その未来は、誰の幸せか
会場の喧騒が、ゆっくりと落ち着きを取り戻しはじめた頃。
私はレオンとシリウスと並び、ホールの奥の陰からそっと様子を伺っていた。
視線の先には、笑みを崩すことなく談笑を続けるセシル様の姿がある。
整った立ち姿、穏やかに交わされる言葉、その全てが洗練されていて、周囲の女子生徒たちはうっとりと見惚れていた。
けれど、その完璧さが逆に、恐ろしい。
まるで“現実の人間”ではなく、誰かが描いた理想の王子様そのもののようで。
(……何か、変な感じ)
笑顔の裏側に潜む、冷たい何か。
胸の奥がざわりと波立ったその瞬間、隣に立つシリウスが静かに息を吸い込む。
その横顔に目をやると、彼もまた、同じ違和感を感じ取っているようだった。
「なあ、あんなに人気でずっと囲まれてたら……フィオラに何か仕掛けるのは難しくないか?」
退屈そうに背を伸ばしながら、レオンが小声でそう呟く。
確かに、セシル様の周囲には途切れることなく人が集まり、その輪の中心で彼は、まるで“光”のように微笑みながら誰とでも言葉を交わしていた。
その笑顔に、偽りの影は見えない。――けれど、それが逆に怖い。
「それは、一理ある」
レオンの疑問に、シリウスが静かに応じる。
彼の声は穏やかだったが、そこに潜む緊張は隠せなかった。
「でも、セシル殿下と話した人たちが“二つのパターン”に分かれる現象は、まだ続いてる。……あまり気を緩めない方がいいと思う」
その言葉に私は小さく頷き、再びセシル様へと視線を向ける。
彼は笑みを絶やさぬまま、談笑の輪から輪へと優雅に移動していく。
けれど、どんなに人の波が変わっても、決して私の方へは近づいてこなかった。
(……どうして、来ないの? それとも、今はまだ“その時”じゃない?)
胸の奥がきゅっと鳴る。
見つめているうちに、彼の仕草ひとつ、瞬きひとつまでもが意味を持って見えてくる。
まるで、知らず知らずのうちに“視線を奪われている”ようで――鼓動が、静かに速まっていく。
不安を振り払うように、なんとなく隣のレオンを見上げた。
すると、ちょうど視線がぶつかる。
「……っ!」
レオンは一瞬で顔を赤くし、慌てて頭をかきながら目を逸らした。
「そ、そんな顔すんなよ!ずるいぞ!」
「え……?」
すると瞬きをする間もなく、レオンの手が私の頭に伸び、ぽん、ぽん、と優しく撫でた。
その掌の温もりが、胸の奥の不安をゆっくりと溶かしていく。
「……ずるいだろ。そんな顔されたら、勝ち目ないのに……本気になる」
ぽつりと零れた声は、いつもの明るいレオンのものではなかった。
ほんの少しだけ弱気で、どこか切なげで――それが、胸の奥に静かに響く。
思わず、心臓が跳ねた。
目を合わせられなくて、息をするたびに頬が熱くなる。
(レオン、こんな顔……するんだ)
何か言おうとして――けれど、言葉は喉の奥で引っかかったまま出てこなかった。
胸の鼓動がまだ落ち着かず、私はレオンの顔をまともに見られない。
その時だった。
私たちは、ほんの少しだけ気を緩めすぎていたのかもしれない。
すぐそばまで、“それ”が忍び寄ってきていたことに――誰も、気づけなかった。
「フィオラさん」
低く、よく通る声が耳を打つ。
驚いて顔を上げると、そこには先ほどまで会場の中央にいたはずのセシル様が、まるで空気を裂くように立っていた。
ほんの手を伸ばせば触れられる距離。
鮮やかな紅い瞳が、今度は確かに私を見据えている。
彼の笑顔は、先ほどまで見ていた柔らかな微笑とまったく同じ。なのに、なぜか背筋がヒヤリと冷えた。
「今、少しだけ……お時間をいただいてもいいですか?」
穏やかな口調なのに、拒むことを許さないような響き。
その一言に、胸の奥がぎゅっと強張った。
わずかに息を呑む私の前で、セシル様は静かに首を傾ける。
そして、ゆるやかに視線を巡らせながら、会場を一望した。
その仕草には、一片の迷いもない。
まるでこの場の空気すら、自分の掌で転がしているかのようだった。
やがて、セシル様は穏やかな微笑を浮かべたまま、レオンとシリウスへと視線を向ける。
「お二人には、ご心配をおかけしません。……ただ、少しだけ。静かな場所で、彼女と二人きりで話がしたいのです」
その丁寧すぎる言葉には、拒否の余地がない。
レオンが訝しげに眉をひそめ、何かを言いかけたその瞬間ーー隣のシリウスが、そっと彼の肩に手を置いた。
「……わかりました」
低く、抑えた声。
レオンの視線が私に向けられる。
その目に宿る不安と警戒を感じ取って、私はほんの少しだけ頷いた。
「ありがとうございます。では、中庭に移動しましょう」
セシル様は柔らかく頭を下げ、ゆっくりと踵を返した。
その一連の所作が、まるで舞踏のように滑らかで、完璧すぎて怖い。
私は一歩、そしてまた一歩と、その背中を追いかける。
けれど、意識のどこかで、背後から注がれる二つの視線を感じていた。
ーーレオンとシリウス。
二人が確かに、私を見守っている。
それだけが、心の奥でかすかな安心を灯していた。
* * *
しばらくの間、私たちは言葉を交わさずに歩いた。
遠くで響く音楽の余韻が、ゆるやかに廊下を抜けていく。
そして、中庭の入り口に差しかかった時、セシル様が不意に立ち止まった。
「……ここなら、誰にも邪魔をされずに話せますね」
振り返った彼の瞳が、沈みかけた夕陽を受けて紅く光る。
それは、まるで夕空に溶けた茜色がそのまま宿ったような、艶やかな紅だった。
照らされたその姿が美しすぎて、言葉を失う。
けれど、その美しさの奥に、どうしようもない冷たさを感じた。
息を詰める私を前に、セシル様は静かに口を開く。
「もし、僕とフィオラさんが“手を組み”、どんなことも思い通りにできるとしたら――あなたは、どうしますか?」
「……え?」
あまりに唐突な言葉に、思考が追いつかない。
喉の奥が乾き、声が掠れる。
「ど、どういう意味ですか……?」
セシル様は一歩、夕陽の光の中を進み出た。
光と影の境界に立つその姿は、現実よりも幻想めいて見えた。
「そのままの意味です。あなたの【破壊】と、私の【縁の選択】。二つの能力が合わされば、この国の未来も、人の運命も――僕たちの思い通りにできる」
穏やかな声。優雅な口調。
けれど、その奥底に潜んでいるのは、静かで――それでいて確かな“支配”だった。
傾き始めた太陽の光が、彼の輪郭を金色に縁取る。
風がそっと吹き抜け、揺れる木々の影が、まるで世界ごと彼に従っているように見えた。
「……縁の、選択」
思わずこぼれた私の言葉に、セシル様はゆるやかに微笑んだ。
その笑みはどこか夢のように優しいのに――なぜか、背筋がひやりとする。
「僕の能力です。人と人の関係に宿る“縁”――それを繋げることも、断ち切ることもできる」
夕暮れの風が木々を揺らし、光が彼の頬をかすめる。
その穏やかな声は続いた。
「必要な縁は繋ぎ、不必要な縁は切る。……そこに【破壊】が加われば、この国の形も、人の運命も、いくらでも僕たちの手で組み替えられる」
その言葉は、まるで理想を語るように穏やかだった。
けれど、そこに宿るのは救いではなく、支配だけ。
セシル様は、わざとらしいほど柔らかく笑みを深め、一呼吸置いてから静かに言葉を落とす。
「試しに、まずは――僕とフィオラさんの“縁”を結ぶところから始めてみませんか?」
「え……?」
その言葉の意味を理解するより先に、鼓動が跳ねる。
笑みを崩さぬまま、彼はまるで何気ない提案でもするように続けた。
「そして、あなたの【破壊】で王の座を譲るよう、兄上に“お願い”するんです。もし、それで拒まれたのなら…….兄上には、残念ながら“壊れて”いただくしかありません」
ピタリと、空気が止まる。
あまりにも自然な声色。
優しさの仮面を被ったまま、その奥で何かが確かに“狂っている”。
(……この人、おかしい……)
言葉を返したいのに、恐怖が喉を締めつける。
セシル殿下は、そんな私の反応を楽しむように、ゆっくりと唇の端を上げた。
「もし、あなたが選ばないのなら、僕が“選んで差し上げます”。だから、安心してください」
それはまるで、舞踏会でダンスを誘うような優雅な囁き。
柔らかな声のはずなのに、背筋が凍るほど冷たかった。
そして――次の瞬間だった。
胸の奥が、鷲掴みにされたように強く締めつけられる。
(……っ、な、に……これ……!? 息が……)
喉が焼けるように熱く、空気が吸えない。
視界の端がにじみ、指先から力が抜けていく。
何か見えない糸が、心の奥に絡みつくような感覚。
まるで、“何か”が私の中に侵入してくるみたいだった。
(……これ……もしかして……セシル様の能力……?)
思考の隙間に、さっきの言葉が蘇る。
――『僕が選んで差し上げます』。
その一言が、まるで呪いのように胸の奥で響き続けていた。
見えない糸が、ゆっくりと心を締め上げていく。
呼吸が浅くなり、胸が軋む。
音も光も、すべてが遠くへと霞んでいった。
(……やだ……まだ、終わりたくない……)
伸ばした指先が、空を掴むように震える。
何かに触れようとしても、世界が遠ざかっていく。
視界の端で――紅い瞳が、ゆらりと揺れた。
その光が、私を縛る糸の奥で、静かに微笑んでいた。




