幻の王子が笑うとき
その日の朝、学園はいつもと違うざわめきに包まれていた。
早朝の光が差し込む廊下のあちこちから、期待と興奮を混ぜた声が飛び交う。
「えっ、それ本当……!?」
「セシル殿下って、噂の第二王子よね?」
「しかも、今日から転入って!」
通り過ぎるたびに、誰かがその名を口にする。
そのたびに、胸の奥がわずかにざわついた。
第二王子、セシル=ヴェンツェベルク。
語学の天才と呼ばれ、長らく他国へ留学していた“もう一人の王子”。
彼が突然帰国し、今日からこの王立学園に編入してくるというのだ。
(……どう考えても、タイミングが良すぎる)
周囲の盛り上がりとは裏腹に、胸の奥に冷たい違和感が広がっていく。
廊下のざわめきが、まるで遠くの波の音みたいにぼやけて聞こえた。
(アレン様があんな状態になったばかりなのに……今度はセシル様……?)
前世の記憶でも、その名前は文字でしか知らなかった。
ゲーム本編には決して姿を現さない、“幻の第二王子”。
だからこそ、その存在が、得体の知れない不安を呼び起こす。
(できるだけ、近づかないようにしよう)
心の中で、そっとそう誓った。
けれどそんな私の決意など、生徒たちの熱気の中に、あっという間に掻き消されていくのだった。
「えっ、待って!素敵過ぎない?!」
「見て!あの微笑み……!」
「まるで、物語の中の王子様みたい!」
校門の方から、歓声が一斉に湧き上がった。
何事かと生徒たちが駆け出していく中、私も思わずそちらへと視線を向ける。
王家の紋章が刻まれた馬車の前に、ゆっくりと降り立った青年。
柔らかな陽光を受けて、白金に近い髪がきらりと光る。
そして、ルビーのように鮮やかな赤い瞳が、優雅に周囲を見渡した。
アレン様とはまた違う。
どこか“静かな貴公子”という言葉が似合う、落ち着いた微笑。
その一挙一動が絵画のように整っていて、周囲の女生徒たちは息を呑んだまま見惚れていた。
「皆さん、ごきげんよう」
低く穏やかな声が、広場に柔らかく響く。
「今日から一緒に学ばせていただきます。どうぞよろしくお願いしますね」
完璧な微笑とともに軽く一礼すると、たちまち拍手と黄色い歓声が起こる。
その光景はまるで劇の一幕のようだった。
(……すごい……完璧すぎる)
立ち姿も、声も、笑顔の角度までもがまるで“作られた理想”。
そう感じた瞬間、胸の奥に冷たいものが流れ込む。
(……きっと、何か裏がある)
私は背筋をわずかに強張らせ、人混みから静かに目を逸らした。
華やかな歓声の中、自分だけが別の温度を感じているようだった。
「……フィオラ?」
後ろから聞こえたレオンの声に、ハッと我に返る。
振り向くと、彼が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「って、大丈夫か?! 顔……怖いけど」
「……大丈夫。セシル様って、何考えてるのか分からなくて……ちょっと苦手なタイプだなって思ってただけ」
そう言って笑おうとしたけれど、唇が少しだけ震えていた。
レオンが「そっか」と曖昧に頷いたその時。
――コツ、コツ。
規則正しい足音が近づいてくる。
空気が、ひとつ静かに張り詰めた。
「やっと……お会いできましたね。フィオラさん」
その声を聞いた瞬間、肩がびくりと跳ねる。
「……え……?」
思わず振り向いた先に立っていたのは、つい先ほどまで遠くの馬車の前にいたはずの人物ーーセシル様だった。
彼は微笑を浮かべたまま、真っ直ぐに私を見つめている。
その瞳は、アレン様と同じ王族の証――深紅の宝石のような赤。
けれど、彼の瞳の色はどこか淡く、まるで冷たい光を宿しているようにも見えた。
笑っているのに、どこか“温度”を感じない微笑。
その視線が私の名を呼ぶたびに、胸の奥で小さな警鐘が鳴る。
(……どうして、私の名前を……?)
理由も分からないまま、背筋を冷たいものが撫でていった。
「驚かせてしまいましたか? でも……貴方のことは、ずっと気になっていたんです」
その穏やかな声に、胸の奥がざわめいた。
思わず後ずさると、靴の底が石畳をかすかに鳴らす。
その瞬間、レオンが私の前に一歩踏み出した。
「なんだよ、いきなり。フィオラに用でもあんのか?」
王族相手とは思えない、低く抑えた声。
その一言に、レオンの警戒心がはっきり滲んでいた。
けれど、セシル様は微笑を崩さない。
むしろ楽しげに目を細めながら、穏やかに言葉を紡ぐ。
「ええ。兄上の“婚約者候補”に、少し興味があったので。ご挨拶を兼ねて……ね?」
優雅に口角を上げるその仕草は、まるで舞台の上の俳優のよう。
けれど、その笑みにほんの一瞬だけ影が走った気がした。
(……やっぱり、何か“普通じゃない”)
そう思った時、セシル様の瞳がゆるやかに動き、私の背後へと向く。
「ご一緒の方たちは……噂の“仲良し三人組”ですか?」
その言葉に合わせて、彼の視線の先を追う。
ゆっくりと歩み寄ってくるのは、静かな足音とともに現れたシリウスだった。
彼はレオンの隣に立つと、落ち着いた声で口を開いた。
「はじめまして。セシル殿下」
その声音は穏やかで、礼を失していない。
けれど、どこかに鋭い冷たさが潜んでいた。
まるで一瞬で相手の心を見透かすような、静かな強さがそこにある。
セシル様はほんの少しだけ瞼を細め、そして口元をわずかに緩めた。
「はじめまして、シリウス殿」
その声色に、かすかな愉悦が滲む。
まるで“君のことは最初から知っていた”とでも言いたげに。
(……どうして、名前を?)
胸の奥がざわめいた。
彼の言葉に、レオンもシリウスもほんのわずかに眉を動かす。
(それに、この空気……ラフィン先生に初めて会った時と似てる)
そう思った瞬間、背筋がひやりと冷たくなった。
「それでは、そろそろ教室に行きます。また改めて、お目にかかれるのを楽しみにしていますね」
セシル様は緩やかに一礼し、くるりと踵を返す。
その動作は、まるで舞踏会の一幕のように滑らかだった。
廊下の角を曲がり、その姿が完全に見えなくなっても私たちは、しばらくその場を動けなかった。
沈黙の中、胸の鼓動だけがやけにうるさく響く。
(……すごく、嫌な予感がする)
セシル様は穏やかに笑っていたはずなのに。
あの目は、まるで心の奥まで覗き込むようだった。
その余韻がまだ消えないうちに、廊下の奥から足音が近づいてくる。
トン、トン、トン。
その足音は次第に速く、重くなっていった。
「フィオラ!」
名前を呼ぶ声に振り返れば、そこには息を切らしたアレン様とオリバーさんの姿があった。
普段の落ち着きとは違う、焦りの色を帯びた表情。
その姿に、思わず私は息を呑む。
「アレン様と……オリバーさん?」
アレン様は一度深く息を吸い、真っ直ぐにこちらを見据える。
「……セシルには、もう会ったか?」
「え……?」
「“どこで”会ったの?」
重ねるように響いたオリバーさんの声。
低く落ち着いたその声音には、焦りと警戒が混ざっていた。
「あの……さっき、ここで。少し話しかけられただけ、ですけど……」
思わず、声が震えた。
自分でも、喉の奥がひどく乾いているのが分かる。
「……やっぱり、か」
アレン様の唇から、低く掠れた声がこぼれた。
そのひと言が、静かな廊下の中に沈み込むように響く。
次の瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。
何か取り返しのつかないことが、もう始まってしまっている。
「あの人……セシル殿下は、どうして……?」
震える声で問うと、アレン様は一瞬だけ目を細めた。
その紅の瞳に、一瞬、迷いのような光がよぎる。
「まだ、正直わからない。……セシルとは、何を話した?」
「“少し興味があった”って……それから、“また改めてお目にかかれるのを楽しみにしてます”って」
自分でも声が掠れているのがわかった。
それでも、どうにか絞り出すように伝えると、オリバーさんが低く息を吐いた。
「やっぱり、狙いはフィオラちゃんなのか?」
「え……?」
「セシル殿下がこのタイミングで帰国したのは偶然じゃない。……少なくとも、俺たちはそう考えてる」
穏やかな彼の声から、温度がすっと消えていた。
いつもの柔らかい微笑みの代わりに、鋭い眼差しだけが残る。
空気がひりつくように張り詰めた。
その静寂を破るように、アレン様が続けた。
「お前の能力噂が、どこまで洩れてるのか……セシルが何を企んでるのか、まだ分からない。けど、"お前を婚約者にする”って計画。あれは本当の可能性は高い」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮まる。
(……やっぱり、そうなんだ)
視界の端で、光が滲んだ?
廊下を吹き抜ける風、制服の擦れる音、遠くの笑い声。
全部が現実なのに、どこか他人事のように感じて……静かに拳を握りしめた。
「……私は、どうすれば……いいんでしょうか」
自然にこぼれたその言葉は、自分でも驚くほど小さくて、頼りなかった。
それでも、誰かに縋るように、私はアレン様とオリバーさんの顔を見上げた。
「――俺たちが、守る」
アレン様の声が、静かに、けれど確かに響いた。
その一言に込められた覚悟が、胸の奥にじんと広がっていく。
隣では、オリバーさんが穏やかな笑みを取り戻し、ゆっくりと頷いた。
「フィオラちゃんは、自分でどうにかしようとしなくていいよ。……俺たちが味方だから」
その優しい声に、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
「俺だっているからな!」
レオンが、むくれたように口を挟む。
その表情が少し照れているようで、思わず笑いそうになる。
「俺たちは“仲良し三人組”なんだ!忘れんなよ?」
その軽口が、まるで灯りのようにあたたかく空気を照らした。
そして、少し間を置いてシリウスが、静かに口を開く。
「……大丈夫。フィオラの側には、いつも俺たちがいる」
その声は、穏やかで、それでいて不思議なほど強かった。
胸の奥の震えが、少しずつ溶けていくように感じた。
(……もう、一人で未来を選ばなくていいんだ)
かつて“選択肢”の向こうにしかなかったものが、今は、確かにこの手の届く場所にある。
彼らがくれた温かさが、心の奥のざわめきを少しずつ溶かしていく。
不安の中に、それでも小さな希望の灯がともるのを感じながら――私は、静かに頷いた。




