守られた温もりだけが、残って
瞼がひどく重たく感じた。
けれど、その奥から柔らかな光が、そっと差し込んでくる。
遠くで、風がカーテンを揺らす音がした。
(……光……?)
ゆっくりと瞼を開けると、目に映ったのは見慣れない天井だった。
教室でも、生徒会室でもない。
真っ白な天井と、淡いレースのカーテン。
それが風に揺れて、やわらかく光を反射している。
静けさに包まれた空間。
(……ここは……)
ぼんやりとした意識の中で、記憶が少しずつ形を取り戻していく。
崩れかけた会場。
オリバーさんの声。
そして――あの、光。
「……フィオラ!」
名前を呼ぶ声に、ハッとして顔を横に向ける。
すぐそばで、レオンがこちらを覗き込んでいた。
ホッとしたように息を吐きながらも、その瞳にはまだ不安の影が残っている。
「よかった……本当に、よかった……!」
「目が覚めてくれて、安心した」
反対側から、シリウスの穏やかな声も重なる。
その落ち着いた声音が、胸の奥のざわつきを少しずつ鎮めてくれた。
私は、ぼんやりと二人の顔を見つめる。
少しだけ瞬きをして――ゆっくりと、実感が胸に広がっていく。
(……よかった。二人とも……ちゃんと無事で……)
心からそう思った、その時。
「起きたか」
部屋の扉が静かに開く音がした。
入ってきたのは、アレン様だった。
真紅の瞳に、ほんのわずかに安堵の色が宿っている。
スッと近づいてきた彼は、ベッドのそばに腰を下ろすようにして、私の顔を見下ろした。
「無事でよかった。……気分はどうだ?」
短くも優しいその声が、静かに胸の奥へ沁み込んでいく。
「大丈夫です。……アレン様……あの……」
喉が乾いて、声が掠れる。
けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「……あの後……何があったんですか……?」
弱々しくも、絞り出すように問うと、アレン様は一度だけ目を伏せて、小さく息をついた。
そして、ゆっくりと息を整えるようにして、口を開く。
「――あの後、オリバーが能力を使った。お前の“時間”だけを巻き戻すためにな」
「……え……?」
その言葉が、頭の奥で鈍く響いた。
「【破壊】を覚醒しかけた“直前の瞬間”まで、お前の時間を戻したんだ。……おかげで、能力の暴走を未然に防げた」
その説明の意味を理解するよりも早く、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
何を犠牲にして、それを成したのか――聞くまでもなく、分かってしまったから。
「……実際に、俺もオリバーが能力を使うところを見たのは、今回が初めてだった。まさか、あんな形で【時間操作】を使うとはな」
その言葉に、すぐそばのレオンがぎゅっと拳を握る。
口を開きかけて、けれど何も言えず、唇を噛んだまま視線を落とした。
シリウスもまた、何かを噛みしめるように目を伏せている。
普段は感情をほとんど出さない彼ですら、今は言葉を失っていた。
「セシルも驚いてたよ。『そこまでするのか』ってな。……どうやら、あいつもオリバーの能力については知らなかったらしい」
アレン様の言葉は淡々としているのに、その奥に滲む皮肉と痛みが消えなかった。
オリバーさんの選択が、それほどまでに重いものだったということを、誰もが理解していた。
「それで……あの後すぐ、ノイアー公爵……お前の父上と、国王陛下が迎賓ホールに現れた」
「……お父様と……陛下が……」
その名を聞いた瞬間、頭の奥が真っ白になる。
事態の重大さを、ようやく実感した気がした。
どれだけの混乱が広がっていたのか、想像するだけで胸がざわついた。
「――そして、そのままセシルとラフィンは王宮へ連行された。今回の件は、想像以上に話が大きい。処遇は王宮で決めることになっている」
静かな口調の中に、何かを断ち切るような鋭さがあった。
「そう……ですか。あの、カロンたちは……?」
この部屋にいない仲間たちの姿を思い出し、自然と口が動いた。
その問いに、アレン様はすぐ頷く。
「無事だよ。お前以外の【現実回復】を任せていた。カロンのおかげで、建物も、倒れた生徒たちも、ほとんど元通りだ」
そう言いながら、アレン様は少しだけ表情を和らげる。
「……ただ、カロンの能力は強い分、消耗も大きい。だから無理をさせないように、ルカを付き添わせてある。今は別室で休んでいるはずだ」
「……そう、なんですね……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私が意識を失っていた間も、みんながそれぞれの場所で“戦ってくれていた”。
それが何よりも心強かった。
けれど、ふと気づく。
一人だけ、名前の上がっていない人がいる。
「……あの……オリバーさんは……?」
胸の奥に残っていた一番の疑問が、思わず声になって漏れ出た。
その瞬間ーーレオンが視線を落とし、拳をさらに強く握りしめた。
肩がわずかに震えているのが見えて、嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
隣のシリウスは、普段と変わらぬ静かな表情のまま。
けれど、その瞳の奥はどこか遠く、言葉を探しているように見えた。
――伝えづらい何かがある。
それは、直感で分かってしまった。
(……どうして、誰も答えてくれないの……?)
張り詰めた沈黙を破ったのは、アレン様の低い声だった。
「……今、オリバーは眠っている。いや、正確に言えば……“仮死状態”に近い」
「っ……」
思わず息を呑む。
胸の奥がギュッと縮まり、呼吸が浅く、鼓動は早くなる。
「オリバーは、本来、あんな規模の【時間操作】を行えるほどの力は持っていない」
アレン様は静かに息を吐き、目を伏せる。
「……無理をしてまで、俺たちを救った。どこまでも優しくて……ほんと、勝手なやつだ」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、すぐに押し殺すように続ける。
「俺は……あのピアスが能力の力を増幅するためのものだなんて、知らなかった。てっきり、気に入ってる“ただの飾り”だと思ってた。……誰かからもらったものか、それとも趣味の一つか、そんな程度だと」
その真紅の瞳が、珍しく揺れていた。
普段の冷静さの裏に、抑えきれない痛みが滲む。
「……オリバーは、ずっと何かあった時のためにピアスを使うつもりで“王子”のそばにいてくれたらしい」
一拍の沈黙。
それから、かすかに唇が震えながら言葉を紡ぐ。
「でも俺は……“王子”じゃなく、“アレン”として。一人の人間として、あいつと過ごす時間が……ただ、楽しかっただけなんだ」
アレン様の言葉が、そっと空気の中に溶けていった。
誰も、すぐには何も言えなかった。
胸の奥がじわじわと熱くなる。
喉の奥が震えて、言葉が出てこない。
ただ私は静かに、アレン様の横顔を見つめていた。
その横顔に、だんだんと申し訳なさが込み上げてくる。
「……ごめんなさい。私のせいで、オリバーさんが……」
それを言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
どんなに謝っても、どうにもならないと分かっているのに、今の私には、謝罪しかできなかった。
けれど、アレン様はそんな私に怒ることもせず、ただフッと小さく息をついて、柔らかく笑ってみせた。
「お前のせいじゃない。……オリバーが、お前を守りたくてそうしただけだ」
その声は穏やかで、どこか温かかった。
「むしろ――“お前を守りたい”って気持ちが、あいつの方が強かったってことが……少し悔しいくらいだ」
冗談めかしたような響きの中に、滲む本音。
私は、何も言い返せなかった。
胸の奥で、言葉にならない想いが静かに波打っていく。
――そして、短い沈黙のあと。
アレン様は、小さく息をつき、ほんのわずかに視線を逸らした。
「……俺だって、お前のことを“特別”だと思ってたんだけどな」
ぽつりと落ちたその声は、驚くほど穏やかで。
けれどどこか、遠くを見つめているようだった。
「でも、あいつには敵わない。……あんなふうに、何のためらいもなく、自分の全てを差し出せるなんて、俺には真似できない」
それは、誰にも聞かせるつもりのなかった本音。
けれど今だけは、抑えきれずにこぼれ落ちてしまったのだとーーそう感じた。
するとアレン様が、私の顔を覗き込み、フッと可笑しそうに笑う。
重たくなった空気を解すように、いつもの軽い調子で言葉を続けた。
「お前、その顔……ひどいぞ? あいつが目を覚ましたら、きっと一番に“フィオラに会いたい”って言うと思う」
その声は、どこまでも静かで、けれど優しかった。
まるで、壊れかけた心をそっと包み直すように。
「だから――そんな顔、オリバーには見せないように。……ちゃんと、今は休め」
ぽつりと落とされたその言葉が、静かな部屋に溶けていく。
それきり、アレン様は何も言わなかった。
ただ、短く息を吐いてから、静かに背を向ける。
扉の向こうに消えていくその背中を、私はただ見つめていた。
胸の奥に、言葉にならない熱が残る。
(……オリバーさん……早く……目を覚ましてください……)
その小さな願いだけが、私の中でずっと響き続けていた。




