夕暮れに揺れる約束と願い
親睦会を前日に控えた放課後。
夕暮れ色に染まった廊下を、私は一人で歩いていた。
窓の外では、傾いた陽が長い影を伸ばしている。
装飾品の準備もようやくすべて終わり、張りつめていた緊張の糸が、ようやく少しだけ緩んだ気がした。
(……明日が、本番)
胸の奥が、じんわりと高鳴る。
結局、親睦会までに私の能力を完全に覚醒させることはできなかった。
けれど、不思議と不安はなかった。
みんなが私のために動いてくれている――その確かな“支え”が、心の奥で静かに灯っていたから。
そんなことを思いながら、曲がり角に差しかかろうとした、その時。
「フィオラちゃん?」
柔らかな声が、夕暮れの廊下に響いた。
顔を上げると、向こうからオリバーさんが歩いてくる。
オリーブ色の髪が茜色に染まり、いつもより鮮やかに見えた。
「ちょうどよかった。少し、話せるかな?」
「……はい。大丈夫です」
頷いた私に、オリバーさんはホッとしたように微笑む。
その笑みがあまりに優しくて、胸の奥に残っていた緊張が、完全に溶けていくのを感じた。
二人で広い廊下の窓辺に並んで立つ。
ガラス越しの夕陽がオレンジ色の光を帯び、床にも長い影を描き出していた。
静かな時間が、まるで一枚の絵のようにそこに流れていく。
「セシル殿下には、あれから話しかけられたりしてない?」
不意に向けられた声に、私は驚いて瞬きをした。
その穏やかな口調の裏に、微かな警戒の色を感じながら、急いで答える。
「はい。あ、でも……廊下で姿を見かけたり、なんとなく視線を感じたりすることは、少しだけ……」
「そっか。気にし過ぎるくらいには、用心していてほしいんだ」
オリバーさんはゆっくりと窓の外に視線を移し、淡い光を瞳に映す。
その横顔は穏やかなのに、言葉のひとつひとつに確かな重みがあった。
「――あの人は、突然距離を詰めてくることがあるから」
その言葉が落ちた瞬間、夕陽の茜色がほんの少しだけ濃く見えた。
それに、オリバーさんの声は穏やかだったけれど、奥に潜む警戒の色は紛れもなく本物だった。
「……オリバーさんと、セシル殿下は……あまり仲が良くないんですか?」
ふと胸に浮かんだ疑問を口にすると、オリバーさんは一瞬だけ目を伏せ、それから困ったように笑った。
「うん、まあ……仲が悪いというか、一方的に嫌われてると思う。セシル殿下は、俺のことを昔から気に入ってなかったんじゃないかな」
「え……?それって、どうして……」
問い返す私に、オリバーさんはそっと視線を落とした。
まるで昔の記憶を思い出すように、小さく息を吐く。
笑みを浮かべているのに、その瞳の奥には、淡く沈んだ光が宿っていた。
「実はね、俺……本当は平民の生まれなんだ。珍しい能力を持ってたおかげで国に保護されて、それで子爵家の養子になった。でも、王太子であるアレンの傍に置くには“身分が釣り合わない”って、昔からよく言われててさ」
淡々と語るその言葉は軽やかに聞こえるのに、その笑顔の奥に、小さく刻まれた痛みの影が確かに見えた。
まるで、誰にも見せたくなかった古傷が、夕陽に照らされて一瞬だけ覗いたようだった。
それでも、オリバーさんは変わらず優しく笑って、静かに続けた。
「あと、俺の能力が【時間操作】って話を前にしたでしょ?……実はね、全然役に立たないんだ」
「そう、なんですか?」
「うん。発動する条件がかなり厳しくてさ。それに、一度使うと身体にすごい反動が来るんだ。だから、一日に何度もはとても無理なんだ。……“珍しい”ってだけじゃ、意味がないよね」
軽く笑って言うその声が、どこか遠く響くように聞こえた。
私は、胸の奥がきゅうっと痛くなるのを感じた。
そんな中、オリバーさんはふと左耳に触れる。
いつも着けているアイオライトのピアスが、夕陽の光を受けて淡く光った。
「このピアスはね、“どうしようもない時”のために着けてるんだ。……もし、自分の力以上に“時間を戻さなきゃいけない”状況になった時のために」
「……それを使ったら、どうなるんですか?」
思わず問いかける私に、オリバーさんは少しだけ目を伏せた。
その瞳の奥に、一瞬だけ決意の光が灯る。
「使ったことはないから、正確にはわからない。でも――おそらく、反動はすごいと思う。それでもね。もし、それで“大切な何か”を守れるなら……俺は、迷わないよ」
その言葉とともに、彼の耳元でアイオライトが小さく揺れた。
夕暮れの光を受けて、まるで静かに瞬く星のように――優しく、けれど強く、煌めいていた。
「……オリバーさんって、やっぱりすごいですね」
思わず口にすると、オリバーさんはわずかに目を瞬かせた。
そして次の瞬間、ふっと肩の力を抜いたように笑う。
「ありがとう。……あのさ」
彼は少しだけ体の向きを変え、まっすぐに私を見つめた。
夕陽の光が金色の瞳に反射して、淡く橙色に揺れている。
「こんなこと言うのは、少し恥ずかしいけど……俺はフィオラちゃんのためにも、このピアスを使うよ。俺にとって、君はーーすごく大切な存在だから」
「えっ……?」
不意に向けられた真っ直ぐな言葉に、喉が詰まる。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねた気がした。
優しい声。穏やかな瞳。
そのどれもが嘘ではなくて、
本気で――私に想いを伝えてくれている。そう感じずにはいられなかった。
言葉を返そうとしても、声が出てこない。
ただ胸の奥が熱くて、息が少しだけ震える。
そんな私を見て、オリバーさんはふっと表情を緩めた。
「……ごめんね。急にびっくりしちゃうよね」
そう言って、くしゃりと笑う。
その照れくさそうな笑顔が、あまりにも柔らかくて。
胸の奥がじんわりと温かく満たされていくのを、私はただ感じていた。
「……いえ。すごく、嬉しいです」
絞り出すようにそう言うと、オリバーさんはわずかに目を瞬かせる。
それから小さく視線を逸らし、照れたように笑った。
その声は柔らかく、けれど確かな想いが滲んでいた。
真っ直ぐな言葉が、まるで夕陽の光のように胸の奥へ差し込んでくる。
オリバーさんの表情から、彼が私に何を伝えようとしているのか――感じとってしまう。
それはまるで、ハッピーエンドへと繋がる前のワンシーンみたいだったから。
(……そんなわけ、ないよね。私が、自意識過剰なだけ……)
鼓動が静かに速まっていく。
恥ずかしさと、ほんの少しの期待を誤魔化すように、私はそっと小さく頷いた。
オリバーさんは私の返事を見ると、どこか安心したように微笑んだ。
その笑顔が、胸の奥に静かに残る。
「その時が来たら、ちゃんと伝えるね」
そう言って、彼は夕陽の差す窓辺を振り返った。
茜色に染まる横顔が一瞬だけ揺れて、すぐに光の中へ溶けていく。
私たちは、どちらともなく、自然と横に並んで歩き出す。
窓の外では、日が沈みかけ、空が金から群青へとゆっくり色を変えていく。
(……ついに、親睦会を迎える)
穏やかで、それでいてどこか張り詰めた夕暮れの空気。
それが胸の奥に静かに染み込んでいくのを感じながら、私は小さく息を吐いた。
――“明日”が、何事もなく、無事に終わりますように。
そう心の中で、静かに願った。




