土産でも買って行ってやるか。逆さまにしたら脱げるボールペンとか」
「なにそれ。コンプラ的にダメそう。ほんと男の子って、女の子のことばっかりだよね」
「おまえな。その下心のエネルギーが文明を発展させてきたんだぞ? それに、俺らくらいの年で女子に興味なかったら逆にヤバいって」
鈴音は、唇に人差し指を押し当てた。離した拍子に、綻んだ唇が弾ける。
「悠真って、たまにおじさんくさいんやよ。最近はやたらモテてる悠真お兄様が言うと、説得力がありますわ」
なにやら朱音っぽい口調。
「うっわー。嫌味。ところで母さん、今日の予定はどうなってるの?」
母さんは父さんとの会話を止めると、ちらっと俺の顔をみた。
「少し早めに着くと思うから、まずは澪のところにお墓参りに行く予定。旅館はその後ね。明日は、澪の実家に寄ってからの帰宅です」
澪母さん。
声も温もりも、俺を見つめる視線さえ覚えていない。
もう亡くなっていて、会うこともできない。
ずっと知らないまま過ごしてきた俺。
でも、なんだか落ち着かない。
俺はソワソワを紛らわしたくて、聞いてみた。
「母さん、色打掛って何?」
母さんは、視線を景色に向けて。
それから、俺の目を見つめた。
「花嫁が着る着物よ。澪の色打掛、今でもよく覚えてる」




