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恋と運命の幕が上がるとき 3

 



 ラフィン先生以外、誰も口を開こうとしなかった。

 いや、口を開けなかった。


 それを分かっているのか、先生はわざと間を置いて、楽しむようにゆっくりと続けた。


「けれど……もし、フィオラ君が“選べない”時がきたら」


 その声は、囁くように穏やかで。

 淡い水色の瞳が、ゆっくりと細められる。


「セシル殿下に委ねるといいよ。……彼に“選んでもらえれば”、絶対に君も幸せになれるから」


「……っ」


 その言葉は、柔らかな光のように聞こえるのに、内側に冷たい毒を含んでいた。

 まるで、甘い蜜に誘い込まれる蝶のような感覚。

 穏やかなのに、逃げられない。――そんな危うさが、空気ごと肌を撫でていく。


 すると、それまで沈黙を守っていたカロンが、静かに一歩前へ出た。


「……ラフィン先生。僕たちは、個人的な話をしていただけです。失礼ですが、よく分からない話はやめてください」


 いつも通りの丁寧な口調。

 けれどその声音には、はっきりとした拒絶と、カロンとは思えないほどの強い警戒が滲んでいた。


 その言葉に、ラフィン先生は一瞬だけ目を細め、そして軽く肩をすくめる。


「これは、失礼。場を乱すつもりはなかったんだけどね」


 そう言って、何事もなかったかのように踵を返す。

 足音が遠ざかるたびに、張り詰めていた空気が少しずつ解けていく。


 けれど、先生の残した言葉だけは、耳の奥で何度も何度も繰り返し響いていた。

 そのたびに、胸の奥が締めつけられる。

 何度息を吸っても、うまく呼吸ができない。


(……私が、“選べない”って言ったら……どうなるの?)


 指先が冷えて、微かに震える。

 胸の中で、不安が形を持たないまま膨らんでいく。

 心の奥が、見えない闇に少しずつ呑まれそうになった――その時、背後から甘えるような声が落ちた。


「ねえ、先輩。今日もぎゅーってしていい?」


 声と共にふわりと背後から、細い腕がそっと絡む。

 頬に触れる柔らかな髪の感触。

 不意に現れた温もりが、凍りついていた心をゆっくりと解かしていく。


「先輩ってさ……僕のために生まれてきたんだと思うんだ」


「ル、ルカくん……?」


 ルカくんの言葉に、思わず戸惑いの声を漏らすと、彼はふっと微笑んだ。

 けれどその笑みには、いつもの甘えた調子とは違う、どこか底の見えない真剣さが滲んでいた。


「だからさ。セシル殿下じゃなくて――僕が、フィオラ先輩を幸せにするよ?」


 その言葉に、心臓が跳ね上がる。


「……っ」


 喉が詰まって、うまく息ができない。

 どう返せばいいのかも分からない。

 ただ、彼の腕の温もりだけが、やけに鮮明に伝わってくる。


(こ、これじゃ……まるで告白のワンシーンみたい)


 胸の奥が妙に熱くなって、思考がまとまらない。

 そんな空気を迷いなく壊したのは、すぐ隣から落ちた低い声だった。


「……こんな時に、僕たちの前で何をやってるの?」


 それは、冷たくも静かなカロンの声。

 視線を向けると、彼の瞳には明らかな警戒の光が宿っていた。

 更に、シリウスはルカくんの思考を確かめるように目を細め、レオンは言葉を飲み込むようにして息を呑む。


 ルカくんは「しょうがないな」と小さく呟くと、私を抱きしめる腕をわずかに緩め、くるりと三人の方へと向き直った。

 そして――ふわっと、無邪気な笑顔を浮かべる。


「だって、誰にも負けたくないんだもん」


 その言葉は軽く聞こえるのに、不思議と胸の奥に引っかかる。

 いつもの笑顔のはずなのに、ほんの一瞬、その奥に“別の何か”がちらりと見えた気がした。


 それでも、レオンが小さく笑い、シリウスが息を吐く。

 カロンもわずかに表情を緩めて、重かった空気がほんの少しだけ和らいでいった。



 * * *



 それから気づけば、親睦会はすでに中盤へと差しかかっていた。

 会場は程よい賑わいを保ち、楽団の旋律と人々の談笑が穏やかに混ざり合っている。

 煌びやかな光の中に笑顔が溢れているはずなのに――その中心で、私はひとり歩いていた。


 セシル様やラフィン先生と話したあの時から、胸の奥に生まれた不安はまだ消えない。

 華やかな音の波に包まれているのに、まるで自分だけ別の世界に立っているような気がしていた。


(……誘うなら、もう時間がない)


 別れ際、セシル様は「後ほど、ゆっくりお話しましょう」と言っていた。

 けれどあれから、彼が私のそばに近づいてくる気配はない。


 セシル様は相変わらず、多くの貴族や生徒たちに囲まれ、穏やかに微笑んでいた。

 その笑みの裏に、何を企んでいるのか――それを確かめるのが、"囮"である私の役目。

 もちろん、それは独断ではない。


 ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた柱の陰にレオンとシリウスの姿が見えた。

 二人は目が合うと、わずかに頷く。

 その仕草だけで、胸の奥に張り詰めた糸がほんの少しだけ緩む。


(……大丈夫。ちゃんと、みんなが近くにいる)


 そう心の中で呟きながら、もう一度深呼吸をした――その瞬間だった。



「……フィオラさん」


 不意にかけられた声に振り向く。

 そこに立っていたのは、セシル殿下でも、ラフィン先生でもなかった。


 見覚えのある顔ーーどこかソワソワとした同じクラスの男子生徒だった。

 けれど、彼とまともに話すのはこれが初めてだ。


「あ、こんにちは」


 少し戸惑いながらそう返すと、彼は気まずそうに笑い、手にしていたグラスを軽く持ち直した。


「いや、その……突然、ごめんね。こうして話しかけるの、初めてなのに。フィオラさん、いつもレオン君とかシリウス君と一緒にいるから、タイミングがなくてさ」


「……うん」


「それに、弟さんといる時も、ちょっと話しかけづらくて。前に会釈しようとしたら、すごく睨まれた気がして……それから少し避けてたんだ」


「え……?」


 驚いて言葉を探すよりも早く――


「何の話をしているんですか?」


 背後から、低く、静かな声が落ちた。

 その瞬間、空気がひやりと張り詰める。


 振り向けば、そこには無表情のカロンの姿。

 さっきまで会場の様子を見ていたはずなのに、いつの間にか私のすぐ後ろにいた。


 カロンの瞳は淡い光を宿したまま、目の前の男子生徒を真っ直ぐに射抜いている。

 何も言葉を足さずとも、その視線だけで十分だった。


 すると、男子生徒の顔から血の気が引き、手の中のグラスがわずかに震える。


「っ、す、すみません……!」


 瞬時に短く頭を下げると、彼はまるで何かに追われるように背を向け、人混みの中へと姿を消していった。


「……カロン?」


 思わずその名を呼ぶと、カロンはわずかに目を細める。

 薄紫色の髪が灯りを受けて揺れ、その横顔には微笑が浮かんでいた。


「会場全体を見ていたはずじゃ……どうして?」


 問いかけると、カロンは穏やかな声で答えた。

 けれど、その奥には氷のような冷たさが潜んでいる。


「……姉さんに近づく“悪い虫”は、全部排除するのが僕の役目だからね」


 その静かな一言に、背筋がぞくりと粟立つ。

 けれど私が何かを言うより早く、カロンは一歩、音もなく近づいてきた。


 やさしい微笑を浮かべたままのその顔。

 けれど、その瞳の奥に揺れる光は、確かに“温度のないもの”だった。


「やっぱり姉さんの視界に、他の男なんていらないよ。……全部、俺だけにしない?」


 声は、ひどく優しい。

 けれど、その優しさはまるで、絹でできた鎖のようだった。

 柔らかく、静かに、逃げ場を奪うように――私の心を締めつけていく。


「……っ」


 声にならない音だけが喉から零れ落ちた。


「なんて、冗談だよ」


 カロンはふわりと笑って、まるで何もなかったかのように肩をすくめる。

 その仕草があまりに自然で、さっきまで感じていた圧が幻だったように思えてしまう。


「驚いた? ごめんね、姉さん。ちょっと意地悪したくなっちゃっただけなんだ」


 軽く笑って数歩下がる彼を見つめながらも、胸の奥にはまだ冷たい棘が残っていた。


(……本当に、冗談だったの?)


 たしかに、目の前のカロンはいつもの穏やかな笑顔をしている。

 けれど、その奥底に潜む“何か”だけは、どうしても拭えなかった。


 ふと、カロンが小さく息を吐く。

 俯いたまま数秒の沈黙を置いてから、ゆっくりと顔を上げた。


「姉さんは、魅力的だから。……誰かに取られちゃうんじゃないかって、心配になるんだ」


 その言葉は、あまりにも優しく、そしてーー少しだけ甘すぎた。


 不意に向けられた声に、心臓が大きく跳ねる。

 大切な弟相手なのに、胸の鼓動が早くなるのを止められない。


 いつもよりほんの少し低くなった声。

 揺れる睫毛の影、真剣に射抜くようなオパールの瞳。

 それらがひとつになって、息が詰まるほどに近く感じられた。


(……どうして、私……こんなにドキドキしてるの……?)


 視線を逸らすこともできない。

 まるで、何かに引き寄せられているような感覚。


 けれど、その張り詰めた空気を断ち切るように、別の声が私にかけられた。


「おい、何かあったのか?」


 レオンの声が背後から響いた。

 ぱっと振り返ると、少しだけ息を切らせた彼が立っている。


 その瞬間、私とカロンの間に張り詰めていた空気が、音もなくほどけた。


「さっき、フィオラの様子が変に見えて……心配になって」


「……えっ、あ、あの、それは……!」


 慌てて言葉を探す私の代わりに、カロンがすぐに口を開いた。

 穏やかで、よく通る声。けれど、どこか冷たさが隠れている。


「大丈夫ですよ。少し話をしていただけだから。ね? 姉さん」


「えっ、あ、うん……」


 頷きながらも、胸の奥のざわめきはまだ静まらない。

 喉の奥がきゅっと締めつけられるようで、私はそっと手を胸元に当てた。


(落ち着いて……カロンは弟。……私の、大切な弟)


 そう自分に言い聞かせるように深呼吸をする。

 けれど、カロンの柔らかな笑みがまだ脳裏に残っていて――それが“弟の顔”ではないように思えて、うまく息ができなかった。


 その時、少し遅れてもうひとつの足音が近づいてくる。

 その気配は、今の空気を断ち切るように静かで、確かな存在感を持っていた。


「レオンが……邪魔をしたでしょ?」


 柔らかい声――けれど、その奥に小さな棘を含んだ響き。

 その声が私とカロンの間に落ちた瞬間、空気がぴたりと止まった。


 顔を上げると、いつの間にかシリウスがすぐ傍に立っていた。

 月明かりのような静けさと優しさを湛えた瞳が、ゆっくりと私を見つめる。


「……えっ、そ、そんなことないよ! 全然!」


 慌てて否定する私に、シリウスはどこか含みのある笑みを浮かべた。

 けれど言葉の続きを告げることはなく、ただ視線だけを残して一歩、静かに下がる。


 その様子に、レオンはむぅっと眉をひそめた。


「なんだよ、お前ら! なんで、俺には分からない話してんだよ?」


「さっきのは、ただの姉と弟の会話ですよ。ね?」


 カロンがさらりと笑って言う。

 けれど――ついさっきまでの彼の言葉や視線を思い返せば、

 それが“ただの姉弟の会話”だったなんて、とても思えなかった。


 胸の奥に残った熱。

 その余韻が、未だに指先の震えを止めてくれない。


(……それにしても、今日はみんなの様子が少し変だ)


 アレン様も、ルカくんも、そしてカロンも。

 まるで物語の終盤みたいに、真っ直ぐに気持ちや視線を私に向けてくる。



 ――もしかしたら。

 目の前にいるレオンとシリウス、そして今ここにいないオリバーさんも。

 みんなが何かを隠していて、けれどその“何か”を伝えようとしているのかもしれない。



(……これは、ヒロインの勘、みたいな……?)


 そんなことを思いながら、私はそっと息を吐いた。

 今はただ、目の前に広がる光景を静かに見つめる。


 会場の喧騒は、次第に華やかさを増していく。

 けれど、この小さな一角だけは、別の時間が流れているかのように、ゆっくりと、静かに、次の幕へと沈んでいった。




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