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選択の代償、未来の代償

 



 紅い瞳の奥が、相変わらず何を考えているのか分からない。

 セシル様は変わらぬ微笑を浮かべたまま、ゆっくりと口を開いた。


「それは、とても残念です」


 穏やかな声音。

 けれど、その微笑みの奥に、心からの“残念”など微塵も感じられなかった。


 まるで、すべてを予測していたかのような冷静さ。

 “別の意図がある”そう思った瞬間だった。


 ーーゾクリ。


 背筋を、氷の針が這い上がっていく。

 呼吸が一瞬止まり、胸の奥が強く締めつけられた。


「……っ」


 視界がわずかに揺れる。

 指先が震え、心臓の鼓動が痛いほど早くなる。

 頭の奥で何かが弾けるように、こめかみから鋭い痛みが広がっていく。


(……なに、これ……頭が……割れそう……)


 息を吸うことさえ、うまくできない。

 喉の奥が焼けるように熱くて、世界の音が遠のいていく。


「……っ!……フィオラ……!?」


 焦った声が、かすかに届いた。

 近くにいたシリウスが、私の異変に気づいて駆け寄ってくる。

 けれど、いつものように“心の揺れ”を感じ取ることができない彼は、どうすればいいのか分からないまま、ただ不安そうに私の顔を見つめていた。



「フィオラ!大丈夫か!?しっかりしろ!」


 隣にいたレオンの声が、張り裂けるように響いた。

 彼は反射的に私の肩を支え、必死に自分の能力ギフトを使おうと手を伸ばす。


「……落ち着け……落ち着け……っ!」


 焦りを押し隠すように、何度も呟く声。

 額に滲む汗。

 けれど――その手の温もりだけでは、胸の奥を蝕む“冷たいざわめき”を押さえ込むことはできなかった。


 視界の端が滲み、音が遠のいていく。

 その時、前から低く舌打ちが響いた。


「……クソッ……!」


 オリバーさんだった。

 普段は決して感情を荒らげない彼が、明らかに焦っている。

 鋭くセシル様を睨みつけ、その手が無意識に剣の柄を探った。


 ――それでも。


 セシル様は、まるで舞台の上で“終幕”を眺める観客のように、ただ静かに、すべてを見下ろしていた。


「もう少しです」


 微笑みながら落とされた声は、底知れないほど甘やかで、そして冷たい。

 その一言で、背筋がゾクリと粟立つ。


「すみません。僕……欲しいものは、どうしても手に入れずにはいられない性分なんです」


 紅い瞳が、ゆらりと私を射抜く。

 その笑みは、優雅なのにどこまでも歪んでいた。


 次の瞬間、セシル様はラフィン先生へと視線を向ける。

 言葉はなく、ただ目配せひとつ。

 それだけで、二人の間に通じ合う“何か”があることを悟った。


 そして、ゆっくりとーーまるで幕が下りるように、背を向けた。

 足音が遠ざかるたびに、胸の奥で恐怖が静かに形を成していった。


 最後の足音が消えた時、会場には、息を呑むほどの沈黙だけが残っていた。



「……っ」


 限界は、すぐそこだった。

 膝が崩れそうになり、視界がぐらりと揺れる。

 冷たい汗が背を伝い、息をするたびに胸が軋む。


 揺れる視界の中で、オリバーさんが振り返る。

 そして、無言のまま私を受け止め、その腕でしっかりと支えてくれた。


 けれど――その声も、温もりも、何ひとつ私には届いてこない。


(……だめ、息が……できない……)



 意識の奥が、静かに沈んでいく。

 瞼が重くなり、世界が色も音も失っていく。


 その闇に飲み込まれかけた瞬間――


「――姉さん!!!」


 切り裂くような声が、遠くから届いた。

 顔を上げると、視界の端に見えたのは、見たことのない速さで駆け寄ってくるカロンの姿だった。


 その顔は真っ青で、私を見るなり、表情がみるみる曇っていく。

 膝をついた彼は、迷いもなく私の手を握り、その中に力を込めた。


 次の瞬間、微かな光と温もりが走る。

 何度も感じたことのある、カロンの能力(ギフト)の気配。


 確かに、癒しの力が流れ込んでくるのを感じた。

 これできっと、もう大丈夫。


 ……のはずが、何も変わらない。

 いや、正しくは【現状回復】の力そのものが、いつもより“弱い”。


「……嘘だろ……なんで……?」


 カロンが戸惑うように顔を歪め、もう一度私の手を握りしめる。

 確かに、少しだけ体の重さが和らいだ。

 けれど、それ以上は、良くならない。


 焦りが広がる中、別の足音が、ゆっくりと近づいてきた。


「……遅くなった」


 低く、静かな声。

 それだけで、場の空気が一変する。


 顔を上げると、そこにはアレン様の姿。

 際立つ紅の瞳が、鋭く、冷静に状況を見据えていた。


 その視線が、私を捕らえる。

 いつもの軽やかさも、冗談めいた笑みも一切ない。


「……フィオラ」


 呼ばれただけで、胸の奥がひゅっと縮こまる。

 冷たい水を浴びせられたように、熱がすっと引いていく。

 そして、低く確かな声で告げられた。


「このままだとお前は、確実に自分の能力を暴走させる」


「え……?」


 息が詰まり、足元の感覚がふっと揺れる。

 世界の輪郭が、少しずつ霞んでいった。


 アレン様の言葉に、隣にいたレオンが鋭く反応する。


「何言ってるんだよ!!こんなときに……!」


 怒りと焦りが入り混じった叫び。

 けれど、アレン様は視線を逸らさなかった。

 真っ直ぐに、ただ私だけを見つめていた。


「……さっき、未来が見えたんだ」


 低く、冷えた声。

 その一言に、空気がピタリと張りつめる。


「お前の能力(ギフト)が暴走して――この学園が、崩壊するのを」


 その瞬間、時間が止まったように感じた。

 誰もが息を呑み、誰一人として声を発することができない。


(……本当にわたしが、学園を……?)


 頭の中でその言葉を何度も反芻した瞬間、胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れていく。


 どんなに頑張って抗っても、結局“バッドエンド”を迎えてしまう。

 そんな運命の理不尽さに、唇が震えても言葉は出なかった。

 自分の無力さが、ただ痛いほどに突き刺さる。


 わずかな沈黙の後、アレン様の声だけがはっきりと響いた。


「今は、何より“結果”を大事にしたい」


 視線を遠くへ向けながら、アレン様は静かに言葉を継ぐ。


「まずはお前と、この場にいる全員を守る。それが俺の王太子としての最優先事項だ」


 そしてーーその紅い瞳が、まるでこの場にいないセシル様を見据えるように細められた。


「そのために、俺はセシルと交渉する。――王位継承権を譲る代わりに、フィオラを諦めろってな」


「……でも、セシル様は、“王位”だけを求めてるわけじゃないですよ!」


 オリバーさんに支えられながらも、思わず叫ぶように声が漏れた。

 それは、必死に引き止めようとする気持ちそのものだった。


 私の言葉に、アレン様はほんの一瞬だけ目を伏せる。

 その仕草には、迷いと――それでも進もうとする決意が滲んでいた。

 だからこそ、私は言葉を重ねる。

 この想いだけは、どうしても伝えなければいけないと思った。


「セシル様は……この国の形も、人の運命も自分の手で支配したいと思ってる。そして、この国に“復讐”することが、彼の本当の目的なんですよ」


「……そうかもしれないな」


 アレン様は小さく頷く。

 その横顔はどこまでも静かで、もう迷いはなかった。


「でも、それでも俺は交渉する。たとえそれが本質から外れていても、“時間を稼ぐ”ことはできるはずだ」


 その声に、誰もが息を呑んだ。


「お前と、この場所を守るために――俺は、王子としてじゃなく、“俺自身”としてそれを選ぶ」


 その言葉が空気を震わせた、ほんの直後。


 ――パチ、パチ、パチ。


 静寂を裂くように、乾いた拍手の音が響いた。

 それはあまりに場違いで、あまりに冷ややかだった。


「さすがですね、兄上」


 低く、柔らかな声。

 その響きに、私たちは一斉に振り向く。


 そこには、先ほど去っていったはずのセシル様の姿があった。

 まるで“最初からこの場にいた”かのように、平然と立っていた。


 その笑みは穏やかで、どこまでも整っているのに、紅い瞳の奥には、何か得体の知れない光が揺らめいていた。


 セシル様の横にラフィン先生の姿はない。

 けれどーー彼はただ一人で、この空間の温度を支配していた。


「“王子”ではなく、“自分自身”として選ぶ――理想的で、感動的な言葉でした」


 拍手はすでに止んでいる。

 それでもセシル様の声には、皮肉と余裕が入り混じっていた。


「……けれど、それで何が兄上に救えるのですか?」


 紅い瞳が、まっすぐにアレン様を射抜く。

 静かなのに、逃げ場のない光。


「“未来”というものは、言葉や誓いだけで変えられるほど、甘くはありません。――だから僕は、“手段”を選ばない。全てを手にするために」


 微笑みながらそう告げた彼の顔は、どこまでも穏やかだった。

 けれど、その穏やかさこそが、ゾクリとするほど残酷で、美しかった。


 そう――この人は、“未来”すら、自分の意思で捻じ曲げようとしている。

 その信念の果てにあるのが、希望なのか、絶望なのか。

 今の私には、もう分からなかった。




ここまでお読みいただきありがとうございます。

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