第104話 ただいま、母さん。
「悠真くん。あなたに渡すものがあるの」
光希さんがそう言って、俺を廊下に案内してくれようとした。
突然、玄関ドアが開いた。
「ただいまぁ! アタシ、歩きなのにお買い物とかハードすぎるよぉ」
俺と同い年くらいの女の子だった。
黒髪のショートカット。健康そうな小麦色の肌。耳の上には飾りのついたヘアピンが光っていて、手からビニール袋をさげている。
少女は先のすり減ったスニーカーを脱ぎ捨て、俺に気づくと頭をさげた。
「あっ、きみが悠真くん? アタシは、桜坂 風夏。高一で、君の従姉妹になるのかな? たぶん」
可愛い。でも、ドキッとはしない。
これが血縁の距離感か。
「あの、俺、僕……私」
少女は苦笑いした。
「俺、篠宮悠真っていいます。今日はありがとうございます」
光希さんは風夏からビニール袋を受け取ると、俺の肩を、ぽんと叩いた。
「良いところに戻ってきたわ。風夏ちゃん、悠真くんを澪の部屋に案内してあげて」
(澪母さんの部屋? まだ残してあるのか)
「はーいっ。悠真くん、こっち」
風夏は階段を上がった。
健康的なふくらはぎが揺れている。
俺も階段をのぼろうとすると、居間にいる母さんがこっちを見ていた。
なんとなく後ろ髪を引かれながら、トントンと階段を登る。
風夏は2階の廊下の先にある部屋の前で立ち止まった。
「ここが澪叔母さんの部屋」
部屋に入ると、風夏はカーテンを開けた。
20年以上使っていないのだ。
俺は物置みたいな部屋を想像していた。
でも、澪母さんの部屋は、まるでここだけ時間の流れから取り残されたみたいだった。
風夏が窓を開けながら言った。
「今でも使っていそうな部屋だよね。うちは部屋が余ってるし、おばあちゃんが、悠真くんが来るまでは、そのままにしておきたいって」
勉強机やぬいぐるみがあって、壁掛けのカレンダーは1999年の3月のままになっている。
鈴音の部屋よりも、少しだけ子供っぽい。
澪母さんは高校から東京だった。
その後も帰省はしていたと思うが、家を出ていたら衣替えはしないだろう。
この部屋は中学生の澪母さんの記憶。
今の自分の方が年上だと思うと、少し不思議だった。
机の上には木箱があった。
「その箱のが色打掛。んじゃ、わたしは下に戻ってるね。親子のご対面。ごゆっくりどうぞ」
風夏はそう言うと、階段を降りて行った。
「『ご対面』って言われてもなぁ。澪母さんはもう亡くなっているし」
俺は机の前に立った。
薄い木箱の上には封筒。
封筒をあけると、手紙が入っていた。
「悠真。元気ですか? この色打掛を悠真に残します。本当はお嫁さん宛にすべきなのだろうけれど、わたしは知らない誰かよりも、君に残したいです。悠真には、大切な人はいますか? 君から、その女性に渡してください。写真を同封します。あなたとの大切な思い出。よければ、持ち帰ってください。それと、今のお母さんを大切にしてくださいね。篠宮 澪」
手紙は便箋一枚。
「17年ぶりの息子に出すのに、随分と短いな」
箱を開けると色打掛だった。
きっとお祖母さんが手入れをしていたのだろう。春の風を思わせる鮮やかなピンクに花びらが舞っている。
封筒の中には、写真が同封されていた。
まだ赤ちゃんの俺が、澪母さんに抱かれている写真だ。全く記憶にないけれど、写真の俺はご機嫌そうな顔をしている。
——俺、大切にされていたんだな。
それから、しばらく部屋にいた。
泣いたりはしなかった。
でも、今の時間は他人事ではなくて、ちゃんと自分自身のものだった。
「ちゃんと受け取ったから」
そう言って頭を下げた。
手紙と写真だけを受け取って、色打掛は、もう少しだけ澪母さんに預けておくことにした。
階段をおりると、母さんが待っていた。
不安そうな顔だ。
「どうだった?」
母さんの指先は震えていて、氷水につけたように白かった。
あぁ。そうか。
この家に着いた時も、母さんは指先を震わせていた。それは他でもない、俺のためだったのだ。
心配かけて、ごめんね。
俺は笑った。
「色々受け取れたよ」
子供から見れば『親は生まれた瞬間から親』だ。でも、これだけ長い時間、俺を大切にしてくれた母さんを、今更、母さん以外だとは思うはずがない。
「悠真、悠真。わたし、まだあなたの母親でいていい?」
母さんに抱きしめられた。
きっと、不安だったよね。
俺はどこにも行かないから。
「もちろんだよ。ただいま、母さん」




