揺れる心に、手を差し伸べるのは
「……っ」
セシル様たちの姿が目に入った瞬間、息が喉に詰まった。
まるでこの瞬間を計っていたかのようにーー二人は、私たちの行く手を塞ぐように立っていた。
「――フィオラちゃん、下がって」
低く、けれど明確な声音。
オリバーさんが一歩前に出て、私の前へと立ち塞がる。
背中越しに感じるその気配は、まるで盾のように強く、頼もしかった。
空気が張り詰める。
紅い瞳と淡い水色の瞳――その二つの視線が、確かにこちらを捉えていた。
(……やっぱり、これは“偶然”なんかじゃない)
すべては、最初からこの瞬間のために仕組まれていた。
そう思わずにはいられなかった。
空気が張りつめ、誰もが息を潜めたその時。
静寂を破るように、柔らかな声が響く。
「そんなに警戒されると、少し傷ついてしまうな」
ラフィン先生が、両手を軽く上げておどけるように笑った。
けれど、その笑みはどこまでも“作られたもの”だった。
「これじゃまるで、私たちがお姫様を誘拐しにきた悪者みたいじゃないか」
その声音は穏やかで、軽やかーーそれなのに、空気の底を冷たく震わせる。
誰の目にも、そこに“意図”があることは明らかだった。
「……大体、合ってるじゃないですか」
オリバーさんの静かな声が、それに応じる。
彼は口元にわずかな笑みを浮かべながらも、その金色の瞳は一切笑っていない。
穏やかな“みんなのお兄さん”ではなく、任務のために剣を抜く“騎士”の目。
ゾクリと、背筋が粟立つ。
空気の温度が、ほんの一度、下がった気がした。
そして、沈黙を割るように、セシル様の落ち着いた声が響いた。
「……兄上は、まだこんな“使えない人間”を傍に置いてたんですか」
皮肉を滲ませながら、セシル様が薄く笑う。
紅い瞳が、まるで獲物を試すようにオリバーさんを見据えていた。
「やはり、“ただ未来が見えるだけ”の人間は、人を見る目がないようですね」
その一言に、オリバーさんの微笑がスッと消える。
場の空気が、ひと呼吸分だけ静止した。
そして次の瞬間、彼のの気配が、明確に変わった。
穏やかだった空気の奥から、鋭く研ぎ澄まされた何かがにじみ出す。
視線ひとつで剣を抜くような、静かな“殺気”。
(……きっと、アレン様のことを侮辱されたから)
胸の奥でそう思った瞬間、視線を向けられていない私でさえ、全身の血がヒヤリと冷たくなる。
オリバーさんの肩越しに見えるラフィン先生とセシル様は、そんな“殺気”さえも愉しむように、穏やかな笑みを浮かべていた。
冷たい火花が、三人の間で――静かに散った。
そんな張り詰めた空気の中、不意に低く落ち着いた声が割り込んだ。
「そうそう。シリウス君」
静かに名を呼ばれたシリウスの肩が、かすかに揺れる。
その声の主は、ラフィン先生だった。
「君の能力、“読心”が一切使えなくなるように、少しだけ【干渉】させてもらったよ」
柔らかな笑みを浮かべながら放たれたその言葉に、シリウスはわずかに目を見開く。
けれど、驚きの声を上げることはなかった。
「いつも君は、フィオラ君の心の揺らぎを敏感に察して……さりげなく助けていたみたいだからね」
ラフィン先生はそこで言葉を切り、ゆっくりと首を傾げる。
紅茶を味わう時のような穏やかさで、その瞳だけが、獣のように光った。
「――でも、能力が使えない君に、彼女を“守れる”のかな?」
その声は、試すようでいて、どこか愉悦を含んでいた。
まるで、相手の反応を心から楽しんでいるかのように。
シリウスは、何も言わなかった。
ただ、静かにラフィン先生を見据える。
その瞳に宿ったのは、怒りでも怯えでもないーー氷のように澄みきった、決意の色だった。
短くも強い沈黙が、場の空気を支配する。
息を呑む音が重なり、誰もが次の言葉を待っていた。
そんな中、私の目の前にいるオリバーさんが更に一歩前に出る。
その背中に守られるように立つ私へ、セシル様がふと、笑みを向けた。
「フィオラさん。……あなたは先ほど、“大切な人たちの未来を守りたい”と仰って、私の提案を断りましたね」
声音は穏やかで、まるで談話の続きを語るよう。
けれど、その穏やかさの奥に潜む圧は、じわじわと胸を締めつけてくる。
「……はい」
小さく、それでもはっきりと頷くと、セシル様はゆるやかに微笑んだ。
その微笑は美しく整っているのに、どこまでも冷たい。
「では、今のあなたはどうですか?」
「え……?」
問いの意味を掴めないうちに、紅い瞳が鋭く細められる。
「あなたは“守る”と言った。けれど今こうして、あなたは彼らに“守られている”ようにしか見えません」
「っ……」
胸が詰まり、言葉が出ない。
その沈黙を見逃さず、オリバーさんが低く制するように声を発した。
「フィオラちゃん、聞かなくていい」
けれど、セシル様の口は止まらなかった。
「もしかして、あなたは“守る”という言葉の裏に隠れて、自分が“守られること”に――甘えてはいませんか?」
その声は静かに、けれど確実に心を抉っていく。
胸の奥がひりつき、熱くも冷たくもない痛みが広がっていった。
(……違う、そんなつもりじゃないのに)
否定の言葉を探しても、喉がうまく動かない。
彼の言葉が、まるで心の奥を“見透かされている”ようで怖かった。
(……私は、本当に、みんなを“守れる”の?)
不安と自問がせり上がってきて、思考が濁っていく。
世界の音が遠のき、胸の奥で何かが崩れ落ちかけた――その時だった。
「――フィオラ!」
鋭く、それでいて優しい声が、会場の空気を切り裂いた。
振り向くより早く、温かくて力強い腕が、私の肩をそっと抱き寄せる。
「大丈夫だ。お前は、甘えてなんかない」
その低くて真っ直ぐな声に、胸のざわめきがスッと消えていく。
見上げた先には、レオンがいた。
いつもの無邪気な笑顔じゃなくて、真剣で、それでいてどこまでも優しい瞳。
「……落ち着いたか?」
ぽん、と頭に置かれた手が温かくて、胸の奥がじんと熱くなる。
頷こうとしても、声にならない。
「レオン……」
彼の声も、手のひらの温もりも、全部が優しくて。
心のどこかに張りつめていた糸がソッと、解けていくようだった。
レオンの手が離れた後、私の鼓動は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
けれど、そんな空気を割るように――
「……へえ」
穏やかな声が、すぐそばから響いた。
セシル様が、興味深げにレオンを見つめている。
「先程も拝見しましたが、あなたの能力、【精神操作】ですよね?……珍しいものではありませんが――」
そこでセシル殿下は、フッと微笑んだ。
「その“効き方”、かなり強いですね。下手に鍛えたところで手に入るものではない。……お見事です」
そう言った後、セシル様は興味深そうにレオンを見つめる。
「そうだ、レオン殿。もしよろしければ、あなたも、僕と“縁”を結びませんか?」
「……は?」
レオンが眉を顰めると、セシル様は穏やかな微笑みのまま続ける。
「あなたの力は、“従う相手”次第で世界を変えられる。私の元に来れば、その可能性をもっと引き出せると思うのですが――いかがです?」
セシル殿下が柔らかく微笑みながら差し伸べた手にレオンは、間髪入れず、言葉を放った。
「……悪いけど、俺はそういうのに一切興味ないんだわ」
いつもの軽口はどこにもなく、レオンの瞳は真っ直ぐに、ただセシル様だけを見据えていた。
「この能力が、ずっと嫌でたまらなかった。……誰にも言えないくらい、ほんとにな」
困ったように笑いながらも、その目だけは真剣で。
彼の声が、夜の静けさに溶けるように響く。
「けど、大切な人たちのためなら、使ってもいいって……初めて思えたんだ」
一拍置いて、レオンは視線を前へと戻す。
その瞳に宿るのは、迷いではなく、確かな決意だった。
「俺は……誰のためにこの能力を使うのか、もう決まってる」
その言葉には、レオンらしい強さと真っ直ぐな想いが込められていた。
セシル様は、一瞬だけ目を細め、静かにレオンを見つめ返す。
そして、唇に淡い笑みを浮かべた。
「……そうですか」
その声は柔らかく、けれど、どこか冷たく響いた。
落胆なのか、興味なのか。判別のつかない微妙な温度のまま、セシル様はわずかに視線を逸らした。
その瞬間、空気がふっと揺れる。
夜の静寂が戻った――そう思ったのも束の間、その奥で、確かに“何か”が動き始めていた。




