優しい嘘と、目覚めの前に
けれど――それは、静かな“動き”だった。
音もなく、目にも見えない。
それなのに、空気の奥底で何かがゆっくりと形を変えていく。
まるで世界そのものが、誰かの意思に従って“息を潜めた”ように。
誰も動かず、誰も息をしない。
その沈黙の中で、ただ一人――セシル様の声だけが、穏やかに空気を揺らした。
「……本当は、無理強いはしたくなかったのですが」
紅い瞳が、微かに揺れる蝋燭の光を映す。
その口調は優しく、まるで残念そうに聞こえるのに、そこに宿るのは確かな“支配”の気配だった。
「せっかく、僕から“丁寧に”お誘いしたというのに……フィオラさんが断ってしまったので、こうするしかないんです。……すみません」
柔らかい言葉なのに、胸の奥がぐらりと強く揺れた。
冷たい何かが、静かに――けれど確実に、心の奥を侵食していく。
(……なに、これ……さっきより、苦しい……)
息を吸うたびに、胸の奥がギュッと締めつけられる。
身体から力が抜けていき、どこへ逃げることもできない。
視界の端が滲み、世界の輪郭がゆっくりと溶けていった。
「フィオラ!」
「姉さん!」
その声と同時に、レオンとカロンが私の両側に駆け寄る。
そして迷うことなく、それぞれの能力を発動する――けれど。
「……っ、なんで……!」
「……やっぱり、ダメだ……!」
二人の瞳が驚きに揺れる。
光を纏いかけた力が、まるで見えない壁に押し戻されるように、弾かれて消えた。
「ああ、言い忘れていました」
ふわりと、穏やかな声が落ちる。
セシル様が軽く首を傾げ、紅い瞳を細めていた。
「先ほど、お二人が能力を使用された際に――フィオラさんだけ効かないように【干渉】させていただきました」
「……っ」
ゾクリ、と背中に冷たいものが走る。
「ですから、いくらあなたたちが“助けようと”しても……その想いは、届かないと思いますよ」
優雅な微笑を浮かべたままのその声は、まるで宣告のようだった。
「……このままだと、まずいな」
低く呟いたアレン様の声が、張りつめた空気を震わせる。
その瞬間、グラリと足元が揺れた。
天井のシャンデリアが軋み、光の粒が床に散る。
壁に走った細いヒビが、音もなく、じわりと広がっていった。
(……このままだと……建物が……)
能力の“暴走”によって、この場が――少しずつ壊れ始めている。
目の前の光景が、まるでゲームや夢で見た【破壊】のシーンのように、現実と重なっていく。
その中で、私を支えていた腕の力が、ふっと優しくなった。
「フィオラちゃん」
今の状況には似つかわしくないほど、柔らかく穏やかな声。
すぐ耳元で響くその声は、恐怖の渦の中にあっても不思議と温かかった。
抱きとめるように寄り添うその姿は、いつもと変わらない。
けれど、その瞳の奥には、確かな“決意の光”が宿っていた。
オリバーさんは、私の顔をそっと覗き込み、ふわりと微笑む。
「大丈夫。俺が、君を……いや、みんなを守るよ」
その声は、優しくて静かで。
まるで、ひどく怯えている私の心にだけ届くような、不思議な温度を持っていた。
けれど、その言葉を聞いていたアレン様が、眉を顰める。
「……やめろ、オリバー」
低く、鋭く。
けれど、その声の奥に潜むのは――焦りと、どうしようもない不安だった。
アレン様がこちらへ一歩踏み出そうとする。
けれど、オリバーさんは振り返らず、静かに笑って言った。
「……悪い、アレン。俺はお前の専属護衛騎士なのに、勝手なことをする」
その声音には、迷いの欠片もなかった。
彼の表情には、“誰にも止めさせない”という確かな意志が宿っていた。
「カロン」
「っ……!」
名を呼ばれたカロンが、ハッと顔を上げる。
オリバーさんは、まっすぐ彼の方を見つめていた。
「俺が、フィオラちゃんの“時間を戻す”。だから――君はフィオラちゃん以外、周囲の崩壊や歪みを元に戻してくれないか」
「……っ、それって……!」
その意味を理解した瞬間、カロンの喉が震えた。
けれど、オリバーさんの目を見た途端、すべてを悟ったように表情を引き締める。
そして、大きく――けれど震えるように頷いた。
「……わかりました。やってみます」
オリバーさんは、ふっと微笑んだ。
それはどこまでも優しく、まるで全てを包み込むような笑みだった。
「ありがとう」
短くそう告げると、彼は静かに目を閉じた。
そして――
「戻れ」
呟きのような小さな声が空気を震わせた。
耳元で揺れていたアイオライトのピアスが、眩い光を放ちながら砕け散る。
パリンと、澄んだ音が響いた。
その瞬間、世界が静かに揺らぎ始める。
目の前の景色がふわりと滲み、光の粒が空気の中にほどけていった。
その中心に立つオリバーさんはただ、優しい眼差しでこちらを見ていた。
まるで「大丈夫」と、何も言わずに伝えるように。
オリバーさんが能力を使っている姿を見るのは、これが初めてだった。
【時間操作】――未知の力のはずなのに、不思議と怖くなかった。
眩しいはずのその輝きが、どこまでも温かくて、優しくて。
(……これが……オリバーさんの能力……)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
涙が零れそうになった瞬間、私の意識は、静かに深く沈んでいった。
* * *
――そして、次に目を開けた時。
そこは、どこまでも静かな“夢の中”だった。
まるで世界から音が消えたような、穏やかで温かい空間。
見慣れた学園の中庭に似ているけれど、どこか違っていて――光も風も、優しすぎるくらいだった。
「やっと、落ち着いたね」
振り返ると、そこにはオリバーさんの姿があった。
制服姿のまま、いつも通りの柔らかな笑顔を浮かべている。
「……ここは、夢ですか?」
「多分ね。こうして会話してるのも、きっと一時的なものだろうけど……それでも、会えてよかった」
「なんだか、変な感じですね。こんなに静かなのに、怖くない」
「ふふっ。じゃあ、せっかくだし――目が覚めるまで少し話そう。いつもみたいに」
その言葉に、私は自然と笑っていた。
それは、テラスで交わした他愛のない会話に似ていた。
パンの好みの話とか、図書館で見つけた本のこととか。
ただ笑い合える、穏やかな時間。
――ほんのひとときだけの、優しい夢。
少し前まで、あれほど苦しくて怖かったのに。
今、この空間では、胸の奥のざわめきすら風に溶けていくようだった。
(……オリバーさんの隣は、どうしてこんなに落ち着くんだろう)
心の底からそう思えた。
そして気づけば、自然と口から溢れていた。
「……いつも思ってたんです。オリバーさんの隣にいると……どんな何気ない話でも、ずっと聞いていたくなるんです」
「そう? それは嬉しいな」
フッと笑みを浮かべながら、オリバーさんは柔らかく言葉を続けた。
「フィオラちゃんが笑ってくれるなら、俺はいくらでも隣にいるよ」
クスッと笑うその声が、耳の奥で優しく響く。
胸の奥がじんわりと温かくなって、私はほんの少し俯いた。
そして、言葉を選ぶように口を開く。
「……みんな、ちゃんと無事でしょうか……」
その問いに、オリバーさんは静かに目を伏せ、そしてそっと私の頭に手を置いた。
「きっと、大丈夫だよ」
その声は、穏やかで、包み込むように優しかった。
温もりが頭のてっぺんから胸の奥まで広がっていく。
涙が零れそうになるのを、私は笑顔で誤魔化すように――ゆっくりと息を吐いた。
「……そういえば、オリバーさん。この前“伝えたいことがある”って言ってましたよね。あれって……何だったんですか?」
静かな空間に、自分の声だけが落ちる。
今なら、何にも邪魔されずにオリバーさんの言葉だけを聞ける――そう思っていた。
けれど、オリバーさんは一瞬だけ黙り込んだ。
視線がわずかに揺れ、唇が何かを言いかけるように動く。
その仕草に、胸がぎゅっと締めつけられる。
そして――
「……ごめんね、フィオラちゃん。そろそろ、目が覚めるよ」
それは、優しい告知であり、静かな拒絶だった。
「え……?」
思わず手を伸ばし、オリバーさんの手を取ろうとする。
けれど、彼はただ、ふんわりと微笑んだ。
いつもの“みんなのお兄さん”のような、穏やかで優しい笑顔で。
「またね、フィオラちゃん」
その声が、夢の中で静かに響いた。
――まぶたの裏が、ゆっくりと明るくなる。
静まり返っていた世界が、少しずつ色と音を取り戻していく。
私は、遠ざかっていく彼の声の余韻を胸に抱いたまま。光の方へ静かに引き戻されていった。




